最期に見たモノ
一五四三年 尼子紀伊守国久
『孫四郎(尼子国久)、我らが父(尼子経久)の築き上げたこの地を更に大きくしていこう。その為にはお前の武の力が必要不可欠だ。私が家督を継いだ折には孫四郎。お前を右腕と思い、頼りにさせてもらうからな。私を支えてくれ』
そう言っていた兄、民部少輔政久、いや、又四郎兄上は信じられないほど呆気なく、この世を去った。儂の持っていないものを全て持っていた、そんな兄だった。
目が覚めた。随分と懐かしい夢を見たものだ。あれは、又四郎兄上が死ぬ前の言葉だったか。兄上も尼子家を心配しているのかもしれぬ。
敬愛していた。
だが、それと同時に兄上は眩しすぎて、儂自身の不甲斐なさを晒され続けている様な劣等感を常に感じていた。
兄は戦の指揮は巧みで、政を理解し、そして風雅を愛した。父から見ても又四郎兄上は自慢の息子だっただろう。それが羨ましかった。
儂には自分を鍛えることしか出来なかった。頭を働かせるようになったのもそれなりに年を重ねてからだった。だからこそ若いうちから理解を示していた兄の凄さに忸怩たる思いを感じた。でもあの頃は、劣等感を感じながらも、それでも又四郎兄上に従っていればきっと尼子家は大きくなれるのだと漠然と考えられた。それだけ儂は兄上に頼り切っていたのだろう。
だがそんな兄は信じられない程にあっさりと命を散らした。いや、信じたくなかった。そして、何故か兄上に裏切られたような気持ちになったものだ。
支えさせてくれるのではなかったか。一緒に尼子家を大きくしていくのではなかったか。
何が風雅だ。武士は武士らしくしておれば死なずに済んだのに。
若い頃が良く喚き散らしたものだ。今思えば恥ずかしい限りだが。ふ、夢の盛夏期分が物悲しいわ。さてそろそろ起きるか。
儂は体を起こし、朝日に照らされながら木刀を振るう。幼い頃から繰り返していた朝の日課だ。そして冷たい井戸水を桶で掬うと頭から二度三度と浴びて汗を流してから朝食を食べ始めた。
昨日、月山富田城より使いが来た。戦勝祝いの宴の案内だ。
これが最後やもしれぬ。夢で兄上を見たせいか、最後に三郎詮久と対したいと思った。勿論、罠の可能性もある。だが、和解する最後の好機かもしれぬ。そう思うとどうしても断ることが出来なかった。毛利家の手の上でわざわざ踊らされる訳にはいかん。
「俺も行くか?」
不意に声が聞こえ顔を上げると部屋の外には式部少輔(尼子誠久)が立っていた。無表情でこちらを見ている。こちらの考えを読んだのか?こやつは時折そういった勘の良さを見せる。
「…供は孫三郎(尼子豊久)を考えておる。お前はこの新宮谷を守っていてくれないか。お前は儂の跡を継ぐのだからな」
一瞬、式部少輔を伴って行こうか迷った。だが思いとどまりこの我らの故郷、新宮谷の守りを命じる。式部少輔と三郎は関係がいいとはお世辞にも言えない。この和解する好機をこやつが壊す恐れがないとも限らん。
「…そうか」
儂の返事を聞いた式部少輔はそれほど気にした様子もなく、だが儂をじっと見つめた後にそう一言呟くと去っていった。どことなく足音にいつもの荒々しさがないように思う。
あのような粗忽者ではあるが儂を案じてくれたのやもな。そう思うと自然と笑みがこぼれた。幾つになっても倅は可愛いものよ。去っていく足音を聞きながらふとそう思った。
明くる日、儂は式部少輔に話した通り孫三郎を供に、月山富田城に入った。宴の前に一度話したい。そう三郎には伝えてある。程なくして三郎からは了承の返事が来た。自分から話を誘っておいてなんだが三郎が許可を出したのは意外だった。或いは三郎も同じ心持ちであったのか。いや、期待するのは意味がない。とりあえずは話す機会だけでも得られたのだ。それで良しとすべきであろう。
月山富田城にある儂の部屋で暫く待っていると三郎の小姓が呼びに来た。部屋を出ると既に孫三郎も控えている。儂は孫三郎と共に小姓の後に付いて行くと広間に通された。中には既に三郎が待っているという。
「紀伊守様、孫三郎様をお連れ致しました」
「入れ」
「失礼致します。中へどうぞ」
小姓が部屋の中に声を掛けると三郎からの声があった。襖がすっと開き中に案内されるまま中に入ると上座に三郎が座っている。
斜め後ろに孫三郎を控えさせ儂は下座に腰を下ろして頭を下げる。すると『面を上げよ』と声が掛かった。そして三郎の表情を確認して察した。ああ、儂はここで死ぬ。理由は分からぬが何故だかそう理解できた。
だが三郎はその気配をおくびにも出さずに声を掛けてきた。
「紀伊守、まずはご苦労であったな」
「はっ、ですがどうやら毛利に嵌められたように御座います」
「いや、紀伊守は立派に備中を落としたではないか。儂では真似の出来ぬことだ。故に褒美をやろう」
そう言って三郎が右手をそっと上げると四方の閉まっていた襖が一斉に開き武装した兵士が姿を現した。室内の為かそれぞれ短い刀を構えているようだ。指揮者は、山中三河守(山中満幸)。殿の懐刀か。
焦りは無かった。この部屋の雰囲気は物々しすぎた。戦場に似た空気を纏っていた。だからだろう、自分が死ぬことを納得できてしまった。
「父上…!」
後ろから孫三郎の声が聞こえた。警戒していたのであろうが狼狽えた声だ。まあ、この状況では仕方あるまいな。
「何を笑っておられるか、紀伊守殿」
兵を率いている三河守がそう声を荒げた。指摘されてはじめて気づいたが儂は笑っているらしい。いや、現に楽しくなってきておるのは否定できん。
「いや、何。儂も甘いものだと思ってな。この期に及んで和解などと甘い夢を見た自分が可笑しくて笑っておるのよ。それにしても大歓迎ではないか、三郎。儂にはお誂え向きの宴だな」
それにしても儂はなんとも甘いことか。甥のことを何ひとつ分かってはいなかった。いや、分かっていないからこそ、こうして討たれるのであろうな。
ふふ、兄上が夢に出てきたからかな。死した際にはあの世とやらで文句の一つでも言わねばなるまい。そう思うと余計に可笑しかった。笑みを浮かべたまま三郎を見るといつもの興味なさげな表情でこちらを見ていた。答える気はないらしい。本当に可愛げのない男よ。
そうして話しているうちに一人の兵が襲い掛かってきた。痺れを切らしたのであろう。堪え性の無い兵よ。その程度の剣筋で儂を殺そうなどとは片腹痛いわ。
「死ねい!」
頭上には振り下ろされた刀。懐に潜り込むように座っていた身体を起こすとそのまま柄頭を押さえて受け止める。そのまま押し上げると何をされたか分かっていない兵の顔が見えた。腰の入っていない刀のなんと軽いことか。振り下ろされた刀は再び兵の頭上に戻す。
すかさず兵の腰に差されている脇差を抜いて兵の首筋を切り裂いた。斬られた傷口からは鮮血が勢いよく噴き出し兵は事切れた。何のことか分からずに死ねたであろう。
「この戯けが。その程度で儂を殺せると思うな。…さあ、次は誰が相手をしてくれるのか。儂の勝利を祝う宴なのだろう?」
言葉にすると余計に笑みがこぼれてしまう。思ったほど儂の心は乱れておらんな。どこかでこうなることを予想していたからか。
それにしてもなんとも大層な事か。儂を討つためにこれ程の兵を用意してくれるとはな。ざっと見たところ百以上はおろう。あるいは二百か。これ全てが儂の命に群がってくる。久々に血が騒ぎおるわ。
それにしても孫三郎には余計な宴に付き合わせてしまったな。儂は死ぬにしても孫三郎だけは逃がさねばなるまい。
一瞬の出来事だったからであろう。三郎の用意した兵たちが怖気付くのが分かった。ここが好機か。
「孫三郎来い!」
「…はっ!お供致します!」
一瞬の空虚を突き儂と孫三郎は廊下に続く出入口へと駆け出す。最初に襲ってきた兵の刀を拾い脇差は出入り口を塞ぐ兵たちに投げつけた。脇差とはいえ立派な刃物だ。当たれば怪我をするだろう。だからこそ空虚を突かれた兵たちは咄嗟に避けることを選択した。だがそれこそ思うつぼよ。脇差を避けて出来た道に二人で駆け抜けた。背後からは『追い掛けよ!必ず討ち取れ!』と三河守の声が聞こえる。
「孫三郎、お前はこの事を式部少輔に知らせよ、儂が時間を稼ぐ」
「何を仰います!二人で逃げましょう!」
「いや、囮がおらねば二人で死ぬことになる」
「でしたら私が残りまする!父上は逃げて下され!」
「ならぬ!…孫三郎、命令だ。生きて、式部少輔を支えよ。これを儂からの遺言と思え。良いな」
「…無念に御座います」
走りながら、孫三郎は泣いていた。男が人前で泣くことも無かろうに。
「儂の分まで生きろよ、孫三郎。そして式部少輔に伝えよ。この乱世を好きに生きよと。思うままに駆けよと」
「はっ!必ず、必ずお伝え致します…!」
「儂は大手門にてお前の道を作ろう。大手門を抜ければ振り返らずに新宮谷まで駆けよ」
「…分かりました。父上、おさらばに御座います!」
「達者でな、孫三郎」
外に出たところで孫三郎は厩の方に駆けていった。後は儂の仕事を果たすのみ。
どうせ死ぬるなら戦場が良かったな。いや、ここもある意味では戦場か。父上は畳の上で死んだ。戦って死ねるなら贅沢は言えんか。
そこかしこから駆けてくる足音や怒号が聞こえてくる。そろそろ追い付くか。
「居たぞ!紀伊守だ!」
手柄欲しさに次々と群がってくる雑兵たちをいなしながら大手門に辿り着いた。ここが儂の死地か。まさか我らの本城、月山富田城で死ぬことになるとは夢にも思わなかった。大暴れしたいがどうせなら槍が欲しい所であった。
「お覚悟召され、紀伊守殿」
三河守も追いついたらしい。兵たちを率いて儂を睨んでいる。儂の知らぬ間に随分と家中を纏めあげたようだ。だがその三郎の姿は無かった。最期まで理解できぬ甥であったな。
「儂が死ぬことをか?もちろん覚悟はしているさ。だがな、ただで死ぬつもりはない。この尼子紀伊守国久、最期の戦に貴様らも付き合ってもらうぞ」
「さあ!者ども、紀伊守を討ち取れ!」
「応!」
三河守の号令と共に、追いかけてくる間際に槍に持ち替えたらしい兵たちが一斉に襲い掛かってきた。有難いことだ。わざわざ儂の為に槍を持ってきてくれるとはな。
最初の一番槍を身体を逸らして躱し、その槍の柄を掴む。持ち主と目が合い思わずニヤリと自分の頬がつり上がるのが分かった。
「ひい!?ふぐ…!!」
情けない悲鳴を耳にしながら持っていた刀でその兵の首を掻き斬った。鮮血が自分に降り注ぐ。そのままガタリと力を失った兵が倒れ、手放した槍を構えた。愛用の槍ではないが仕方あるまい。
最初の兵が死んでもすぐさま新しい穂先が襲い掛かってきた。それも一本ではない。堪らず後方に飛ぶように躱した後に奪った槍を力のままに振った。
「その程度の攻撃が儂に通ると思ったか戯けが!!」
「ぐあぁ!!」
三人ほどを巻き込みながら敵兵を吹っ飛ばしたがそれだけで槍は折れてしまった。やはり雑兵の素槍ではこの程度か。儂の膂力では耐えきれぬ。刺すことしか出来そうにないな。だが楽しい。そうよ、こうして暴れたかったのだ。若い頃を思い出す。
「ははっ!」
「余裕を与えるな!囲え!次々と攻撃を加えて体力を消耗させよ!」
今や敵兵と化した尼子兵を前にしても笑みが零れる。だが三河守も的確に指示を出している。儂一人では高が知れているからな。だがそれでいい。儂一人が死なぬ限り孫三郎は逃げ果せるであろう。そんな時に敵の向こうから馬が一頭走ってくるのが見えた。孫三郎だ。上手くここまで来れたようだ。儂が逃げるつもりがないことも理解しているのだろう。そのまま敵の後方を避ける様に馬を駆けさせていた。
孫三郎と目が合う。やはり倅は泣いていた。今生の別れだな。こうしてみると立派に育った。式部少輔に追従し過ぎるのが玉に瑕であるが将帥としての力量は式部少輔よりも上であろう。式部少輔は前線でこそ輝く。あの二人がそれぞれの役割を果たせば簡単には負けぬであろう。
儂は見送る様に一度頷くと孫三郎が逃げやすい様に前に出て敵兵を引き付ける。孫三郎も納得したのか着物の袖で涙を拭うとそのまま前だけを見て駆け抜けていった。そしてこの小さな戦場から倅は離脱していく。それでいい。後は儂がどれだけこやつらを足止めできるかだな。腕が鳴る。
三河守は孫三郎に気付いていただろうが追う様子がなかった。儂だけでも討てれば良しと思っているのか、それとも別に兵が動いている可能性もある。だが知る由もないし残念だが手一杯だな。まあいい。後は孫三郎の運を信用するしか無かろう。
それよりも儂は儂の戦を楽しむとしようか。鎧を着こんでいない分、身体は軽い。また槍を奪わねばな。突き出された槍を躱す。雑兵とはいえいくつも槍が襲い掛かってくればまぐれにでも儂の身体を掠める攻撃も中にはある。胸元がジワリと温かくなったのを感じる。恐らく斬れて血が出たのだろう。だが痛みは無かった。
その中の一本を再び掴むと力一杯に振り回した。雑兵の膂力程度で儂を抑えられるはずもなく手を離した兵は後ろにいた兵を巻き込みながら倒れた。右手には槍を持ち敵を牽制するように突き、左手には刀を持って状況により攻撃してきた敵の首を掻き斬る。何度も、何度も何度も。はは、これこそが懐かしき戦場だ。
山中三河守満幸
私は夢でも見ているのか。幼い頃より、紀伊守殿の武勇伝はよく聞いていた。それこそ尼子に仕える身であれば儂と同じ世代から下であれば皆が知っているだろう。
だが、これほどとは。
所詮は多勢に無勢。始まればすぐに片が付くと思っていた。だがどうだ。日が中天を過ぎる前に始まったこの争いは既に夕暮れに近付いていた。
血に塗れた紀伊守殿は今もうっすらと笑みを浮かべながら、幽鬼のように朧げに立っていた。これが尼子の武を代表していた一人の武人。
こちらの被害は既に三十人以上は殺されていた。怪我人も含めれば七十~八十はやられているだろう。数だけを聞けば私は無能な武士だ。既に兵は増員されている状況だった。一人の男にどれだけの被害を出したのだと叱責されるだろう。だが、今この私の目の前に立っている紀伊守殿を見ても同じことを言えるだろうか。それほどまでに凄まじい男だ。
恐らく矢を用いればすぐにでも殺せただろう。だが、そのような卑怯な真似は出来なかった。敵対したとはいえ紀伊守殿に憧れが無い訳では無い。だからこそ、武士として死なせてやるのがせめてもの情けだと思った。そしてそれもそろそろ終わりだろう。
紀伊守殿は随分と前からその場から動くことが無くなっている。恐らく既に足の力が入らなくなっているのだろう。立っているのも覚束ないのか何本も奪われた槍の最後の一本の柄を地面に付けて身体を支えている様子だ。だがこちらが襲い掛かる度にまるでこちらの動きが見えているかのように身体を最小限に動かして躱しそしてまた新しい屍が作られた。既にその身体は真っ赤に染まっている。紀伊守殿自身の血なのか、こちらの兵の血なのか。
その得体の知れない強さに兵たちは及び腰になりつつある。
「三河守様…」
「…楽にしてやれ」
私は側近の兵たちに最後の命令を出す。静かに頭を下げた兵たちが駆け出し一歩も動けないだろう紀伊守殿に殺到した。繰り出される槍は十本以上。これで最後だ。
突き出された槍が何本も紀伊守殿の身体を貫いていく。既に躱す力も残っていないようだった。口元から咳き込むように血が溢れ出る。そしてその場に膝から崩れ
「…みかわ、のかみ」
掠れた声がやけに耳に届く。紀伊守殿の声だった。まだ、意識があるのか。聞き届ける必要があるだろう。私は駆け寄り膝を付く。紀伊守殿は死ぬ前とは思えない程はっきりと私と目を合わせた。
「最後に何か言いたいことは」
「…ひさびさ、に、たの、しい、いくさであった…。かんしゃ、する…」
「…」
こちらの被害を考えると笑えぬ。だがこの方にとってはそれすら楽しい戦程度の感覚なのか。今更ながら戦慄が走る。
そして不意に紀伊守殿の表情が和らぎ、何か懐かしいものを見る様に虚空に手を伸ばした。
「ああ…、あに、うえ…。ともに、あまご、の、はたを…」
兄上?三郎様の御父君の民部少輔政久様の事か。憎み嫌っていたのではなかったか。
そう呟いた瞬間、虚空を掴もうとしていた手がだらりと落ち、首がかくりと力を失った。
【新登場人物】
山中三河守満幸 1520年生。尼子家臣。白鹿城主。息子の山中鹿之助が有名。+10歳




