尼子の最精鋭
一五四三年 熊谷兵庫頭信直
少輔次郎様(吉川元春)たちがこの場を走り抜けて行かれた。どうやら三村兵も我らと変わらぬ速さで駆けている様子。やるものだ。ただの農兵だと思っていたが侮れない。惜しむらくは連携がうまく取れない事か。連携さえ取れていればまだやりようがあった。惜しい。この窮地も少しは変わったであろうが無い物強請りをしても仕方がないか。
走り抜ける間際、少輔次郎様と視線が交わる。
『ここを頼む。死ぬな』そう言われたような気がした。いや、そう言われたのだろう。少輔次郎様もなかなか無茶を仰る。だが主からの命令だ。何とか果たしてみせねばな。小さく頷くと少輔次郎様も頷かれた。少輔次郎様だけでもお逃がしせねば。少輔次郎様だけでも逃がすことが出来れば吉川家はまだ立て直せる。
暫く経った頃、次は孫四郎殿(今田経高)たちが駆けてくるのが見えた。第一陣は上手く敵の出鼻を崩すことが出来たようだ。月明かりだけではよく見えぬが怪我をした兵の姿も居なそうだ。兵の数も減っていないように見える。
どうやらこの作戦は有効のようだ。山本勘助春幸、その軍略を持ちながら牢人でいたことが恐ろしい。だが今は味方だ。それがなんとも頼もしいの。少輔次郎様が欲しがったのも頷けるわ。
儂だけその場で立ち上がり片方の腕を高く突き上げる。すると儂に気付いたのだろう、孫四郎や平左衛門尉含む兵士たちが同じように腕を上げた。上手いこと出鼻を挫くことが出来て誇らしげだ。さすがは命知らずの今田隊よ。
勝鬨を上げたいところだがここで声を上げては居場所が悟られる。今はこれだけで我慢しておこう。さて、次は儂の番よな。儂もうまく時間稼ぎをしてみせるぞ。
孫四郎たちが駆け抜けて行った後、再びこの場所に静寂が戻る。時折布の擦れる音や甲冑の擦れる音が聞こえる。今、尼子の兵はどの辺りであろうか。このまま諦めてくれれば良いのだがな。
そう思ってはみたが無駄なようだ。孫四郎たちが来た方がうっすらと明るくなってきた。どうやら追撃は終わらぬようだ。さすがは戦狂いがいる新宮党と行ったところか。ほんに忌々しいものよ。二度と会いたくなかったのだが、そうも言っておられんか。
既に兵たちは弓を携えて臨戦態勢に入る。もう少し、奴らの足も速い。窮地である我らがまさか二度も兵を伏せているとは夢にも思わぬだろう。さ、来い。来い。
尼子式部少輔誠久
先を走らせていた兵共が尻尾を撒いて帰ってきやがった。一体どういう了見だ。尼子の新宮党ともあろう兵共が情けねェ限りだ。親父も怪訝そうな顔をしてやがる。本当は怒鳴り散らしてェんだろうが、何時の頃からか親父は寛大な姿を見せるようになりやがった。当主気取りなんてせずに昔の猛々しい親父の方が俺は好みだがなァ。親父がしてェんならそれでもいいがよ。
「して、一体何があった」
「はっ、吉川勢が伏兵を配しており、情けなき事で御座いますがまんまと出し抜かれてしまいました。申し訳御座いませぬ…」
へェ、なんだよ吉川。結構余裕があんじゃねェの。逃げながら反撃してくるなんてよ。
こりゃァ俺も出陣させてもらうかァ?退屈だと思っていたが案外楽しめそうじゃねェか。
そういや、吉田郡山城の戦ンときも活きがいいおっさんが居やがったな。確か吉川に養子入りした餓鬼付きだったんじゃねェか?そしたらあのおっさんともまた戦えんじゃねェの?オイオイ、だったらますます俺が出陣しなきゃ楽しみが奪われちまうじゃんかよ。
「なァ、親父。吉川の掃除、俺にやらせてくれよ。伏兵まで用意してくれてンだったら俺が探し出してやるよ」
「式部か…」
俺の名前を呟くなり親父は考えるように視線を宙に投げ出した。オイ親父ィ、そこは気持ちよく送り出してくれるところじゃねェかよ。昔は武功を上げて来いって送り出してくれたのに最近は渋りやがる。ッたくよ、親父も歳で日和りやがったか?
宙を眺めていた親父の視線が俺に戻ると途端に苦笑いを浮かべやがった。何なんだよ。
「そう不満そうな顔をするでないわ。お前もいずれはこの新宮党を継ぐのだ。大将となる男がそう感情を表に出してはならんといつも言っておろうが」
「だったら俺を出陣させてくれよ親父。ここは俺が出陣すんのが一番だって分かってんだろ?」
俺が距離を詰めるとふう、と小さな吐息を漏らす。いちいち勿体ぶった反応だ。本当につまんねェな最近の親父は。
「分かった分かった。そう不満な顔はよせ、式部。出陣を許す。だが夜明けまでだ。小勢相手にそんなに時間を無駄には出来ん。本番はこれからなのだからな。孫三郎(尼子豊久)を連れていけ」
「最初から出陣を許すつもりならいちいち勿体ぶんなよ親父。最近の親父は本当に面白くねェぞ。ッたく。オイ、孫三郎!付いてこい!吉川と楽しい殺し合いの時間だ!!」
「はい!兄者、お供致します!」
これで許可は取った。
…ハッハァ!最近は三浦だの山名だの退屈な相手ばっかだったからな。久々に楽しい戦になりそうだァ。表情も自然とにやけちまうぜ。待ってろよあん時のおっさん!ちゃんと出陣してやがれよ。
尼子紀伊守国久
倅二人が出陣していくのを仕方なく見送った。それにしても面白くない…か。儂とて好きでこうしている訳ではないわ。だが、我ら新宮党が今以上に大きく、お前たちの立場を明確にするためにもこうするしかないのだ。こんなことを倅たちには言えぬがな。
式部少輔は兵にも慕われているし、将器としては儂以上ではあるが頭には戦のことしかない。次男の孫三郎は式部少輔ほどの戦馬鹿ではないがそもそも式部少輔に従いすぎる。倅たちがもう少し尼子家中の権力争いに目を向けてくれさえすればもっと上手く立ち回れるのだが。上手くいかぬものだ。
いや、愚痴っていても始まらん。やはり小癪な手を使ってきたか、毛利。いや、吉川か。吉川には毛利の次男が入っていたな。その小細工は父親譲りか。全く味なことをしよる。式部少輔ではないが血が疼くではないか。あぁ、儂もたまには何も考えずに暴れてみたいわ。
「宜しかったので?」
「ああ、美作守(河副久盛)か。仕方なかろう。場合によっては吉川はさらに伏兵を配しておるかもしれん。式部少輔は恐ろしい程鼻が利くからな。こういう時こそあ奴は頼りになるのよ」
此度の戦には美作の攻略を任されていた美作守が協力してくれていた。忠誠心篤く、気が利く男だ。こうして一緒に戦えるのは久方ぶりよな。倅程の年の差であるが倅の式部少輔とはまた違った意味で頼もしい男よ。
「いえ、そちらではなく。失礼ながら紀伊守殿に不服そうであられましたことが気になりましたもので」
「…ああ、恥ずかしい所を見せてしてしまったな」
「ご苦労されているのは分かりますがあまり強がらずに御子息を頼られては如何で?式部少輔殿は口調こそ荒く乱暴ではありますが、紀伊守殿もご存じの通り愚かな訳では御座いませぬ。話せば理解して頂けましょう」
「美作守の言っていることは分かる。分かるがな。倅たちには強い父親と思われていたいのよ。父親の見栄、我儘よ。こればかりはな」
「ふう…。では仕方ありませぬな。ですがあまりに齟齬が生じますと親子の仲も滞りましょう。お気を付け下され」
「…うむ、難しいがの」
儂を気遣っていってくれたのだろう。美作守の表情は仕方なさそうに苦笑を浮かべるとそれ以上の発言は控えたようだ。有難いことではある。
だが、まだ儂は叔父上から新宮党を継いだばかり。ここで尼子家中から侮られるわけにはいかぬ。この戦で新宮党の力は衰えていないことを内外に示さねばならぬ。こればかりは儂一人で何とかしたいのだ。式部少輔が分かってくれるのはその後で良い。その頃にはあやつも少しは落ち着いていよう。
尼子式部少輔誠久
親父からの出陣をもぎ取り手勢を千を引き連れて一斉に駆け出していく。ちんたらしてたら逃げられちまう。敵は小勢だろうがそれでも本番の前の小手調べにはお誂え向きの敵だ。さあ、楽しませてくれる相手であってくれよ、ナァ、吉川!
「お前ら走れ走れ!!そんなんじゃ吉川の奴らに逃げられちまうぞ!久々に骨のある敵だ!お前ら気張れや!」
「応!」
それにしてもどれだけ先を走ってんのかねェ、吉川の連中は。こんな暗い中じゃ確かに伏兵のし放題だわな。小賢しさは相変わらずか。だが俺に伏兵がそう簡単に効くと思うなよ。前は乱戦中だったから気付けなかったが、進軍中なら俺の鼻は利くんだぜ?
軍を進めて行く度に毛が逆立つような感覚を覚える。そうだ、この感覚だ。匂いが違う。空気が違う。肌に突き刺さる様なこの感じ。吉川め、更に伏兵を置いとくなんてなかなかやるじゃねェか。それでこそ潰し甲斐があらァな。
感覚はどんどん強くなってきやがる。敵の殺気がこっちに向けられてやがンのが分かる。そろそろか。確かに伏兵にはいい場所じゃねェか。俺が槍を持っている方の手を掲げると軍の足並みが緩やかに止まる。
「兄者、敵ですか?」
「ああ、見つけちまったぜ孫三郎。たまんねェ感覚だ。オイ!吉川!!伏せてんのは分かってんだよ!!俺たちと遊ぼうぜ!!」
弟の孫三郎が馬を寄せてきた。俺にはこんなに分かりやすい殺気だってのに他の奴には分からねェらしい。不思議なもんだ。爺(尼子経久)にはたまに感じることがあったらしいから理解してもらえたが。まあ、そのおかげでこうして敵の居場所が分かんだから便利なもんだ。
ほら、早く出て来いよ吉川。楽しい宴を始めようぜ。
熊谷兵庫頭信直
尼子の軍旗を掲げた軍が姿を現した。ようやく来たか。さあ、もうすぐだ。もっと近づいて来い。だが、矢の届く距離の手前で尼子は進軍を止めた。そして理解できない敵の声を聴く。
「オイ!吉川!!伏せてんのは分かってんだよ!!俺たちと遊ぼうぜ!!」
その瞬間、此方の軍に衝撃が走ったのが分かった。
何故だ。何故分かった。この暗闇の中、儂らの姿は完全に見えぬ筈。どうしてここに兵が伏せられていることが分かるのだ。しかも今の声、まさか式部少輔か。また奴か。二度と会いたくなかったが、まさかこの地で再会か。儂にとっての厄神は尼子のようだな。
味方の兵たちの戸惑いが伝わってくる。あてずっぽうで言っているようではない。何故かは分からぬが式部少輔には確実に此方の居所が分かっている。確信している物言いだ。
だがはいそうですかと姿を現す意味はない。そして気付かれたからと言って引く訳にはいかない。今引いたところで後ろから襲われて全滅だ。
ならばせめて、待ち構えられているであろうがせめて矢の一本でも浴びせねば此処で留まった意味がない。
「ンだよ。大人しく出てくればいいのによ。まどろっこしいのは嫌いなんでな。お前らの策に乗ってやるよ。オイ!野郎ども掛かれ!吉川を皆殺しにしろ!!」
「オオオオォォォォ!!」
「熊谷隊!弓構え!!敵に矢を食らわせよ!!」
焦れったそうな声色で式部少輔の声がぼやくとすぐさま敵の足音が地面を揺らし始める。その瞬間儂は声を張り上げて号令を出す。伏していた兵たちが左右から一斉に矢を放ち始めるが所詮は伏兵を気付かれたうえでの攻撃。
敵は当然ながら木楯をしっかり構えて思うような成果が出る訳もなかった。
敵の勢いは弱まることなく確実に此方に接近してきていた。先頭を走るのはやはり尼子式部少輔誠久。何とも忌々しい存在だ。
…次郎様。申し訳御座いません。お約束はお守り出来ぬようです。ここが儂の死に所のようだ。
せめてこの隘路を利用して少しでも長く時間稼ぎをしてみせる。次郎様、逃げきって下されよ。そして次郎三郎(熊谷高直)をよろしくお願い致す!
「弓捨てい!!これより我らは死兵となって尼子軍の足を止める!!今こそ少輔次郎様より賜った日頃のご恩をお返しする時ぞ!!一人でも多く尼子の兵を道連れとしてやれ!!掛かれエェエ!!」
「オオオオオォォォォォオ!!」
兵たちが一斉に構えていた弓を捨てると槍に持ち替えて高台から下っていく。次郎様は嫌がるかもしれんがこの常備兵は皆、次郎様に救い上げられた兵たちだ。人並みの生を許された者たちだ。
皆が皆、少輔次郎様の為なら死を厭わない。だからこそこの場でも兵たちは崩れることなく敵兵に突撃していける。儂を含めて最後の一兵まで戦い続けるだろう。
敵兵にぶつかる瞬間大槍で薙ぎ払い敵兵を蹴散らす。尼子の新宮党が如何程のことか。我等は毛利の精鋭、吉川兵ぞ!!
「さあ、尼子の勇士たちよ掛かって参れ!儂こそが吉川家家臣!熊谷兵庫頭ぞ!我が名に恐れぬものあらば掛かって参れェ!!」
自身を鼓舞するように高らかに名乗りながら湧いて出てくる敵兵を次々薙ぎ倒していく。ああ、死を覚悟した戦のなんと心地よいことだ。後のことを気にしないでいい。死ぬまで戦い続けてやるぞ。
「熊谷兵庫オオオオォォォ!!」
裂帛の気合とその叫び声と共に豪槍が襲い掛かってくる。その恐ろしい一撃を辛うじて地面を転がり避ける。来たか。
顔を上げると見覚えのある鬼の前立てと共に獣のような鋭い歯を覗かせて笑みを浮かべた男が立っていた。尼子式部少輔誠久…。
「ハハァ!久しぶりじゃねェか!おっさん。熊谷兵庫頭だったんだなァ。その名前知ってるぜ。また会えて嬉しいなァ、オイ!」
「くっ!」
凶悪な笑みを浮かべながら繰り出させる槍の一撃が重い。ただ受け流すだけでも体力が削られていくようだ。この戦狂い、また強くなりおって!
「敵の大将首だ!!討ち取れ!!」
「いい度胸だ雑兵ども!!殺し尽くしてやる!!」
近くで共に戦っていた兵たちが数名、勇んで式部少輔に挑んでいく。だが器が違い過ぎた。挑んでいく兵は首を刈られ、喉を貫かれ、その死体を投げつけられ地面に倒れた最後の兵はそのまま死体と共に二つの身体を串刺しにされた。流れるような、まるで舞でも舞っているかのような美しさを感じさせる。だがやられたのは儂らが共に汗を流し、儂らが育ててきた大事な兵たちだ。腸が煮えくり返る。
「おのれ!我らの大事な兵をよくも!!」
怒りに任せて突いた槍は式部少輔に躱されるが掠めたのか一線に深く切り傷を作りそこからどくどく血を流れさせる。
「おっ…。やるじゃねェか、兵庫頭。久しぶりの負傷だぜ。ハハッ!やっぱりアンタ最高だ!!」
その瞬間に再び槍が襲い掛かってくる。その一撃一撃が鋭さを増し鎧だけではなく着物を切り裂き素肌を傷つける。槍の柄がぶつかる度に衝撃で腕が痺れそうになる。槍先が競り合う度に火花が散る。
隙を窺い槍を突き出せば間一髪のところで避けられる。目がいい。一瞬一瞬を確実に見られている。言動とは別にその目は確実に此方の動きを捉えていた。あの戦のときよりも差が大きくなっておる。天賦の才か。槍先を掠める事すら出来ぬ。
「ハハッ!やっぱり戦はこうでなくっちゃなァ!兵庫!」
「ごちゃごちゃ煩いわ尼子の戦狂いが!このまま死に晒せッ!」
討ち取れずともここでこいつ等を釘付けに出来れば儂らの戦いは勝ちだ。このままずっと付き合ってもらうぞ式部少輔!
それから延々と、式部少輔との槍の応酬が繰り返される。だが儂の身体には確実に切り傷が増える一方、式部少輔の身体には頬に槍が掠めた際に付いた傷を付けるのがやっとの状況であった。
その間にも味方の兵が一人、また一人と倒れていった。そろそろ仕舞いか。血を流しすぎた。腕を上げるのが辛く感じる。
そしてとうとう、槍すら握れなくなってしまった。膝をつき、憎い敵をただ睨むことしか出来ない。その憎い相手は槍を肩に担いでこちらに近付いてきた。
「決着だなァ、兵庫頭。楽しい時間をありがとよ。おかげで楽しめたわ。だが寂しいなァ。お前ほどの男も殺さなきゃならねェ。これも戦なんでな。…その首、俺が頂戴する」
その表情は満足感と寂しさが混在する不思議な表情だった。お前のような戦狂いでもそのような顔をするのか。
ふん、いい気なもんだ。こっちは楽しむ余裕などなかったわ。それだけ差があったという事か。口惜しい。もう、声も出せぬ。
もっと、少輔次郎様のお側にお仕えしたかったなあ。次郎三郎は、儂が居なくなっても熊谷家を継ぎ、吉川家を、毛利家を盛り立てていけるであろうか。済まぬな、次郎三郎。嗚呼、なおの相手を見つけてやれんかった。父親失格よ。後を頼む、次郎三郎。少輔次郎様、楽しゅう御座いましたぞ。
月明かりに照らされた槍先が煌めき、そのまま横薙ぎに払われた。
【新登場武将】
尼子孫三郎豊久 1520年生。尼子国久の次男。頭脳働きが得意だが兄の誠久に従順で兄の考えに沿ってしか動かない。+10歳
河副美作守久盛 1513年生。尼子家臣。美作国方面の司令官。尼子への忠誠心も篤い。+17歳




