予期せぬ事態
一五四二年 毛利安芸守隆元
一瞬にして体が冷えたようだった。どういうことだ。この状況で謀反だと?私たち毛利本軍が不在なのをいいことに河内守(井上元兼)が!あの狸じじいが!!
父上は大丈夫なのか?ああ、姑息な真似をしおって!!これも大友の謀略か!!だがどうする?放り出せる状況ではない。落ち着け隆元。今の状況で私たちが戦場から抜けられるわけがない。いや、まずは次郎を止めねば!陣から出ていこうとしておる!突然の事態に権兵衛(佐東金時)も次郎三郎(熊谷高直)も思考が停止している。急いで止めよ!
「待て!次郎どこに行く!」
「親父の救援に決まってるだろ兄貴!今親父が討たれでもしたら毛利は終わる!!」
「待て!!次郎落ち着け!!」
「どいてくれ!親父が危ないんだ!」
出ていこうとする次郎の陣羽織を掴むと無理矢理引き留めるように引っ張る。その隙に私の声で意識を戻した権兵衛も次郎三郎も次郎の身体を止めた。それでも次郎は鬼の形相で私たちを払い除けようとしてきた。何という力だ、抑えきれぬではないか。権兵衛も次郎三郎もまだ腑抜けておるのか!
なんとしても次郎を止めねば。
…いや待て。あの時次郎を止めろと父上は言っていたのでは無かったか?あの時父上は、何と言っていた?「何かあっても動揺するな、目の前のことに集中せよ」と仰っていなかったか?
…!!何かとはまさかこの事か!まさか今の状況を父上は読んでいたのか?あの時はただの小言かと思っていたがそれならあのような遠回しな言い方はしたか?父上の小言はいつもはっきりと的確に注意してきたのではなかったか。もしこの事を伝えていたのであればますます次郎を戦場から抜け出させるわけにはいかん。私は必死に次郎を止めながら声を張り上げた。
「落ち着け次郎!父上はこのことを想定していた筈だ!」
「そんな保証が何処にある!知っていたなら謀反なんて起きて無いだろう!!」
「父上は河内守含めて何かと毛利に反抗的な、厄介な井上党をこの機会に粛正するつもりなのだ!この謀反は父上の罠だ!危険なのは父上ではない!井上党だ!」
そこでようやく次郎の動きが弱まった。完全に頭に血が上っているわけではないらしい。考えるように俯いた。だが表情は未だに鬼のように怒りに染まっている。息も荒い。もう一度「落ち着け」と伝えた。次郎は呼吸を整えるように何度か深く息を吸っては吐いた。私とて確信を得て言った訳ではない。
だが口にすればする程そうなのではないかという思いが強くなっていく。父上の小言ならもっとはっきりと何度も言ってくるはずだ。だがあのように含みを持たせたことはきっと意味がある。我々兄弟しかいなかったあの場で言ったことに意味があるはずだ。次郎は迷いを振り払うようにきつく目を閉じて首を左右に振った後、目を開けると理性のある目を取り戻していた。
「…兄貴、次郎三、権兵衛。すまん。もう大丈夫だ。離してくれないか」
「ようやく落ち着いたか次郎。いや、気にするな。お前が感情を爆発させたのを見て私は冷静になれた。恐らく私が言ったことはおおよそ間違ってはいないはずだ。あの日の父上の言い方は普段とは違っていただろう?」
「あの日?」
「出陣する前の、お前が匂い付きの石鹸を出した日だ。我等親子で話をしたであろう?」
次郎は思い出すように俯くと鼻の頭を撫で始めた。そして思い出したのだろう。目を見開くと視線を私に戻した。
「俺が暴走したときはどうこうのくだりか」
「そうだ、あの時父上は何かあっても動揺するなと言った。不特定の事柄であれば何があってもと言う筈だ。特定していたから何かと言ったのではないかと思う。それに父上の小言であればもっと詳しく具体的に評定の場で注意してきたはずだ。わざわざ親子の会話で注意してきたことから他の者には聞かせたくなかったのではないか?そして私たちに詳しく話さなかったのは私たちに出陣前に動揺させないため、私たちの仕草や行動で河内守に疑いを持たせないためだったのではないかと思う。これはあくまで私の予想であり間違っているかもしれん。次郎はどう思う?」
「俺はてっきり俺を貶めないためにわざわざあの場で注意したのかと思ってたんだが、兄貴の話を聞くとそうじゃないかと思えてきた。確かにあの日の親父の物言いは親父らしくない」
「御正解に御座います」
気が付くとそう声が聞こえてきた。今の声が何処から聞こえたか分からない。だが先ほど謀反の知らせを持ってきた使い番の者がこの場に残っていた。いや、ずっと居たはずなのに何故意識から消えていた。こいつは何者だ?
「お前、まさか長次郎か?」
「御明察」
次郎から思い掛けない名前を聞いて再び使い番の者を見た。常備兵と同じ格好をしているこの男は結ってあった髪をほどいて後ろに撫で付け、化粧をしていたのか袖で顔を拭うと目の細い、特徴のない男の顔が現れた。確かに、父上に以前紹介された世鬼衆の頭、世鬼長次郎政親であった。全然気づかなかった。次郎が長次郎の名前を出しても分からなかった。
「驚いたな、これが世鬼衆の業か?」
「こちらこそ驚きました。次郎様はよくお分かりになりましたな。参考までに何故分かったか教えて頂いても?」
「いや、待て長次郎。その話の前に正解と言ったな。どういう意味だ?」
驚いてばかりでは居られなかった。長次郎は正解だと言っていたんだ。しかも長次郎は基本的に父上の下に居るはずだ。このような場所にいることは本来有り得ない。
「ああ、これは失礼を致しました。つまりはこれは殿の試練だったという事です」
「どういう事だ?」
「予期せぬ事態に陥った際に安芸守様は冷静でいられるか。少ない情報から真実まで辿り着けるか。殿は今回の謀反を利用したので御座います」
…何という事だ。この謀反すら父上の掌の上か。それでは河内守がただただ滑稽ではないか。敵ながら同情するぞ、河内守。だが、奴の命は無いのであろう。誠に哀れよ。
「もし俺たちがこのまま親父の救援に向かおうとしていたらどうするつもりだったんだ?」
「殿は安芸守様なれば恐らく気付くはずであると仰っていました。万が一の場合の為に私が参った次第にて」
「成程。…はー、どっと疲れたわ。戦中であることも忘れてたわ」
「はっはっは、お疲れ様に御座いまする。安芸守様、合格に御座います。見事に殿の試練を乗り越えましたな。誠にお見事に御座いまする」
思わず天を仰いだ。床几に座って項垂れる次郎が羨ましい。私も座り込みたいわ。嬉しさも勿論あるがそれよりも安堵というか、いや、次郎の言う通り疲れたわ。長次郎は面白い物を見たとばかりに笑っている。周りの者も唖然としていた。
「では改めて状況を話してくれるか長次郎?」
「はっ、ではお話し致します。事は今年の正月に御座います。拙者ども世鬼は大友の手が安芸にも伸びていることを察知致しました。その標的となったのは井上党に御座います」
「確かに大内に一方を守ってもらっているとはいえ毛利は尼子と敵対関係にあり我らも今はこうして豊前に居る。ここで我らが負ければ謀反は成功するな」
「河内守もそこに勝算を感じたので御座いましょう。河内守は以前より表立ってはおりませんが殿に反目しておりました。大友からの援助があればと思ったのでしょう。後は尼子に鞍替えし大内を挟み撃ちにすれば」
「謀反は完遂するな」
「危ない所に御座いました」
水面下ではそのようなことが起こっていたのか。全然知らなかった。父上は国を表から裏から守っていたのだな。私ではまだまだ足りぬ。父上にご指導を願えるだろうか。
「現在の父上の状況は?」
「問題なく事が進んでいるのであれば井上党の粛正は大詰めと言ったところでしょうか。殿が失敗するとは思えませぬし殿には息子の弥太郎政棟と与次郎政時も付いております」
「なら問題ないか。井上党は族滅か?」
「いえ、井上党全てが殿に反目しているわけでは御座いませんので忠誠を誓っている者たちは含まれておりませぬ。あくまで河内守に群がる者どものみにて」
「そうか。…長次郎。其方たち世鬼衆が我等毛利家を支えてくれて本当に頼もしく思う。有難う長次郎。これからも父を、毛利家を頼む」
「俺からも礼を言わせてくれ長次郎。お前たちが持ってきた情報が毛利を救ってくれた、お前たち世鬼衆のおかげだ。有難う」
膝をついて報告してくれた長次郎に視線を合わせるように膝をついた。お礼が言いたかった。世鬼衆は決して表に出てくることはない。だからこそその働きも表に出てくることはない。だが、確実にこの者たちが毛利を救ったのだ。長次郎の手を握って頭を下げた。次郎も私の隣に膝を折ると頭を下げた。長次郎は困惑したように眉尻を下げると苦笑を浮かべた。
「お止めなされ安芸守様、次郎様。拙者たちのような胡乱な者に頭を下げてはなりませぬ」
「違う、こうして忠を尽くしてくれる者たちはどのような者であろうと毛利の大事な家臣である、それが毛利の危機を救ったのであれば礼を尽くすのは当然だ。私にはこれくらいしか今は出来ぬが」
腰に差していた脇差を引き抜くと長次郎の手に握らせた。長次郎は驚いている。周りも驚いていた。
「受け取っておいて欲しい。いずれ必ずちゃんとした褒美を渡す」
「恐れ多いことに御座います。…有難く、世鬼の家宝と致します。安芸守様、次郎様、ご武運をお祈りしております。それでは失礼致します」
私が渡した脇差を大事そうに抱えた長次郎はゆっくり立ち上がると深く頭を下げて去っていく。この程度のお礼しか出来ぬことが心苦しいが安芸国に戻った際に父上に相談せねばならん。
太陽は随分と高くまで上がってきているようだった。大内も小早川軍も順調のようだ。
大内周防介晴持
陣から眺める限り、戦は順調のように見えた。側に仕えてくれている左衛門少尉(冷泉隆豊)の表情にも焦りの色はない。義父の側で、義父を支える左衛門少尉をこの戦では私に付けて下さった。尾張守(陶隆房)も頼もしい男ではあるが、やはり扱いが難しい。私の指示にも忠実ではあるし立ててくれる気もあるのは分かるがあの男は義父の武将なのだと思わされる。多分義父と比べているのだろう。時折不服そうな表情を見せる。
だが私は義父ではない。義父と比べられても義父のようには振舞えぬ。今後も尾張守を従えるためには私の将器であの者を感服させるしかないのだろう。難しいことだ。だがその尾張守が今大友を崩そうとしていた。対する戸次軍のほつれは徐々に大きくなっている。時間の問題だろう。
戸次軍が崩れれば後は連鎖的に大友軍は総崩れとなる。追撃を掛けてどれだけ敵を減らせるか。この戦を契機に大友を滅ぼすことが出来れば私も大内の次期当主としての立場を固めることが出来る。なんとも重い荷物ではあるがやりがいはある。
安芸守(毛利隆元)も同じような悩みを抱えておった。毛利右馬頭も義父には及ばぬが偉大な男だ。その後を追う安芸守も苦労をしていると思う。だが、安芸守はいつも嬉しそうに語っていた。「必ず私は父の跡を継げる男になって見せる」「大事な安芸を、家族を、そこに住まう領民を守りたい」と。いつも前向きな安芸守が羨ましかった。何故あそこまで前向きに生きていけるのだろう。
「周防介様、また大友の間者に御座います。如何致しまするか?」
見張りをしていた兵がまたもや大友の間者を捕らえたと報告に来た。これで一体何度目だ。本当にうんざりする。伏兵が潜んでいるだの背後から大友の援軍が来ているだの肥前で謀反が発生しただのどれもこれも嘘の情報ばかり。最初の頃はまさかと思い一応斥候を出して様子を探らせたがどれも事実は確認出来なかった。こうして嘘情報をまき散らして我々を混乱させるのが大友の狙いなのだろう。そうはいかぬ。
「縛って捕らえておけ。勝った暁には情報を吐かせるなり見せしめに使う。舌を噛んで死なれぬように轡でも噛ませておくのを忘れるな」
「はっ、畏まりました」
そう言って兵は下がっていった。一体どれだけの人間を大友は無駄にするつもりか。犠牲になった者たちは不憫よの。
「些か怪しくは御座いませぬか?」
「左衛門少尉、どういう意味ぞ」
「あまりにも偽報が多すぎまする」
「だが、調べても何も出てこなかったのだぞ?」
「もし本命を隠すためだとしたら」
「おい、よせ左衛門少尉。縁起でもない」
「ですが戦では何があるか分かりませぬ。負けてしまえば意味がありませぬ。たとえ臆病と謗られても用心は必要なのではありませぬか?」
「むむ、だが何処を…」
そう思いなんとなく辺りを見回そうと意識を外に向けて、なにやら辺りが騒がしくなっていることに気が付いた。そこに兵が転がるように入ってきた。背中に嫌な汗が流れる。
「ご報告!大友の伏兵に御座います!!稲積山より大友の軍勢が現れました。数は千程、一直線に此方に向かってきております!!」
「何だと!!」
急いで陣幕を出て驚愕した。稲積山の方から大友軍が此方に迫って来ていた。
【新登場武将】
世鬼弥太郎政棟 1520年生。毛利忍軍、世鬼衆。世鬼政親の嫡男。次期当主。+10歳
世鬼与次郎政時 1521年生。毛利忍軍、世鬼衆。世鬼政親の次男。+9歳




