前途多難な出陣
一五四二年 吉川少輔次郎元春
評定が終わった。次郎左衛門(杉隆相)は希望に叶う返事を毛利から引き出せたことで意気揚々と城を後にした。
その後、親父に呼ばれて俺たち兄弟は揃って親父部屋に行き親父の前に座った。こうして家臣たちを挟まずに家族だけで集まるのは久しぶりだ。小倉山城での生活も慣れてきたしあそこも結構自分の家という感覚が湧いてきてはいるが吉田郡山城は別格だ。
それにこうして家族に囲まれていると一番落ち着く。でもなんで呼ばれたんだろう?親父の表情から別に怒られるわけでもなさそうだけど。親父は俺たち3人をゆっくり見回した後小さく頷き、視線を俺に移した。
「次郎、評定前に一応挨拶は済ませたが、その後はどうじゃ。吉川では不自由をしてないか?」
なんだ、心配してくれたのか。てか最近暴走してないんだから怒られるはずないよな。何を俺は警戒してんだ。あれ、大丈夫だよな?うん、大丈夫なはず。
「特に問題はないと思うぞ。吉川家臣もそれなりに纏まってきているし仲良くやれてると思う。常備兵の数も300まで増やすことが出来たしな。石鹸も吉川家内で広めてるからそろそろ売りに出せると思う。そうだ親父、ある程度形になったから報告するんだが、橘の葉を石鹸に少し混ぜると匂いが爽やかになって良かったぞ。洗うだけなら普通の石鹸でいいかもしれんが贈答用なら普通のなんかよりも喜ばれると思う。これが完成したやつなんだけど」
俺は懐から和紙で包んだ石鹸を取り出して親父に手渡した。匂いがあればいいのになと思って、中国地方なら柑橘系が有名だと思ってたんだけどあれって思えば後から植えたものなんだよな。だから探してもなかなか見つからなかったんだけど九郎左衛門(堀立直正)に聞いたら橘が自生しているということを聞いた。
橘ってなんだと思ったんだけど実際見たら小さい黄色い蜜柑みたいな果物だった。一応食べてみたんだけど凄く酸っぱくて食べられたもんじゃなかった。でも葉っぱは折ったりすると爽やかな香りがしていい感じだったんで石鹸に混ぜたわけだ。入れすぎると泡立ちが悪くなるから本当に気持ちだけ入れるんだがそれでも普通の石鹸よりも家中の、特に奥方の評判が良かった。
平左衛門の家に行ってから妙に家臣から招かれるようになったんだよな。仲良くなれるから俺は毎日人の家をあっちにこっちに顔を出してる。その時に贈り物として渡しては使い心地はどうか直接聞いたから間違いないはずだ。
「ふむ、本当に橘の爽やかな香りがするの。これなら贈答用に出しても喜ばれよう。それにしてもお前は変なところに細かいな」
「ん?そうか?せっかく洗うならいい匂いがいいと思わない?」
「いや、まったく思わん」
「あれー?」
「父上、私も嗅がせて頂けませぬか?」
「おお、そうだな。安芸守はどうじゃ?」
「ほう、面白う御座いますな。山口にいたときに女性が香り袋という布の袋に香木などを入れて匂いを楽しんだりしておりました。上方ではよく売れそうですな」
「太郎兄上、私も嗅いでみたいです」
「ああ、すまぬ三郎。ほれ」
「はあ、本当に橘の香りがします。同じ石鹸なのに不思議ですね。上方で売れるなら幕府や朝廷に先に献上してみてはいかがです?箔が付くのではないでしょうか?」
「お、そりゃいいかもしんないな。公家の方々から評判になれば、そこから流行るかもしれん。なにせ公家の方々は各地を回ってるらしいしな。親父どうする?」
「数がそれなりに用意できるのであればよいかもしれんの。それで、次郎はこれを今いくつ持ってきておるんじゃ?」
「家族に渡す分は持ってるけど」
「おお、そうか。美伊が喜ぶの」
「はい、兄上、三郎。特に兄上は来年には嫁を貰うんだから身だしなみには気を付けねーとな」
「たわけが、喧しいわ次郎」
「次郎兄上有難う御座います」
他にも懐にしまっていた石鹸を兄貴や三郎にも渡した。親父はお袋へのプレゼントなのだろう。ほくほく顔だ。三郎も喜んでくれている。和紙越しにまたくんくんと匂いを嗅いでいた。
兄貴は来年に大内から嫁を貰う。内藤興盛の娘だ。やっぱり結婚するならそういったところも気を付けなきゃだよな。ニヤニヤしながら渡したら少し顔を赤らめた兄貴に引っ叩かれた。照れちゃってまー。他人の恋路を揶揄うのって楽しいよなぁ、ぐへへ。でも揶揄いすぎるとお前はどうなんだって言われそうだからそろそろ止めておこう。
「と、話がずれてしまったわ。小早川の方はどうじゃ三郎?」
「私の目から見た限りでは問題ないと思いますが。乃美弾正(乃美隆興)が協力してくれておりますから」
「なら良い。三郎は元服したばかりじゃ。分からぬことは内蔵丞(児玉就方)や左近允(福原貞俊)とよく相談して決めよ。次郎もじゃ。独断はならぬぞ。よく吟味して物事を進めよ。決して暴走はするな。良いな」
「はい、父上」
「もう暴走しないって」
特に俺には前科があるため殊更視線が厳しい。三郎はいい子だから完全に俺への忠告だな。仕方ない。
「それなら良いがの次郎。…安芸守。大内への援軍、もし何かあっても動揺するな。目の前のことに集中せよ。次郎が暴走したときは止めるのが其方の役目ぞ」
「はっ、肝に銘じておきまする」
「此度の手伝い戦。それほど大きな戦にはならぬと見ている。大内周防介様であれば、の話だがな。だが大将が陶尾張守であれば雲行きが怪しくなる。決して大内につられるでないぞ」
「畏まりました」
「無理はならぬ。活躍するに越したことはないが命を懸けることを禁ずる。よいな、三人とも」
「ははっ」
「おう」
「はい」
「次郎と三郎はしっかり美伊にも顔を見せていくのだぞ。良いな?」
「言われなくても会いに行くよな三郎」
「勿論です、次郎兄上」
「ふむ、左様か、ならば良いが。美伊が心配しておったからな。元気な姿を見せてやってくれ。それと準備は怠るでないぞ」
俺たち兄弟に今回の戦を任せておきながらやっぱりお小言が多いな。まあ当然か。手伝い戦なんかで死んだら馬鹿馬鹿しいもんな。この後は三人でお袋のもとに顔を出し俺と三郎は一度、それぞれの城に戻った。
軍を興して俺も重い鎧に身を包む。この動き辛さは面倒ではあるが命を守るためには必須だ。
そして戦支度が終わり次第、順次出陣していく。吉川軍は常備兵300に農兵が200の計500を引き連れている。今回の出陣は収穫が終わった時期だから農兵も戦に参加したい好きものは参加するように伝えたところこれだけ集まった。戦中は毛利軍では簡素とはいえ飯が食えるためそれで参加する者もいるのだ。勿論活躍した場合は褒美も出る。吉川500に小早川も500、毛利本軍が2000の計3000が今回の毛利軍の総兵数だ。大内は5000程が出陣しているらしい。
そして総大将は大内周防介晴持。大内家の若きプリンスだ。文武両道で既に名将の風格を漂わせる大内の次期当主だった。だが最近晴持も戦よりも政に重きを置いているらしい。元は土佐一条家の人間だ。養父である義隆の薫陶もあるせいか大内家の武断派の武将たちから惜しまれているらしい。兄貴はこの大内晴持と仲が良いらしく一先ず安堵の息を漏らした。だが陶隆房も副将として出陣するらしい。頼むぞ晴持。しっかり隆房の手綱を握ってくれよ。
今回出陣している3000は合流して一堂、港へと向かう最中に大内から一度伝令が来た。どうやら一度山口で合流したいらしい。今回は船が利用できるため進軍は楽だがわざわざ山口に合流するのか。面倒臭くね?と思わないではなかったが一応あちらの方が格上だ。逆らう理由もこちらが面倒なだけと特に理由があるわけではないし一度山口も見てみたかったからいいかな。
なんて思っていたんだけど、もうすぐ山口に到着するぞと港を船から眺めていたらどうも港が騒がしい。何か事件かと思って不思議そうに眺めていたんだが暫くすると大内の旗を掲げた小舟が此方に近づいてくるのが分かった。俺も話を聞くため乗っていた関船から小舟で移動して兄貴の乗っている関船に移動した。
「どういう事に御座いますか?我々は周防介様に山口に来るようにとのご指示でここまで参ったのですぞ?」
「どういった行き違いがあったのかは分かりかねますが既に周防介様は御出陣しております。九州の地での合流ならいざ知らずこの山口の地での合流はあり得ぬことに御座いましょう」
「ですが此方は周防介様の花押では無いのですか?」
到着早々こんな声が聞こえてきた。話しているのは飛騨守(国司元相)と、誰だ?大内家の人間だろうが随分と冷たそうな奴だな。言葉も丁寧なのに尊大さが滲み出てるというか。大内義隆ももっと使者の人選考えてくれればいいのに。飛騨守は今回の山口行きの指示書を大内の使者に手渡し内容を改めさせた。使者の顔の眉間に少し皺が寄る。
「確かに此方は周防介様の花押に間違い御座いませぬ。ですが筆跡が違います。周防介様はこの書状よりもお美しい字を書かれます。恐らくは偽報やもしれませぬな。安芸守殿を始め毛利家の方々には失礼とは思いますが此方は軍を引き入れる用意も場所も準備も出来ておりませぬ。此方の花押の件につきましては大内家でも調べてみます。今回はお引き取りを」
どうやらこの花押入りの手紙は偽物のようだ。筆跡か、そんなのも分かるなんてこいつ何者だ?中枢にいなきゃそんなこと分からないだろう。もしや偉い奴か?それに確かに見れば港には多くの商船が停泊しており俺たちが泊まれそうな場所はどこにもなかった。これじゃ確かに仕方ないけどさ、本当に言い方なんとかなんないかな。陶隆房でさえこちらには一定の敬意みたいなもんが感じられたぞ。そんなやり取りを見ているうちに三郎もこちらの船に来たらしく袖を引かれ小声で話し掛けられる。
「次郎兄上、どうなっておるのですか?」
「どうやら山口での合流は偽の情報だったらしいな」
「なんと!…わざわざこのような偽の情報を何故でしょう?」
「さあな、大友の差し金かな?」
「大友の」
そう言って三郎は考え込むように口元に拳を添えて俯いた。三郎が考える時の癖だ。でもなんでこんな訳の分かんない偽報が流れるんだか。そもそも大友なのかな?それすら分からん。そうこうしている内に兄貴が口を開いた。
「いや、此方こそ手違いとはいえ大内家の方々を驚かせてしまい誠に申し訳御座いませぬ。こちらはすぐに去ります故、太宰少弐様にもよろしくお伝え下さいませ」
「はい、必ずや主にお伝え致しましょう。周防介様は上毛郡(今の福岡県豊前市上毛町辺り)に居られると思います。それでは私は失礼致しまする」
そう言って大内の使者は足早に船から去っていった。兄貴もここで問答を繰り返していても意味がないことに気付いたんだろう。どうせ泊まらせてはもらえないんだ。使者が居なくなると兄貴が小さく息を漏らしこちらに気付くと苦笑いを浮かべ手招きしてきた。俺と三郎はそれに従い床几に腰掛ける。
「どうやら今回のことは偽報を掴まされたようだ。大内内部、別派閥からの嫌がらせか、大友からの謀略か。確かに今回の使者は大内家で見覚えが無かったのだ」
「ですが筆跡まで此方では確認は出来ませぬぞ。花押は合っているようですし」
「ふむ、そうだな飛騨。一体何が狙いかな」
「大内内部からの嫌がらせは無いんじゃねーか兄貴?ただの嫌がらせにしたってやったやつには何の旨味も無いだろう。こんなくだらないことをしてバレた時のことを考えれば猶更さ」
「確かにな、ならば大友の線か」
「俺はそう思うけど」
「毛利と大内の対応を見て親疎を測るつもりだったのではないでしょうか?それとも毛利軍を疑心暗鬼にさせるつもりなのか。いちいち使者を疑っていてはきりがありませんから、なにか大内軍とのやり取りには対策が必要だと思うのですが如何でしょう太郎兄上?」
「一先ずはこの場から離れて九州に上陸しよう。幸い相良遠江守殿から居場所を確認することが出来たのだ。そちらに使者を出して合言葉を定めてはどうだ?」
「一番は顔見知りの使者でやり取りすんのがいいけど戦場じゃそうも言ってらんないしな。そうするしかないか」
「では豊前を目指すとしよう。大友の水軍がちょっかいを掛けてくるかもしれん。警戒は怠らぬようにしておけよ二人とも」
「はっ」
とりあえずその場はそれで解散することになった。それにしてもさっきの使者が相良武任か。文治派の中心、らしいっちゃらしい男だったな。あんな対応だったが優秀な男なんだろう。でなきゃ大内義隆の側近は務まらない。でもあの対応はなー。無いだろ。お役所の人間て感じだ。
つーか大友家面倒臭い小細工してくんなよ。今は大したことが無くてもこれが継続して行われると面倒臭いことこの上ない。早く大内軍に合流しないと。




