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百万一心の先駆け ~異伝吉川太平記~  作者: 一虎
天文十年(1541) 元服
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戦後の後始末と元服

一五四一年  毛利鶴寿丸(もうりつるじゅまる)



一緒に城に籠り戦ってくれていた領民たちは家が残っているものはそれぞれ帰宅し、城下で家を失ったものは再建される。領民たちは家を失ったものも多いがそれでも毛利が尼子に勝利したことを喜んでくれた。

一夜だけだが戦勝祝ということで武士も領民も皆で祝った。領民たちのほっとした笑顔を見て勝ったんだと改めて実感した。うんうん、本当に良かった。


去年は飢饉と戦が重なり収穫が期待できなかったため吉田郡山城の近隣から北部、尼子軍が進軍したルートは一年間年貢を免除、その他の地域も三公七民程度となった。


今領民に負担を掛けたところで百害あって一利なしだ。一揆が起きる。さすがに半年以上城に籠っていたため蓄えられていた兵糧がだいぶ少なくなってきている。次の収穫までは明らかに保たないようなので九州の方から買い集めることになるだろう。

当たり前だがこんなところにも影響が出る尼子の遠征は迷惑でしかねーわ。痛い目見ていい気味だ。


現在、城下町では再建が既に始まっている。林業が活発化していたため木材は豊富にあったわけだ。今回尼子に攻められたためそういった資材は佐東銀山城に集めていたんだが販売用としてではなく城下町の再建の為に使うと親父が決定した。

戦があったため大工の数が足りず最初は難航していたが戻ってきた大工や、各地から金稼ぎに集まってくれた者もいて日に日に城下は元の姿を取り戻していっている。この時代、重機なんてものがないから全て人力な訳だがそれでも民たちは逞しく生活していた。


俺も何か出来ないかと常備兵を半数出動させて城下町再建に率先して参加させた。

常に年がら年中戦をしているわけじゃないから、いずれ常備兵には戦が無い時に砦の建設や道路の修築など行ってもらいたかった。

そのためこの機会に建築技術を学んで貰おうと思い城下町再建に参加させている。半農半士じゃなく半工半士だな。比重は士寄りだが。


残りの半数は俺が率いて賊の盗伐だ。戦のせいで治安が悪くなっている。

尼子の落ち武者がそのまま帰国せずに賊化してるのだろう。村々を襲っているという話が上がっているのだ。農村も賊対策をしてはいるが被害が無いわけではない。


やっとの思いで安息を手に入れた領民たちの生活を脅かされる訳にはいかない。勝ったとはいえ攻められた側の戦後処理はかなり広範囲に影響が出る。

尼子許すまじ!の感情を抱えながら籠城戦でだいぶ免疫の付いた俺も次郎三郎(熊谷信直(くまがいのぶなお))と刑部大輔(ぎょうぶたいふ)口羽通良(くちばみちよし))が交互に補助をしてもらいながら指揮の練習として賊狩りを行った。


今回の籠城戦では前の佐東銀山城の戦の時とは違い取り乱すことなく指揮を執ることが出来た。最後の総攻撃では少し張り切り過ぎていつの間にか先陣を駆けていたが激しいぶつかり合いは最初だけで、残りは追撃戦が主だったからそこまで危険は無かった。のだが、やはり無茶をするなと大人たちに怒られた。


この賊狩りでもかなりの数の人の死を見た。

勿論今も好き好んで人の死を見たい訳では無かったが、それでも人が目の前で死んでいくのを見ても以前のように動揺しなくなった。これは籠城戦の経験のおかげだろう。それに相手が賊だ。

犯罪者で、しかも守るべき領民たちを脅かしているから殺しても仕方ないと自分に落としどころを作れた。犯罪者になら冷たくなれる。


きっと大義名分が必要なのはこう言った心理のためでもあるんだろうな。自分の行いを正当化したいんだ。正しいことなら悩まずに済む。こうして戦国時代に馴染んでいることは嬉しく、現代から外れていくことを少し寂しく感じた。なんにしても人は壊れない限り順応にその世界に馴染んでいけるらしい。


時には自分でも槍を振るい、矢を射って命を奪った。いざと言うときに躊躇わずにいられるように殺すことに慣れておく。今後も俺自身が戦に参加すれば当然命を狙われることもある。


その時に俺だって殺されたくないから反撃するわけだが、いざ殺す時に躊躇って自分が殺されたんじゃ堪らない。未来の自分の命を守るため、いやでも慣れておく必要があった。賊が出ること自体は迷惑だが、兵を動かす練習にもなったし自身の技能と心構えをするという点に関しては助かった。


賊の死体もどうせなら有効活用しようと思い、死体をヨモギや干し草と一緒に埋めてその上を整地し小屋を建てた。こうすれば硝石が作れたはずだ。前々から火薬が欲しかったのだ。


でもこの時代は火薬に必要な硝石が日本に無かったはず。だからこうして死体を有効活用する。非人道的だが、そんなもん殺し合いをしてる時点で既に非人道的だ。だったらいくらでも利用してやる。


以前の記憶で加賀藩で硝石を製造していたと読んだことがあった。アクの強い植物と糞尿や魚の内臓などを埋めておく。今回は人体だが。


どのように化学変化するのかまでは知らないがこれを雨に濡れないようにしておくと数年後には塩硝土(えんしょうど)というのが出来るそうだ。この塩硝土を濾過して煮詰めれば確か硝石が出来るはずだ。多分。おそらく。分からんけど。


…本当に出来んのかな?頼むぞ。まあ、やったこと無いし知識もふわふわしてるから今後もいろいろ試行錯誤が必要だろう。寒いのは駄目らしいし冬は小屋で火を起こしたりしないとな。でも一度でも出来ればその後は何度も塩硝土は取れるらしいし、賊狩りを行う度にこうして死体とヨモギを一緒に埋めては小屋を建てた。一つくらいは成功していて欲しい。


まだ火縄銃は伝来していない筈だから使えないが火薬が出来れば色々活用できる。爆発させて驚かせる事が出来るし火攻めにも有効だ。


てか火縄銃なあ。欲しいけど絶対高いもんなぁ。あれは数を揃えてこそ恐ろしい武器な訳で一つ二つあった所で役に立たないし今の毛利にはすぐには必要ないんだよな。ぶっちゃけ弓を使えるようになった身としては弓の方が使い勝手がいい。


火縄銃は暴発したり使うために莫大な費用が掛かったりとデメリットを上げれば結構あったはずだ。メリットは弓ほど修練が必要がないこと。殺しが簡略化出来ることだ。この時代の銃は確か火薬で弾を飛ばすだけだから狙いをつけるのが難しかったと聞く。

だからある程度数を揃えて面で制する必要があったらしい。つまり適当に撃っても当たる状況になれば修練なんか必要ないわけだ。だけどその数を揃えるのがかなり難しい。


弓矢も作るのに時間が掛かるのは同じだ。弓なんて簡単に作れるだろと思っていたが全然そんなことない。いくつもの素材を合わせて作っていた。

それに熟練者ともなればその人の癖に合わせて調整したりもする。かなり細かい作業を必要とする優れた武器だった。


ただ使い慣れれば矢さえあれば速射できるし、狙いもある程度正確に射抜ける。山の多い中国地方で火縄銃を撃ち合うことも出来ないし、火縄銃が全国的に広がるまではしばらく諦めるか。

とりあえず親父には報告だけして管理は任せちゃお。とりあえず出来るかはまだ分からないし兵たちにはたまに巡回がてら管理して欲しいことだけ伝えた。






次に親父は安芸国の整備はある程度は兄貴に任せ、その補助というか勉強代わりに徳寿丸にも手伝わせ、備後の管理に手を付け始めた。

そういや徳寿丸は史実では兄貴に代わり大内の人質になるはずだったんだけどこの世界じゃ自立したおかげで発生してないな。


まあ、可愛い弟が側にいるのは素直に嬉しい。備後は安芸の東側にある国で尼子の支配地だった国だ。今まで尼子が支配していた地だが今回の敗戦で尼子方の城番をしていた者たちが軒並み本領に逃げてしまいその空白地を親父は直轄地として毛利で接収した。


備後はあまり尼子に対して協力的ではない土地柄だったのかほぼ全域で尼子から大内に鞍替えが発生し毛利がそれを与力として管理、保護することになったわけだが当然信頼関係なんてものはない。


だが以前より山内直通(やまのうちなおみち)と誼を通じていたおかげで直通は有力者としての人脈を発揮。備後の国人たちとの繋ぎを作ってくれたおかげで比較的順調に国人たちを組み込んでいくことが出来た。


山内直通ってあんまり聞いたこと無かったし歴史ゲームでもそこまで強い印象がなかったんだけど、人脈とかって数値化出来ないから仕方ねーのかな。何にしても心強い味方だ。

勿論直通の方にも狙いはあるだろう。こうして積極的に動くことで自身の毛利陣営での立場を強化することが出来る。だがそれでも好意的に動いてくれ、味方を増やしてくれたのは大助かりだ。


後は毛利が尼子程ではないにしろ頼りになるところを見せなければならない。親父はまず備後の南西の海沿いの三原という地に城を築いた。

敵が備後に攻めこんできた場合にすぐ後詰として援軍を送るためだ。城といってもそこまで大層なものでは無く砦より多少ましな程度の規模なのだが。


農繁期前に始めた数ケ月での突貫作業だったためそこまで大規模な工事が行えなかったので当然なのだが、場所がいいため守りは固いと思う。材料は近隣の尼子の城を廃城し、そこの資材を使った。


沼田川という川の河口にある中州や小島を利用して作ったこの海城には(かつら)能登守(のとのかみ)元澄(もとずみ)が城番として選ばれ入城した。

桂元澄は毛利の庶流の家の人間で忠義に篤く親父の腹心だ。敵地だった備後の地の城番にはうってつけの人物だ。この桂家には後の幕末で活躍する桂小五郎なんかがいるはずだ。木戸孝允(きどたかよし)の方が有名なんかな。


それと鶴式農法術と石鹸を各国人に広めた。恩を売るためでもあるし、財源を確保してもらう意味もある。

備後の国人たちは尼子と敵対姿勢を見せ続ける毛利家に好意的だ。こちらから備後国人を裏切らない限り従ってくれるだろう。それに信頼を得るためにはこちらから信頼を見せなければならない。そう言った側面もあり情報を公開したのだった。これで安芸と備後の二国を領した毛利はおよそ40万石弱の家になる。これはもう立派な戦国大名だと言えるだろう。



そうして徐々に落ち着きを取り戻した頃、毛利家では俺の元服の儀が行われた。

名前は毛利少輔次郎(しょうのじろう)元春(もとはる)

同じ名前のご先祖様がおりそこから名付けられた。前元春公は南北朝時代のご先祖様で、親父が12代目、前元春公は4代目の当主だそうだ。親父から聞いた。


今毛利家が居城としている吉田郡山城を築き、一族が北朝に付く中、南朝について勝ち残った方らしい。そこから(あやか)って名付けられた。有難い名前だ。親父から期待しているといつもの優しい笑顔で言われた。その期待が嬉しかった。


お袋は涙ぐみながら喜んでいるような心配そうな顔をしていた。俺は兄弟の中でも奇行が多く初陣で馬鹿なことをした。

お袋からしたら兄貴や徳寿丸なんかより危なっかしく見えるだろう。もう無茶はしないと何度も伝えているが信じてくれない。

まあ、お袋にとってはこんな俺も可愛い息子なんだろう。心配されるのは当然だから仕方ない。それにその心配がお袋の愛情だ。照れ臭くても嬉しい。本当に家族には恵まれている。お袋は史実では結構早くに死んでしまうけどこの世界では是非長生きして欲しい。今の内から庭で散歩するくらいの運動はしてもらうか。この時代の女性はあんまり身体を動かさないからな。


それにしても毛利元春、なんかしっくりするようなしないような、不思議な感じだ。元春は生前聞きなれた名前だから違和感があるわけじゃないんだけど今までずっと鶴寿丸と呼ばれていたから鶴寿丸が自分の名前という感覚がある。まあ、今後はずっと少輔次郎元春と呼ばれて生きていくんだから早く慣れないとな。


次郎三郎や刑部大輔なんかはやはり慣れているのかすぐに俺のことを少輔次郎様とか次郎様と呼ぶのだが権兵衛(佐東金時(さとうきんとき))なんかは慣れてないのかたまに「つる…」と言いかけている。


急いでるときなんかははっきり「鶴寿丸様!」と呼びその度に次郎三郎からは注意され刑部には揶揄われていた。すぐに訂正するのだがしばらくは言い直すのが続くだろう。こうやって笑って過ごせるのも尼子に勝ったからだ。暫くは領内整備が続くだろう。落ち着いてるうちに俺も出来ることをしなければ。次は寒さ対策だな。




桂能登守元澄  1500年生。毛利家重臣。元就の腹心。+30歳

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― 新着の感想 ―
[一言] うーん、『ドリフターズ』デスネ〜♪数年後には、島津並の車撃ちを披露するのかな?
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