苦悩の果てに
一五三九年 熊谷次郎三郎信直
「鶴寿丸、前に出よ」
「はっ」
権兵衛(佐東金時)が去った後、殿が鶴寿丸様を呼ばれた。視線が厳しい。それだけで先ほどまでの弛緩した空気が引き締まりそして冷たくなった気がした。先の戦のあと、我々が行った奇襲は鶴寿丸様の独断によるものだったことが知らされ驚いた。そしてそれが殿のお怒りを買ったと聞いて肝が冷えた。
違和感は感じていたのだ。鶴寿丸様の様子も今となればおかしかったのだと分かる。明らかに余裕がなかったのだ。だが、それは初陣の緊張からだと勘違いをした。だが今分かったからと言ってそれが何の役に立つというのだ。
でもこうも思う。命を懸けて戦功をあげたのだから良いのではないか?褒められはすれど怒りを買うほどのことなのか。だが現に殿はお怒りになられている。鶴寿丸様が今回死にかけたことに対する我らへの叱責か。ただ刑部大輔殿(口羽通良)の考えは違うようだった。
「これはつまり、軍規を乱す抜け駆けは戦功とならぬ。指示をしっかりこなせという意味ではありませぬか?」
「む、それはどういうことぞ?」
「殿は安芸国(現在の広島県西部)を毛利のもとに纏めようとしておられまする。明確に支配しようと考え、手を打っている。ですから毛利の名のもとに軍規をもきつく締めようとしているのではありますまいか。ですからこの時期の御子息の抜け駆けにお怒りになられた。私はそう考えます」
「そうか、毛利の指示に従わねば戦功にならぬということか。だが、それでは命を懸けた鶴寿丸様があまりに不憫ではないか」
「その鶴寿丸様ご自身は納得しているように見えます。ご自身も暴走したとお思いなのでしょう、あの方は聡い子です。抜け駆けが軍規違反になることを理解していないとは思えません」
「むう、だが、そうであれば何故危険を冒した?」
「それは、私にも分かりませぬ。緊張からなのか、功に焦ったのか。他にも何か理由があるのかもしれませぬ」
そういうことであったか。納得しかねる部分もある、だがこの戦乱吹き荒ぶ今の時代、我ら国人衆を導いてくれる存在が必要なのも事実。であればそれは殿が望ましい。であれば今回の鶴寿丸様の抜け駆けでお怒りになられるは当然よな。であるならば我々も覚悟を決めねばならぬ。
末席に控えていた鶴寿丸様が立ち上がると我々家臣が左右に並んで控えている中央に腰を下ろした。殿と向かい合っている。表情は強張っているようにも憔悴しているようにも見える。やはり不憫だ。いつの間にやら儂は鶴寿丸様に入れ込みすぎているのやもしれぬ。
「鶴寿丸、此度お前は自分が何をしたのか、分かっておるな?」
「はい、父上の名前を勝手に利用して軍を動かし、軍規を乱しました」
「そうじゃな、何か弁明はあるか?」
「御座いません、父上の沙汰に従います。申し訳ありませぬ」
「お待ち下さりませ」
殿が口を開き、鶴寿丸様は淡々と事実を認めて沙汰を待った。刑部殿と同時に声を出した。事前に二人で決めていた通りそのまま二人で立ち上がると鶴寿丸様を庇う様に左右斜め前にそれぞれ座った。
「此度の奇襲の咎は我らにあります」
「不審に思いながら止められなかったは我らの責に御座います。処罰であれば我らに」
「二人ともいいんだ。俺がお前たちを騙したんだ。お前たちに咎なんてあるはずがないじゃないか。お前たちはよくやってくれた。有難う、次郎三、刑部」
「ですが!」
「なれど!」
「落ち着け、鶴寿丸、次郎三郎、刑部大輔。まだ儂は何も言ってはおらぬではないか」
「…申し訳ございませぬ」
「失礼致しました」
「鶴寿丸、忠義に篤い者たちじゃの」
「はい、私には勿体ないほどの者たちです」
「そうだ、そしてそんな者たちをお前は騙し、むざむざ死地に追いやったのだ。勝ったから良かったでは済まぬ。先ほどの権兵衛がいなければお前自身も死にかけたのだろう。違うか?」
「はい、仰る通りです」
「だが、お前たちの部隊が奇襲を仕掛けたことで戦が早く終わり武田を逃がすことなく滅ぼせたのも事実」
「殿」
「うむ、それを鑑みて沙汰を下す。鶴寿丸は十敲刑の後、暫くの間、謹慎と致す。次郎三郎、刑部大輔。お前たちは引き続き鶴寿丸につき、性根を鍛え直せ。これを以て今回の沙汰と致す。良いな?」
「はっ、寛大な沙汰、感謝致します」
「よし、それでは吉田郡山城に帰還致そう。皆、此度の戦、大儀であった」
殿の締めの言葉で一同が一斉に頭を下げた。この沙汰で抜け駆けが戦功にはならぬ、今の毛利家は昔とは違うと国人衆の中でも認識されることとなるだろう。
幼い身体には辛い罰ではあるが命を奪われるわけではない。本当ならば首を斬られていてもおかしくはなかったのだ。軍規の乱れは許されるものでは無い。
殿の親心であろうか。甘いと言われてしまえばそれまでであるが殿には感謝せねばならぬ。
一五四〇年
戦が終わり、あれから数ケ月が過ぎた。城に戻ってすぐに俺は刑が執行され棒に打たれた。親父は刑の執行を見守ってくれた。俺よりも辛そうな顔をしていた。親父はとにかく家族愛がすごい。だから本当はこんなことを命じたくなかったと二人きりになった時、泣きそうな顔で言ってくれた。
だが立場がそれを許さない。息子だからと言って簡単に許せば示しがつかないからだ。叩かれた後は何日も痛みが続き少し動くだけで痛みが走りなかなか眠れなかった。
謹慎を言い渡された俺はもっぱら屋敷の中で刑部と勉学に励むか、庭先で次郎三と鍛錬に励むか、飼っている鶏の世話をしている。
先の戦で農民ながら俺の警護役になった鈍牛の権兵衛改め佐東権兵衛金時は常に側に控えて目を光らせている…訳では無くぼーっとしていた。ただ怠けているわけではないみたいだ。時折控える位置が変わる。すぐに動ける位置に移動しているようだった。
控えている時に色々話を聞かせてくれた。前の戦の際に見せた勘の良さというか危機察知能力の良さは狩りで身に着けたのだそうだ。
「おらは大食らいだから、飯が足りなかったんだあ。だから時間を見つけては山に入って狩りをしてたんでさあ」
「その腰からぶら下げた斧でか?弓とかはないのか?」
「んだ。弓なんて高級なもん、おらの家では買えねえだよ若様。でもなあ、山には熊が出たりもするから毎日命懸けで山を駆け回っただよ。出くわしたら死ぬしかねえ。気を張って、周りの気配を探りながら必死で過ごしてたんでさあ」
「そうだったのか、権兵衛はすごい奴だったんだな。お前のおかげで俺はこうして生き残ることが出来た。ありがとな権兵衛」
「山で熊に逢わねえように駆け回っていた頃よりずっと今が幸せだあ。毎日腹いっぱい飯が食えるなんて、こんな幸せな生活が出来んのは若様のおかげですだ。おらも若様の役に立ててんなら嬉しいだよ」
そう言って権兵衛は嬉しそうに笑った。この見た目のぬぼーっとした細目の大男は見た目によらず出来る男だったらしい。側に権兵衛が居てくれたおかげでずいぶん助かってるし慰められた。でも心はずっと沈んだままだ。俺は現実を知った。
現代の平和な世界の倫理観が根付いている俺には戦国時代の戦場は恐ろしいものだった。知らないうちに死んでいてもおかしくなかったのだ。ただ、それよりも怖いのは俺が吉川元春として活躍できないことだ。前世の記憶があるせいかどうしてもこの身体は奪ってしまったものだという意識がずっとあった。本来の吉川元春の存在を俺が奪ってしまったのだ。だからせめて、俺が吉川元春として史実以上に活躍してこの名前を天下に轟かせたい。
そんな風に思っていたのに。いざ戦場に立ったら足が竦んだ。パニックになって暴走した。たくさんの人の死を見て怖気づいた。人を一人殺した。殺されそうになったのだから殺したのは仕方ない。そう思おうとしても手に今も残っている感触に今も寒気がする。殺した相手の顔が忘れられない。それに怯えている自分がいかに戦国時代に馴染めていないかを思い知らされた。
死んだあとにいきなり戦国時代に来て、この非日常感とか皆から称賛を浴びてきっと舞い上がって天狗になってたんだ。借り物の身体の優秀さと前世で得た知識を笠に着て調子に乗っていたんだ。知らないうちに戦も何とかなるんじゃねえかって軽く見ていた。
でももう無理だ。この戦で嫌というほど思い知らされた。俺に吉川元春の代わりなんて務まらない。
日に日に膨れ上がる鬱屈した気持ちを抱えていた頃、戦後処理が片付いたらしい親父が姿を見せた。いつもの涼やかな雰囲気で縁側でぼーっとしていた俺を見つけるとにこりと笑った。今のその笑顔も俺からすれば申し訳ない。この愛情も本来俺が貰えるものじゃなかった。急いで佇まいを正して頭を下げたが、俺の表情がよほど崩れていたのか優しい笑顔はすぐに苦笑に代わる。
「皆、下がっていてくれぬか」
そう言って控えていた権兵衛、侍女たちを下がらせると俺がいた縁側の隣に腰掛け、そこから見える空を見上げた。今日も雨が降り続いている。最近はずっと雨だ。
「最近は雪や雨ばかりじゃの。お前の今の気持ちのようにどんよりとしておるようじゃ」
「…」
「まだ気に病んでおるのか、鶴寿丸らしくないの」
場を和ませようと冗談を言ってくれたのだろう。おどけた風にそう言った。
笑顔を浮かべようとするがぎこちなくて笑顔になっている自信が無かった。
親父にも分かったんだろう、慰めるように優しく微笑みながら頭を撫でてくれた。親父の手は大きくてごつごつして固い。きっと刀や槍で出来た胼胝のせいだろう。でも嬉しかった。愛されてるんだと分かる撫で方だった。でも俺らしいってなんだろう。俺はこんな優しさを本来受けていい
人間じゃないのに。
辛かった。逃げ出したかった。もういっそこのまま全て洗いざらい吐いてしまおうか。そしたら本当の息子を奪った人殺しとして処分してくれるんじゃないか。そう思ったら少し心が軽くなった気がした。楽になってしまおう。自然と言葉を吐いていた。
「父上、いえ、右馬頭様。今から話すことは荒唐無稽で聞くに堪えない戯言に聞こえるかもしれません。何を馬鹿なことをと思うかもしれません。でも、それでも、聞いてくれますか?」
外に向けていた身体を親父の方に向けた。親父も身体をこちらに向けて話を聞いてくれるようだった。ゆっくりと、深く頷いてくれた。
「分かった。聞こう、鶴寿丸」
少しずつ、親父にもちゃんと伝わる様に自分のことを話した。前世の知識と、うっすらではあるがその頃の記憶があること。そこは今よりも400年以上、未来で俺はこの時代をよく調べていたこと。小さな頃から試していたことは全て未来で得た知識を試しただけなこと。
人が死ぬのが怖いこと、本当は居たはずだった鶴寿丸はきっと俺が乗っ取ってしまったこと。だから俺は本当の息子じゃないこと。本来の鶴寿丸のようにきっと活躍できない、むしろ役立たず同然の腑抜けであること。
洗いざらいすべて話した。親父は目を閉じて口も挟まずに、ただ俺の言葉に耳を傾けてくれていた。話し終わるころには既に外は夕方なのか暗くなり始めていた。雨はまだ降り続いていた。
「だから、俺のことを斬って下さい。俺は右馬頭様の本当の息子を奪ってしまったんです。だからお願いします」
そう言って腰から下げていた脇差を目の前の方の前に差し出して深く頭を下げた。今、この方がどんな顔をしてるかは分からない。親父が表情を隠すと何の感情も伝わってこないから、見ているのが怖かった。だからこのまま殺して欲しかった。
何年も一緒にいたせいかこの方が大好きになっていた。いつの間にか本当に親父になっていた。親父の息子でいられることが誇らしかった。
厳しいけどお袋も好きだ。その厳しさの中にも俺を案じてくれる母親の優しさをいつも感じた。
優しい太郎兄貴が好きだ。時間があればいつも気に掛けてくれていた。俺の言葉に耳を傾け寄り添ってくれた。
利発な可愛い徳寿丸が好きだ。「あにうえ、あにうえ」って無邪気に慕ってくれた。可愛い弟だ。
他にも色んなことに率先して付き合ってくれる次郎三郎が好きだ。
お調子者で好奇心旺盛だけど色々と察してフォローしてくれるな刑部が好きだ。
おっかなびっくりしながらも俺に話しかけて理解しようとしてくれる左近が好きだ。
若様と慕ってくれる権兵衛が好きだ。みんなが好きだった。
でもここは本来俺のいる場所じゃない。だから、大好きな親父に殺されるならいい。
「顔を上げよ」
親父が口を開いた。感情が伝わってこない。怖かったが顔を上げた次の瞬間、左頬に鋭い痛みが走った。叩かれた勢いでそのまま均衡が保てず上半身が飛ばされるように体が流れた。
「父親に息子を殺してくれなどと二度と言うな、馬鹿者」
父は泣いていた。
「どんな事情があるにせよお前は儂の息子だ。お前が大事な息子だ。美伊が腹を痛めて産んだお前が儂の子だ。未来の知識があろうと前世の記憶があろうと儂の息子だ。本来の息子など儂は知らぬ。儂の息子は何をしでかすか分からぬ、無鉄砲で破天荒で、でも家族に優しく笑顔が眩しい。儂を親父、親父と呼んでくれるお前が儂の息子なのだ。未来とやらで本来のお前とやらがどんな活躍をしたかなど知らぬ。興味もない。出来ぬのなら活躍などしなくていい。お前はお前なりに力を尽くせばよいのじゃ。儂の鶴寿丸はお前なのだ。お前が儂の鶴寿丸なのだ。だから殺してくれなどと二度と口に致すな。無駄に死ぬことは許さぬ。親より先に死ぬような親不孝な真似をするでない。自分の命を投げ出すでない」
そう言って強く抱き寄せてくれた。親父の匂いがした。安心する匂いだ。何度も嗅いだことのある匂い。いつの間にか目からは涙が流れていた。その涙は止まることがなかった。
「…俺が息子で、いいのですか?これからも、俺は、貴方の、息子でいて、いいのですか?」
「ああ、ずっとここにおれ。何じゃよそよそしい。いつものように親父と呼べい、この戯けが。儂はお前の親父で、お前が儂の息子なのだから」
「ああ…!あああ…!…親父、ありがとう…っ!ごめん、なさいっ、ごめんなさい…っ」
「よい、よい。辛かったな鶴寿丸。もう心配はいらぬ。心配はいらぬのだ」
泣いた、声を出して泣いた。俺がここに居ていいと言ってくれた。嬉しかった。話を聞いてなお、俺を息子と言ってくれた。大事な息子だと言ってくれた。泣いている間、ずっと親父は背中を撫でてくれていた。ずっと凝り固まっていた鬱屈した想いがゆっくり溶けて涙と一緒に流れていくようだった。
いつの間にか雨は上がっていた。うっすらと雲の切れ間から夕陽が差し込んでいた。
今日、本当の意味で俺は毛利鶴寿丸として生まれ変わることが出来たような気がした。俺は吉川元春の代わりじゃない。俺は俺なりに頑張ってみよう。俺が吉川元春なんだ。




