二人のゆくえ
一五四六年 熊谷直
次郎(吉川元春)様は私の顔を見て驚いたように目を見開いた。
この顔だけは次郎様に見られたくなかった。
今から七年程前。あたしの顔に火傷が出来た。当時、あたしの侍女が持っていた熱湯があたしに掛かって出来た火傷だった。
勿論あたしのせいでもある。興味本位で台所に自分から足を踏み入れたのもあたしだ。侍女だってあたしの顔を火傷させたかったわけじゃない。
あたしがうろちょろしてたまたま転んだ侍女が持っていた鍋の熱湯があたしに掛かってしまった。咄嗟のことで避けるのが遅くなってしまい右目の周りから頬、それと右肩に赤く爛れたような痕が残ってしまった。
それ自体、あたしは侍女を責めようとは思わなかった。幸い命に係るような傷では無かったし、そもそもあたしが台所に入らなければ良かっただけ。
でも侍女は耐えきれなかったのだろう。事実は分からないけれどきっと周りから酷く当たられた可能性もある。あたしは熊谷家の姫、その姫の大事な顔に火傷を負わせたのだから家中の人間に責められるのは今ならば容易に想像が出来る。それに罰を恐れた可能性だってある。
だからだろう、次の日には出奔してしまった。今となってはその侍女が生きているのか死んでいるのかも分からない。元からその侍女は旦那も子供も病で失ってしまった天涯孤独の身だったらしい。探すことも出来ずただ火傷を負ったあたしだけが残った。別にそれ自体は今更何も出来ないのだから仕方ない。
でも、火傷を負って辛く大変だったのはその後だ。あたしが耐えられなかったのは他人からの目だった。
ある人は奇異な目で、ある人は好奇の目で、ある人は憐れんだ目で、ある人は気持ち悪いもの、化け物を見たような目で見てくるのだ。
あたかも見てないという素振りをしながらも、ちらちらとこちらを窺う視線はあたしの火傷痕を凝視してくる。相手の視線なんて見られている方は案外分かるものよ。皆があたしの火傷痕を見てくる。
特に小さな子供は素直だ。町を歩けば小さな子があたしを見て『ひっ!』と悲鳴を上げる。それが辛くて堪らなかった。きっと火傷痕が出来る前まで可愛いと持て囃されていたせいもある。
もう誰もあたしの目を見て話をしてくれない。皆があたしの火傷痕を見ながら話をする。今までと今の他人からの対応の落差がどうしても耐えられなかった。
目を見て話をしてくれるのは家族だけだった。だからこの火傷を見せるべきじゃないって髪で顔を隠して今まで過ごしてきた。
今もあたしは人目を避けている。家から出られなくなった。人の目が怖いから。
そんな目で見られるあたしが次郎様の女房になんてなれる筈がない。それに次郎様にも同じ反応をされたらと思うと今からでも逃げ出したいくらいだった。今も顔を見せているけど、次郎様がどんな顔をしているのか見たくなくて目を閉じている。
次郎様はあたしの顔を見て、どう思ったんだろう。どうか、酷い言葉を言われませんように。そう願うしか出来なかった。
「直殿、目を開けてはくれないか?話が出来ない」
暫くすると次郎様がそう声を掛けてきた。とても優しい声だった。
声はすっかり大人びてしまったけれど、優しい声はあの頃と何も変わってなかった。恐る恐る目を開ける。
あたしの視界には次郎様の顔が映った。でも怖くてすぐに視線を下げる。でも一瞬だけでも次郎様の顔が見れた。あの夜は急いで逃げてしまって良く見えなかったけど、今は良く見えた。
穏やかにしているけど鋭い目つきで、精悍な顔立ち。小さな頃に偶然出会った、あの頃の面影が残った次郎様がそこにいた。少し微笑んでいたようにも見える。
…格好いいなぁ。でも嫌われちゃったわよね。きっと。…うぅ、この人のお嫁さんになりたい…。うっすらと涙が浮かびそうになってふと気づいた。次郎様は今、あたしの何を見てくれていた?
それを確認したくて、怖ず怖ずと視線を上げた。
やっぱり見間違えじゃなかった。次郎様はあたしの傷なんて見ていない。しっかり目を見てくれていた。
「あたしが、気持ち悪く、ないの…?」
思わず漏れ出したようにそう口にしていた。
初めてだった。初対面でこの傷を一瞥もせずに最初から目を見て話してくれる人は。出会う人皆が必ずあたしの火傷痕を見ていた。初対面で目が合ったことなんて今まで無かった。
でも次郎様はあたしの目をずっと見てくれている。一切ぶれることなく、まるであたしの火傷痕なんて元から無かったのではないかとあたしが錯覚しそうなほど。
「傷の話か?俺にとっては些末な問題だな。直殿は綺麗だ、その思いはあの夜と全く変わらん。それは例えその傷があろうとなかろうと俺には関係ない。こうして目を見て、改めて思った。今も俺は直殿に惚れてるよ」
次郎様は不思議そうに一度首を傾げたが小さく首を横に振って、少し顔を赤らめながらそう言ってくれた。涙が溢れた。止まらなかった。一番大好きな人が一番欲しかった言葉を次々言ってくれるから。
「ひょっとして、縁談を断っていたのはその傷が理由か?なら些末な問題なんて言い方は直殿に失礼だな。でも安心して欲しい。俺の気持ちはあの夜から少したりとも変わってない。むしろこの想いは今もずっと増してるから」
あぁ、あたしはこれまで何を気にしていたんだろう。杞憂だったんだ。次郎様はあたしを、傷のあるあたしをちゃんと見てくれている。それが嬉しくて涙が止まらなかった。その場に崩れる様に身を屈めた。嬉しくて座ってられなかった。
「お、おい、どうした?大丈夫か?」
すぐに次郎様が慌てたようにすぐあたしの側ににじり寄ってくれた。次郎様の手があたしを案じてくれているようにそっと背中を撫でてくれた。懐かしくて、はしたないと思いながら次郎様の胸に抱き着いていた。
「お…っと。直殿大丈夫か?誰か人を呼ぶか?」
あたしが抱き着いたからだろう。次郎様の驚いたような声が頭上で響き尻餅をついたようだった。その後、心配したように提案された次郎様の言葉に小さく首を横に振る。言葉にならなくて首を振るだけなんてあたしはさっきからなんて無礼なんだろう。
困惑している様子には気付いていたが今、こうして溜まっていた想いを吐き出すことに必死で、受け入れてくれたことが嬉しくて、ただ泣いてしまった。部屋にはあたしの泣きじゃくる声が響く。
じきに次郎様もあたしのことを抱きかかえるように背中に腕を回してそっと背中を撫でてくれた。あたしが迷子になったあの日のように。
血狂いだ、鬼子だと巷で言われているらしい次郎様は、やっぱり何も変わらずあの日のままの優しい次郎様だった。ただ黙って傍に居てくれる。その心遣いが嬉しかった。
どれくらい時間が経っただろう。いつの間にか、泣き疲れてしまったのか寝ていたみたい。寝ていたみたい?ばっと顔を上げたらすぐそこには次郎様の顔があった。
「おはよう、直殿。泣いて、すっきりしたか?」
「は…!も、申し訳御座いません!いきなり泣くだけでなく、更に寝てしまうなんてあたし、あ、私は…!」
すぐに下がって頭を下げて謝罪する。かあっと顔が赤くなるのが分かった。なんて恥ずかしいの。子供の様に泣きじゃくってそのまま寝てしまうなんて。ちらと外に視線を移すとまだ暗いまま。そんなには長く寝ていないのかもしれない。けれど、好きな人の前で寝てしまうなんて…!
「謝んなくていい。直殿の寝顔があまりに可愛くて見ていたかった俺の我が儘だ。でも、その様子だとすっきりしたみたいだな。あぁ、話し方もさっきのままでいい。取り繕っても疲れちまう。そっちが素だろ?」
「あぅ…、はい」
「まだ答えを聞いていないから分からないけどさ、もし夫婦になるかもしれないなら素の直殿が知りたいな。ま、気が早いか。好きに話してくれ」
「あ、ありがとうございます…」
未だに混乱している頭を必死に落ち着かせようとしても目の前にいる相手のせいで全然落ち着けない。あたしが慌てているのが相手にも伝わったのだろう。小さくくすくすと楽しそうに笑っているのが分かった。
「直殿がそこまで狼狽えているのを見ていたおかげか俺は落ち着けたよ。直殿を抱きしめていた時に懐かしい気持ちになった。そういえば昔、こんなことがあったなって」
…!
次郎様も覚えていてくれたのかな?その昔の出来事はあたしじゃないのかしら。でも違かったらどうしよう。
いや、もう散々に恥ずかしい想いをしてきたんだ。それにあたしの事も次郎様は受け入れてくれた。もし間違っていても次郎様なら笑って流してくれる。そう思い至って化粧箱から慌てて、幼い頃に預かったままだった手拭いを取り出すと次郎様に差し出した。
「これを、お返しします…。ありがとうございました」
差し出した手拭いを次郎様が検分するように広げた。次郎様の手拭いには次郎様の幼名、鶴寿丸に合わせて鶴が配われていた。だからすぐに気付いたのだろう。
「…俺のだ。これは?いや、待て」
何故私が持っているのか不思議そうに首を傾げていたがすぐに考える様に手拭いとあたしを見比べた。
「幼い頃、今から十年程前に御座います。次郎様は、町で迷子になっていた童女を助けたことが御座いませんか?」
「10年前…。物陰に隠れていた童女。膝を怪我してて、手当てをして送ってあげようとしたらすぐにいなくなってしまった童女を助けた…。まさかその時の手拭いか?あれは直殿か?」
「…はい!」
良かった、次郎様も覚えていてくれた。あたしだけの思い出じゃなかった。
「そっか、俺はもう10年前から直殿を知っていたのか。すまん、すぐに気付いてやれなくて。だからか。直殿を抱いていた時に懐かしくなったのは」
そう言って申し訳なさそうに頭を掻きながら謝ってくれた。気付かなくて当然なのに。その仕草が可愛くて、可笑しくて、覚えていてくれたことが嬉しくてまた涙が出てきた。今日のあたし、泣いてばっかり。でも今日の涙は全部嬉しくて泣いているんだ。全部幸せの涙。
「いいんです、次郎様が覚えていてくれただけで私は嬉しいです。やっと、返せました」
そう次郎様に伝えるとまた嬉しくて次郎様に抱き着いた。今度は次郎様もしっかり受け止めてくれた。
「あの日もこうして抱きしめたな、俺は」
「はい」
あの日と同じように。胸が高鳴って、でもどこか落ち着く次郎様の腕の中で小さく頷く。きっとあの日からあたしは次郎様との縁が出来ていたんだわ。きっとそうに違いない。
「あの日は、直殿を逃がしてしまったが、今日からは逃げずに、俺の隣にずっと居てくれるか?」
「…はい!」
「大切にする。改めて、俺と夫婦になってくれるか?」
「はい…、次郎様!ずっと、ずっとお慕いしておりました…!愛しています…っ」
あたしは幸せになってもいいんだ。母上が言った通りだった。次郎様はちゃんとあたしを受け止めてくれた。傷なんてどうでも良かった。傷があってもこんなに幸せになれるんだわ。
次郎様に尽くそう。他の誰でもない、あたしを受け入れてくれた次郎様がこれからも皆を引っ張って行ってくれるように支えよう。
今のままじゃ駄目ね、あたしは。次郎様が安心して前に進める様に、強くならなきゃ。




