熊谷家へ
一五四六年 熊谷兵庫頭信直
「今日は世話になるぞ、兵庫、次郎三郎(熊谷高直)。よろしく頼む」
「こうして来て頂けることは我が家にとっても栄誉ある事。今日は存分に楽しんでいって下され、次郎(吉川元春)様」
家先で次郎様を出迎える。伯耆国に居を移してから吉川家中は忙しくしていたが最近は少しずつだが落ち着いてきた。そうすると次郎様が家臣の家を巡るのを再開した。
次郎様は馬に乗ってきたようだ。小間使いに手綱を預けるとこちらに笑みを浮かべた。疾風号、何度見ても羨ましくなるほどに美しい馬だ。黒の艶やかな毛並み、馬体も大きい。気性が荒く次郎様以外乗せようとしないのも羨ましい所だ。
昔は次郎様の屋敷が近かったおかげで歩いて来られていたが伯耆国では屋敷が離れてしまった。そのせいだろう。
次郎様自身は気安く家臣の家を回って下さるが本来はあまりこういったことは行われない。身分あるものは常に身を狙われる可能性があるからだ。余程、信任を得ていなければこのようなことは普通起きたりはしない。本来主君が家臣の元に訪れることは大変栄誉な事なのだ。
だが吉川家では次郎様が各家を回られるためその栄誉といった面が薄れている。その代わり、次郎様を如何にもてなすか、家臣の中での意地の張り合いに使われるようになっていった。これが大変ではあるのだがどうにも面白い。伯耆の国人達も付き合ってくれると良いのだが。
「ありがとう。奥方も邪魔をするぞ。熊谷家の食事は美味いからな。勝手ながら楽しみにしていた」
「そう言って頂けて光栄で御座います。今日も腕に縒りを掛けてご準備致しますので楽しみにしていて下さいませ」
私の隣に控えていた妻の清にも次郎様はそう声を掛けて下さった。これもいい。儂の家族にも次郎様は気を遣ってくれる。こういった心配りは滅んだ武田家には無かった。
次郎様に声を掛けてもらった清も嬉しそうにしている。
「次郎三郎、次郎様をご案内して差し上げよ」
「分かりました父上。さ、次郎様どうぞ」
「おう、ありがとう。新しい屋敷には慣れたか?」
私が促すと次郎三郎は次郎様を中へ案内していった。楽しそうに話している後姿を妻と見送った。
「元気そうじゃないのさ」
次郎様の姿が見えなくなると清がそう私に声を掛けてきた。
「誰かと話している時はな。だがふと時折酷く憂鬱そうな顔をされるのだ。吉田郡山城で何かあったのではと家臣の中では話しているが」
「ふーん、で、誰かそれを聞いたのかい?」
「勿論聞いたさ。だが何でもないとしか返ってこんのだ」
家臣の中には気のせいではないかという声も少なくないが幼い頃より見てきた私には分かる。恐らく次郎様は悩んでいる筈なのだ。
どうして我々に話して下さらぬのか。話せぬ内容なのだろうか。
どうやら吉田郡山城で縁談の話が上がったようではあるが、まさかその事だろうか。次郎様自身は納得されていない?
本当ならば次郎様に娘の直を嫁がせたかったのだがな。あんな事さえなければ…。いや、もう過ぎてしまったことだ。悔やみきれぬが。
「あんた達が次郎様に信頼されてないんじゃないのかい?」
私が少し考えていると清からそんな言葉が出てきた。こちらが気にしていることを…っ!
「…冗談でも怒るぞ」
儂がじろりと睨み付けるもふんと鼻で笑うのみで私をいなすかのように言葉が続く。
「肝っ玉が小さいねぇ。それくらい笑って流すもんだよ」
…この妻は本当に気が強いな。だが言っていいことと悪いことがあるだろう。次郎様が儂らを信じていない等ある筈がないではないか。
「それに次郎様自身職務すら手に付かないって訳じゃあないんだろう?」
「それは、まあそうだが」
政務自体は着々とこなされてはいる。来客の対応も今ではすっかりそつなくこなされているし。
悩み自体はあれどそこまで深刻ではないのだろうか。確かにその悩みが大きければ政務すら手に付かなくなるかもしれん。それともどうしようもないという諦めだろうか。
「まあ、あたしは美味い料理を作って元気付けてやるしか出来ないからね。あんたも次郎様の心労を労わってやんなよ。男が男に惚れたんならそれくらいしてやんなきゃいけないよ」
そう言ってバンバンと強く背中を何度も叩かれた。痛いが痛がるとまたぼやかれそうだ。痛くないふりをして『料理を頼んだ』と声を掛けると『誰に言ってんだい』とまたぼやかれた。
夫婦になったばかりの頃は可愛い女だったのだがな。まさかこんなに気の強い女だったとは。まあ家を守ってくれる頼もしい女だ。それに子宝にも恵まれた。感謝しといてやるか。
それにしても本当に次郎様はどうしてしまったのだろうか?心配だ。せめて盛大にもてなして今だけでも楽しんでいただこう。伯耆国は水が綺麗なのか野菜が美味い。それに海が近いおかげで新鮮な魚介類が食えるのだ。今朝揚がったばかりの魚を次郎様に食して頂けるだろう。
それに次郎様が言っていた通り清の料理は美味い。儂もすっかり胃袋を掴まれてしまって今更清のいない生活は考えられぬからな。
さて、儂もそろそろ次郎様の元へ向かわねば。あの月見台を見たら次郎様も驚き喜んで下さるだろう。今宵は綺麗な月が出ているしの。
一五四六年 吉川少輔次郎元春
駄目だ。全然眠れやしねえ。てか何してんだよ、ったく。ただ熊谷家に歓待されてるだけじゃねえか。
お袋に約束したんだから確実にこの機会を逃しちゃいけねえってのによ。結局切り出すことが出来なかった。
俺が今日、この熊谷家に来た目的は一つしかない。本来史実で妻となるはずの新庄局、熊谷直に一度でもいいから会いたかったのだ。
新庄局は史実では良妻賢母だったとされ、元春との間に産まれた子を立派に育て上げたことで知られる。そして吉川元春はそんな新庄局を深く愛し、新庄局も吉川元春を支え、側室も持たずに一生を添い遂げたことで有名だ。
幼い頃は良く兵庫頭に直を嫁にと良く話を持ち掛けられたもんだ。その時はまだ俺がガキだったからその時が来たら考えるってはぐらかして来たが、いつからだったかそういったことを兵庫頭が一切口にしなくなったんだよな。
熊谷家には小倉山城の頃から何度となくお邪魔させてもらっているが直殿には一度として会ったこともお目に掛かったこともない。他の家では割とその家の家族全員と挨拶して同い年の奴や幼い子がいた時は一緒に遊んだり話したりするんだけど、直殿に関しては全くそんな話が出なかった。
毛利家の家臣間で縁組の話が熊谷家にもあったらしいのだが、何故かその縁組が実際に組まれたって話は無いのも不思議だ。
噂では熊谷家の女は皆、大層な美人だから直殿も綺麗であるとか、幼い頃の病が元で醜くなったのだとか、非常に勝ち気で普通の男では手が付けられないだとか、逆に陰気な女で近付いた男を不幸にするだとか、実しやかにあることないこと囁かれていたりする。いい事も悪い事も言われてるってことは結局皆、真実は知らないってことなんだろう。
だが当の兵庫頭も次郎三郎もその話題に触れたがらない。だから吉川家の中では暗黙の了解としてその話題には触れてはいけないのだという不文律が出来上がっているほどだ。
熊谷家は家族皆仲が良いことで有名で良く家族自慢をしているのにその直殿のことだけはさっぱり話に出てこないのだ。
そういや昔は良く兵庫頭が直殿のことを『刀遣いが巧みで、女であることが勿体無い』とかよく話していたのに、その自慢話も俺への縁組アピールと同じタイミングでしなくなったな。その時は兵庫頭も諦めたのかと思って気にもしなかったが。
そんな訳で俺はきっかけを得ることも出来ずだらだらと今まで何も出来ずに、お袋(毛利美伊)によって逃げられなくなるまで来てしまった。死んだって話は出ないし熊谷家で葬儀をしたことも無いからいないはずはないんだ、きっと。
とはいえ今更会ってどうするか、それは俺にも良く分からない。ただ何故か縁組の話が出る度にそのことが過ってしまってどうしても積極的に別の嫁を娶ろうという気が起きなかった。
だからこんなに縁組を引き延ばしてしまった。とはいえ会ってどうする?俺は吉川元春だが史実の吉川元春じゃない。わざわざ史実の吉川元春をなぞる意味があるのか?これだけ毛利家の状況が史実とは乖離しているのに?
史実の元春が新庄局を娶ったのは勇猛果敢な熊谷家をしっかりと味方にするためだったって話もあるが、今でも十分に熊谷家は吉川家に、延いては毛利家に尽くしてくれている。ならお袋が言った通り備後の有力者の山内家や、最近俺の下についてくれた南条家から嫁を貰った方が遥かに有意義だ。
結婚するならこんな女性がいいとか、好みがどうとか言うつもりも一切ない。そもそも好きな女性のタイプなんて俺は無いし、顔がどうとか正直どうでもいい。綺麗な女性もいいと思うし、不細工だからと言ってそれがイコール可愛くないになる訳じゃない。
それに好みなんて、そんなものは赤ちゃんの頃にとっくに悩みに悩んで捨てた。ただ普段から身綺麗にして俺を支えてくれれば、くらいにはちょこっと思うけど。
正直三郎(小早川隆景)の言う通り、愛情なんて後付けでも最終的に相思相愛になればいい筈だと今では思う。兄貴(毛利隆元)は一目惚れだった、みたいなことを言ってたがそんなのよほど運が良くないと無理だろう。そもそも一目惚れなんて本当に存在すんのか?ないだろう。
そもそも俺は会ってどうしたいんだ?直殿を嫁にしたいのか?ただ史実の通り元春が嫁にしていたからって理由だけで?
ああ、訳が分からん。何で俺はこんなに悩んでるんだ。誰でもいいならもうそれこそお袋が提示した家から嫁を貰えばいいじゃないか。ごちゃごちゃしてきておしっこしたくなってきた。身体を起こしてるせいで掛けていた着物を剥いだせいですっかり体が冷えちまったせいだな。厠行こう。この頭のごちゃごちゃしたものもおしっこと一緒に流れて行っちまえばいいのに。
部屋から出ると先程まで宴をしていた月見台がすぐ目に入った。この月見台は広い中庭に建てられた兵庫頭自慢の朱塗りの雅やかな月見櫓だ。薄戸で仕切っているためその薄戸を外せば四方を開放させることが出来、屋敷よりも少し高く作ってあることから夜になると月が良く見える。
少し肌寒くても酒を飲んでいれば温かくなるから今の時期でもまだ楽しめる。月を肴に酒なんて風流なのも乙でいいもんだ。兵庫頭は結構趣味がいい。
まあその月見台のせいで太陽の向きによっては光が差さない部屋が出来てしまっているというオチが付いて清殿にかなりどやされたみたいだが。
普段は頼もしいのに兵庫頭って尻に敷かれてるよな。頭が上がんないみたいだ。とはいえ兵庫頭が新宮党との戦で倒れた時は清殿が懸命に看病してたって話しだしなんだかんだで仲は良い。
兄貴もおしどり夫婦だし、親父(毛利元就)とお袋も人目が無いと結構いちゃいちゃしてるし、三郎も何だかんだ美代を可愛がってる。俺の周りって今思えばリア充ばっかりだ。
俺もそういう夫婦になりてえなー。…っと、厠行かねば。
既に片付けも終わり皆も寝たのだろう。静かな空間で庭からは秋虫の鳴く声だけが聞こえてきた。秋虫もそろそろ今年は聞き納めかな。月明りがあるおかげで明りが無くても普通に歩けた。
その時、ふと月見台に人の影が見えたような気がした。だがすぐに月の明りが雲に隠れてしまったのか辺りが暗くなりその影が良く見えなくなる。だが間違いなく人がいた。こんな夜更けに誰だ?盗人か?まさか幽霊とか?
こっちには気付いていないらしくその場から動こうとしない。俺は厠に行くことも忘れてその影の正体を知ろうと廊下を暫く歩く。
丁度その時、月を隠していた雲が風で流れたのかまた辺りが明るくなった。俺も月見台に続く廊下まで来てしまっていた。月見台の人影も月明かりに照らされ映し出される。
そして、俺が動けなくなった。
長い黒髪が月明かりに照らされ艶々と綺麗に光っている。すらりとした体躯で俺よりは小さそうだがそれでもこの時代の女性よりは間違いなく背が高い。そして意志の強そうな勝気な目が月を見上げていた。
誰かは分からない。でも間違いなくその横顔は綺麗だった。ただ熊谷家の人間なのだろう。直殿だったらいいなという思いがよぎった。いや、直殿の筈だ。
今まで挨拶した熊谷家の姫の顔はみんな知ってる。侍女や下女とは違い上等な服も着ている。
何故かは分からない。ただ俺はこの女性に惚れたのだと理解した。
さっきまで相手が誰でもいいなんて言ったな、あれは嘘だ。この人と結婚したい。
一目惚れなんて無いと思ったな、あれも嘘だ。この人じゃなきゃ駄目だ。
心臓がバクバクしている。うわ、やばい、頭真っ白になってきた。何も考えらんねえ。ただ、ずっとその姿を見ていたかった。
だが、いつまでもそうしている訳にはいかないと声を掛けようと身動いだせいか向こうが気付いた。
「あ…」
そして向こうが固まった。
髪が長いせいか顔が半分隠れているがこちらを見ているもう一つの目が見開かれている。俺を見ていた。驚かせちまったか。早く声を掛けないと。
「俺と夫婦になってくれ!」
気付けば俺は膝を付いて頭を下げていた。土下座だ。
いや違えじゃん!そうじゃねえだろ!なに言ってんだ俺!ここは初めましてとか、月が綺麗とか幾らでも言葉があった筈だろう!いきなり出会って即プロポーズとか!いやでも、ひょっとしたらないか?一応、俺、吉川家の当主で、毛利家の次男で。顔も怖がられるが割と整ってる方だ。割かし優良物件の筈。
「い、嫌」
そう微かに言い残して目の前の女性は土下座する俺の横を逃げるように去っていった。
がばっと頭を上げて振り返れば逃げる後姿が目に入った。
「…………」
頭の処理が追い付かない。
iya、イヤ、いや、嫌?…嫌って言ったか、今?
え、俺、今フラれた?
【初登場人物】
熊谷清 1510年生。武田好清の娘。熊谷信直の正室。+20歳
熊谷直 1528年生。熊谷信直の長女。熊谷高直の妹。+2歳




