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絶望するな、中年男性!女の薗がある。

私たち看護師がどんな科目を勉強し、どのような実習を経て看護師になるのかを知ってる人?ドクターだって正確に知らない。彼らの中には「医療を中途半端に学んできた人」と思っている人もたまにいるのだ。偉い医者先生が初めて癌になって、入院をして、「医療が医者だけで成り立っていない。改めて看護師に感謝した」と、アホみたいな常識を書いた本があったけど、この機会に看護学校學校でどんなに頑張っているのか知って欲しい 。

1章 ジングルベル


ジングルベルの曲が街に流れている。クリスマスはあまり好きでない。小さいときは靴下をぶら下げて眠ったこともあったし、眠たいのにお父さんのクリスマスケーキを待って、目を擦り擦り起きていたこともあった。そうして待っていたのに、酔っ払って帰ってきた父の箱の中のケーキは無惨であった。  


 いつの頃からクリスマスは若者の祭典になってしまったのか?イブの日はホテルで予約とか、「カップルでないと楽しめないのか!」と、来年アラホーになる私、浜野ナミは若者をやっかみながら、何時もの喫茶店の何時もの席からイブの街を見ている。ここは禁煙でないので煙を燻らせながらコーヒーを楽しめるのだった。 仕事を終えて駅からわが家までチョット立ち寄る。夜勤明けの時は朝のコーヒーの香りを楽しむ。


 私は明治天皇の勅語で創立された由緒正しき恩賜財団が経営する病院に勤める看護師である。財団の病院は全国にあり、私の勤務先は北大阪のK市にある。  テーブルの上には、母とクリスマスをするためのショートケーキの小さな箱が置かれている。クリスマスは嫌だけど、過ぎた28日を私は楽しみにしている。毎年、看護学校の卒業の思い出メンバーが集まるのだ。「今年もクルシミマシタの会」と名前がついている。看護学校の卒業生と云っても、社会人組のお酒好き人間の集まりだ。  


 看護学校は現役組が圧倒的に多いのだが、最近、就職難のこともあってか、特に私の學校は授業料の安さもあって、けっこう社会人組も多い。圧倒的に女子学生が多く女の薗にはかわりはないけれど…。  幹事役の大谷から、「例年通りいつもの場所で何時もの時間に」と連絡があった。〈たまには、ちょっと違ったいい感じで安いとこ探せ!〉と私は言いたかったが、幹事を振られたらやぶ蛇なのでやめた。   


 集まるメンバーのことを私は考えた。オザッキーは大谷とちょこちょこ会っているみたいだし、親友の玉ちゃんからは出席のメールがあった。そして去年は前立腺がんの術後で、「オシッコだだ漏れで行かれへん」と連絡があった〈おとうさん〉は今年、とってもいいことがあって出席。高島花子は遠くに行って2年前から来られなくなった。最近は私を入れてこの5人に、一人、大谷がゲストを連れてくることになっている。久しぶりの顔だったり、時には先生だったりする。  


 今年のゲストは誰かなー?28日が済まないと私はお正月モードになれない。今年あった〈くるしかった〉ことを皆に吐き出さないと年越しは出来ないのだ。この5人が特に卒業後集まるような団結になったのは、〈おとうさん〉の実習の件があったからだ。卒業して8年が経つ。早いものだ。今年もあと何日?私は指を折った。  


2章 社会人組メンバー


『お弁当の時間は・・楽しかった』  


 学校でなんといっても楽しいのが、幾つになっても、お弁当の時間。最初は教室で仲良しグループ別に食べていたのだが、何時しか休憩室で、社会人グループで食べるようになった。決して若い子排除でない。後ろの席では若い子たちのグループもあって、聞き耳立てて興味引く話がある時は加わってくる。 玉ちゃんは、半分ぐらいは教室で若い娘たちとも食べる。玉ちゃんが社会人組で食べるときは、話はシモネタになる。玉ちゃんはシモネタが好きだ。いくらなんでも学級委員が若い娘たちと一緒にはできない。オザッキーはこんな時は黙って弁当を食べている。〈おとうさん〉は笑って聞いている。盛り上がっているのは、玉子、大谷、花子、そして私の4人だ。いつものお弁当メンバーだ。    


 玉ちゃんは彩りも鮮やかなお手製のお弁当。私は母が作ってくれた愛情弁当。オザッキーと大谷はコンビニ弁当、〈おとうさん〉は自分で作ってきている。ご飯の上にはカツオと梅干と塩昆布が乗っている。二日連続同じおかずの時もあれば、卵焼きだけのときもある。  週に1回ぐらい、水木美香が加わる。この時は玉ちゃんのシモネタはなし。美香は社会人でなく現役で入学してきている。玉ちゃんとは従姉妹だ。玉ちゃんのお母さんの妹さんの娘ということだ。玉ちゃんのことを「お姉ちゃん」と呼んでいる。


『玉ちゃんは由緒正しき長州人』  


 玉ちゃんの名前は玉山玉子。看護学校に入るための予備校で一緒だった。玉ちゃんは中学校の国語の先生をしていた。大好きだった弟を癌で亡くし、「命に関わる仕事をしたい」になった。 生まれも育ちも山口県、先祖は長州藩の武士、由緒正しき家系の生まれである。玉のような可愛い女の子だったので両親は玉子と名付けた。「面白い名前やね」と私が笑うと、「結婚前は玉山でなかったわ。結婚して、たまたまそうなっただけ。でも結婚のときチョト名前のこと考えた。デモ、玉は二つあった方がいいや、と思ったの」と私を笑わせた。  両親はまさか玉山性の男性と結婚するとは思いもしなかった。結婚前の名前は南野なんのと云った。中学校時代、色気づき出した男子生徒たちに〈なんのたまこ〉と呼ばれるのが嫌だった、それよりはまだましだと思ったそうだ。  


 玉ちゃんは先生の収入はなくなるが、まだご主人の収入がある。私には父が残した僅かな生命保険があるとはいえ、減らすわけにはいかない。看護学校は実習もハードにあり、アルバイトなんてやってられないと云う。予備校を入れて4年どうやっていけるか心配だった。 二人が志望しているのは府立のS看護学校である。施設の設備はたいしたことはないが、年間授業料5万2千円はなんとも魅力的た。どこを探したってない金額だ。ただ一つ厄介なのは数学が受験科目にあって、これがかなりむつかしいのだ。落ちてもう1年というわけにもいかない。あんな安い学校はない。何が何でも受からねばならない。 


『わたし浜野ナミは看護学校に入る予備校に入った』  


高校時代、1年生のとき数学があった。見るのも嫌だった。色んな記号が出てきて、何だかそのうち、記号がゲジゲジさんに見えてきて、赤点取らないだけに必死だった。また、そのゲジゲジさんとお付き合いだ。入れば数学なんか使わないと予備校の先輩は云っていたが、医学部に準じて看護系は一応理科系と言いたいのだろう。  玉ちゃんは美人だ。スタイルだっていい。頭もいい。ただ数学が苦手だったということで予備校に来ている。私は、身長は低いし、顔だって10人並みとはいかない。ナミと言う名が付いているのに並みでないなんて、シャレにもならない。高校時代、数学の点数なんてナミのはるか下、深海に沈んでた。  


 私の看護学校の志望理由、玉ちゃんのように崇高なものではない。「女一人、手に職をつけて生きていけますように」である。父は従業員100人位の会社の経理課長をやっていた。母は身体が弱く、病院に入ることはないが家の仕事がやっとだった。子供は私だけ。遅がけの子であった。ゆっくりと育ったのはいいが、世事には何も考えない人間に育ったようだ。  進学しないのに普通科に行って、就職を決めるときは、ただ、あのラッシュの満員電車が嫌で、京都方面、普通電車なら座って通勤できるので三駅先にあるところに決めた。そこは触媒化学の会社で、本社、工場は東京であった。大阪出張所みたいなもので、所長と営業員が10名と女事務員3名の小さな事務所であった。      


 父は何時までも元気だと思っていた。結婚も「30になるまでには出来るだろう」位に思っていた。男性経験?勿論この歳までには少ないけどあった。セックス、興味も関心もあったけど、期待の程ではなかった。相手から言わせれば私は「燃えない女」と云うことらしい。玉ちゃんいわく「よく言うわ。燃えさすことが出来なかった男が言うセリフ」らしい。玉ちゃんは毎度燃えているのだ。私だって〈燃えるような恋〉、してみたい。〈私は燃えないゴミ〉ではないのだ。  


 結婚、一度それらしきことになりかけた時があった。相手は可もなく不可もなく、会社は安定してるようだし、両家に反対もなかった。私26のとき、ことはいとも簡単に決まりそう。「これで決めていいのか?」いざ決定になると、なんだかつまんなくなって断った。  父は別段何も云わなかった。もっといい条件を考えたわけではない。分相応は知っているつもり。もう1回や2回は30になるまではあるだろうと思った。1回目で決めたくなかっただけ。私ってけっこう往生際が悪いのだ。  


 父も母も穏やかな性格だったのか、私がごく普通の子だったのか、叱られたり、注意されたことがほとんどない。会社の所長が定年でやめ、東京本社から若い、30丁度ぐらいの張り切りボーイが上司でやってきた。 偉そうな態度、人使いの荒さは我慢ができた。ケンが立つ東京弁で細かいことをイチイチ言うのが我慢きかなかった。そんな感じは相手にも通じるのか、特に私には辛く当たった。ある日どんな言葉だったか、プッツンした私は相手の顔にお茶をぶっかけ、「辞めます!」と言ってやめた。「次を探せばいいや」と思っていた矢先、父が心筋梗塞で突然亡くなった。  


 無理のきかない身体の母を抱えた私は、予期せぬ世帯主になってしまったのだ。辞めたのはいい。でも、何の資格も技術も持たない私がどうやってこの先やっていける?そんなことを考えながら、何社かの面接に行った帰り、駅前のラーメン屋さんに入った。「もやしそば1丁!」。お汁を啜りながら窓の外を見た。「○○看護学校予備校」と書いた看板が目に入ってきた。「これや!」と思った。看護師なら辞めても次がある。いい資格だ。幸い僅かだが父の生命保険のお金がある内にと思った。私28才のとき、決断をした。


『肉体派、大谷、お前には恨みがある!』  


 大谷は関西の仏教系の私大を出て大阪の会社に入ったが、1年目の終わりに東京営業所が出来て、所長、所長代理、平、の3名が派遣されることになった。もちろん大谷はその平である。東京は、一度は住んで見たかったが、東京弁には苦労したらしい。河内育ちの根っから大阪人間には、聞くのも話すのも大変だったそうだ。所長は言った。「郷に入っては郷に従へ」と。一番下の使い走りから、営業、上二人に文句の言われっぱなし。得意先から「その変な言葉をなんとかせい」の文句。耐えた。所長の手腕もあって苦節10年、東京営業所は30人の所帯になっていた。    


 所長は大阪本社に部長職で栄転。代理は所長になり、大谷は次長になり「さー、頑張るぞ!」と思った矢先、大阪本社が財テクに走り、大きな欠損を抱えて倒産。なんの為に頑張ってきたのか・・サラリーマンの空しさを知った。  手っ取り早い資格と、ヘルパーの資格を取って老人施設に勤めた。換気が出来てないのか、独特な臭いが嫌いだった。何より、その給料の安さがやる気を失せさせた。それでも、2、3年務めたが、いつまで経っても結婚も出来ない給料ではたまらんと、これが大谷の看護学校志望理由なのだ。    


 大阪に帰ってきて両親に志望を話した。大学まで行かして貰ったのにこの頼みだ。気が引けた。父親は「会社も倒れれば、個人も病にもなる。それからどう頑張るが大事。脛の残りは少ないが齧れるぐらいはある」と言ってくれ、大谷は脛を齧っている。  大谷は何事にも大雑把派だ。細かいことをグチグチ言わない。そんなとこは大好きだ。でも、裏返せばいい加減なとこもあることになる。〈おとうさん〉は、「大谷君は男らしい」と言っているが、買い被り過ぎだ。私は大谷に個人的な恨みがある。


『何かが足りないおザッキー』    


尾崎浩二は予備校のチューターをやっていた。先生ではない。プリントを配ったり、スケジュールを説明したり、生徒の生活相談に乗ったり、先生のアシスタント兼事務員みたいなものだ。忙しく、神経使って、お給料は安く、この先上がる見込みもない。 「看護学校がいいだろう」とやってきた。一人、アパート暮らしで、大谷みたいにすねを齧るとこはないみたいだ。1年間の蓄えがあるので、この1年の成績で奨学金を取らないと継続はピンチなのだ。 看護学生の奨学金は恵まれている。育英会のみならず、府や市のがあるし、府や市の病院に5年勤めれば返済義務がない。「頑張れ!オザッキー」私も同類だ。現役組は高校の卒業時の成績で1年生から貰えるが、社会人組はそうはいかない。  


 オザッキーは情報通だ。看護学校の先生受けも良く、なにかと職員室に出入りしている。何々先生は以前、何々病院にいてお子さんは何人とか、先生のことならオザッキーに聞けということになる。クラスの子たちのこともよく知っている。  2年生、3年生ともコネクションがあるようだ。無理もない、前職が前職なのだから自然と身についたものなのだろう。時には貴重な情報で助かるときがある。何々先生の過去問だというプリントを仕入れてきた。ズバリそのまま出たのには参った。尾崎サマサマであった。他人のことはよく話題にするが、自分のことはあまりしゃべらない。  


 ジムに通っていて筋肉質で、一見男前風だが何かが足りない。何だろう。男臭さ?セックスアピール?別にそんなものはなくてもよいが、何かが足りない。神経質で潔癖性で細かいことを気にする、血を見たら卒倒する口だ。看護師、大丈夫かと思ってしまう。絶対オペの助手なんて無理。  


 外国語大学を出ているが、スワヒリ語だかなんだか役に立たない言語を勉強したようだ。マー、暇な人だと思った。現役組の女の子の中に密かに思いを寄せている子が3人ほどいるみたいだ。その子らがつけた名前が〈オッザキー〉。そうだ足りないもの「オトコ」が足りないのだ。女性に興味はないこともないようだが、女性との〈なんちゃら〉には関心が無いみたいなのだ。大谷みたいに〈スケベー〉でないのだ。ええ年になったら少し〈スケベー〉も男の魅力のうちらしい。


『定まりないのが花子流』  


 私たち社会人組に一応属しているが、何時も一緒に弁当を食べ組ではない。私たちと食べる事が多いが、現役組の子達とも食べているかと思うと、中庭のベンチで一人サンドイッチを頬張っている。お手製の豪華弁当もあれば、コンビニのオニギリ2個のときもあったり、カップ麺だけのときもあったり、着るものだって革ジャンを夏に着てるかと思うと、冬なのに半袖のセーターのときもある。 「お前の季節はどこにある?」と聞きたいぐらいだ。ジーンズ姿が多いが、ピンクハウスとかいうブランドのフリル一杯の服のときもある。まとまったスタイルがないのがスタイルの高島花子。でもどれもがスタイルになるから不思議。  


 玉ちゃんが理知的な美人だとしたら、花子はセクシー美人だ。それも超がつく。道を歩いて振り返らない男はまずいない。スタイルの話ばっかりしてしまったが、それ程素敵なのだ。看護学校への志望動機、別段ないらしい。  強いてあげるなら「高校時代、生物が得意だったのと、幼いとき、注射を打つ看護婦さんがかっこいいと思ったこと」をあげていた。納得。花子らしい。花子はクールだ。何かと熱くなる私とは違う。お家は金持ちらしい。花子の家の近所から通って来ている女の子がその家の豪華なことを言っていた。半端な大きさではないらしい。その女の子いわく、お家の職業は不明。花子は看護学校を出たらアフリカに行って看護師をすると云っている。


最後に紹介・・〈おとうさん〉。

『受験者全員に面接試験・・ながく待たされるのよ』


 さて最後に紹介するのが〈おとうさん〉。55才で看護学校に入学してきた。入学試験の時の席は私の前だった。筆記試験が終わったら面接試験が当日にある。二人一組みで受けるのだが、受験生全部をやるものだから、エラ~く待ち時間が長い。

「ながいなー、僕は田野歩あゆむといいます。よろしく」。えらい年齢の人が受験してると気になっていた。「浜野ナミです。ナミはカタカナです」と挨拶を返した。「ハハノナミダですか」。「そんな名前があるか?この人どんな人、面接大丈夫か?」それが口を聞いた最初だった。

 面接は二人一組みで、〈おとうさん〉と同じだった。面接官は4人、全部女性。私は無難に済ませやれやれであった。〈おとうさん〉と面接官のやり取りは隣で余裕を持って聞けた。



「田野歩。55才。東京農工大学出身」と自己紹介。

「志望動機は?」まず、これは誰もが問われる。

「生命や、病気について勉強したいと思いましたが、医学部に行く程、学力と金力はありませんので、看護学校を受験しました」あれー、まずまずの答えだ。

「お歳ですが、健康に自信はありますか?」

「90才から見れば35才も若いことになります。健康に自信はありません。いつ人は大病を患うかわかりません。でないですか?」先生方、沈黙。ええぞー〈おとうさん〉!

「生命や、病気について学びますが、専門学校です。学んだことを生かして看護師になって病院に努めなければなりません。夜勤もあって若い人でもハードです。自信はありますか?」やっぱり心配事項は〈お歳〉なのだ。

「健康には自身がないと言いましたが、水泳などをして健康にいるようには心がけています。卒業して58才。定年65才として7年働けます。病院が採用してくれるのなら勤めますが、病院勤務が無理なら、老人施設で働きたいと思っています。元気で使ってもらえるうちは70才でも、80才でも働きますよ」先生たち、少し笑い。

「若い人たちの中で一緒にやっていけますか?」やっぱり年齢のことが問われる。

「この歳ですから、入学出来たら、若い人のお手本になるように頑張りたいと思います」。言やよし。

 

 受け答えの印象も悪くなかったし、無事面接は通過と思った。国立大学を出ているぐらいだから筆記も悪くないだろう。農工大が国立。隣のお兄ちゃんが受かったが、「国立ゆうても、農学部やで。百姓の大学にわしゃいかさん」と、隣のおじさんえらく怒ってたから覚えてるのだ。面接を一緒にしたのだから、私も受かり、田野さんにも受かって欲しいと思った。


合格発表の日、〈おとうさん〉とすれ違った。目礼をされたが笑顔はなかった。合格発表の掲示板を見たら、私の番号の前の番号はなかった。やっぱりあの年齢では無理なんだ。現役の子なら30年も40年も勤められるのだから、一つの席は若い人に譲るべきかもしれないと思った。でも「可哀想」。

 

『落ちた〈おとうさん〉が居た』


入学式の日、列を作った私の前に〈おとうさん〉がいるではないか?

「どうして?」

看護学校は実習があって水増し入学が取れない。何人かは他に行く(例えば、国立病院の付属に受かった子はそちらに行く)その分、補欠合格を出し、欠員分を入学とする。1学年定員100名の學校。〈おとうさん〉は100番目の合格者だったのだ。

「よかった、よかった!」私は〈おとうさん〉の手を取って飛び上がった。事情の分からない皆は「何事?」と私たち二人を見やった。〈おとうさん〉との再会だった。

 後でわかったのだが、オザッキーによると、〈おとうさん〉の入学にはチョット問題があったようだ。なんぼなんでも年齢がいっているし、他の人たちとの兼ね合いもあるという意見だ。古手の「白衣の天使」的な看護婦イメージを理想としている世代には、抵抗感があったのだ。八宝先生が「面白いじゃないの。面接の感じも悪くなかったし、ウチは公立。公平にあくまでテストの成績で行きましょう」と押し切ったというのだ。


 すぐに、若い娘たちは〈田野さん〉とは呼ばず、〈おとうさん〉と呼んだ。私も自然そうなった。「僕は、みんなの〈おとうさん〉になってしまった。異性と感じてはいかんのや。哀しいがしゃない。僕は女の薗に来たのではなく、学問の府にきたのやから…」とは〈おとうさん〉にさせられた、〈おとうさん〉の寂しい感想だ。

 今でも『若い人の手本になります』には笑ってしまう。〈ドジで、ヘマなおとうさん〉レポート出すのも一番最後、それも私が念を押してやっと。試験のとき横を見れば「モー出来た」と涼しい顔。「裏もあるのに!」。試験中は喋れない。出来上がった答案を裏返したり、表にしたり。「ウラ」と声がでぬように口開くも、こっちを見てにっこり笑うだけ。やっと気がつき、あと10分。何とか書き上げたみたい。解答用紙があるのに問題用紙に書き込んで減点されたり、横の席にいる私はまるで世話女房。

「おとうさん、中学校、高校の時もそうだったんでしょう」と云ったら、頭カキカキ、「治らんね。クセというものは」と云った。高校時代にそのままフュチューダバックしてしまったのだ。

 

 花子が一人ベンチでサンドイッチを食べていたので、並んで食べた。〈おとうさん〉のドジ、ヘマ振りを喋った。「本当に55歳なんやろか?社会性を疑う」と言ったら、

 花子は「私、そんなおとうさんが可愛くって好き」と言った。世話の一つもせずに、「好き、可愛い」何を云う。紳士然とされていたり、落ち着いた貫禄を見せられたら、教室の違和感が倍増するかもしれない。花子の云うのが正しいかも。私も花子に負けずに〈おとうさん〉を「好き、可愛い」になろう。


**

〈おとうさん〉は夜、中学生相手の塾の先生をやっている。土日は場外馬券場の交通整理の警備員をやって生計を立てている。玉ちゃんが梅田に出たとき、見つけたのだ。信号待ちをしていたら制服制帽の警備員が帽子をアミダにかぶって、顔を横に向けていたが、最初はわからず通り過ぎたが、気になって、玉ちゃんは引き返してきて〈おとうさん〉を確認した。早速、玉ちゃんから私の携帯に〈驚きニュース〉のメールが入った。

「隠れようとしていたのに、わざわざ引き返して見るか?」玉ちゃんは何かにつけてはっきりさせる性分だ。野次馬根性も強い。でも、聞いて驚いた。昼は看護学校、夜は塾の先生、土日は場外馬券場の警備員。いったいどんな人生を生きてきた?


〈おとうさん〉には、お世話になることもある。私たちは理系に弱い。〈おとうさん〉は農学部、一応理系だ。みんなが最大に苦手とする「解剖生理学」は抜群の成績だ。解らない時は教わる。さすが、塾の先生だけあってわかり易く説明してくれる。解らないとこも納得で授業がやっていけるのは、〈せんせい〉いや違った、〈おとうさん〉のおかげだ。何にもなしで、世話女房するほど私は人がいいわけではない。

 授業中の〈おとうさん〉だが、時々、窓の外を見て、心ここにあらずというような様子がたまにあった。あるとき、あまり長く見ているので、何を見ているのだろうと私も窓の外をみやった。電線に鳩が2羽離れて止まっている。その2羽が近づいて来て並んで止まった。教室に目を戻した〈おとうさん〉と目があった。〈おとうさん〉チョット恥ずかしそうににっこり笑った。何故か「寂しそう」。

 

**

〈おとうさん〉は何であの歳で看護学校に来たのだろうか?看護学校の先生はおしなべて気が強い。〈長幼之序〉なんて考えはさらさらない。〈おとうさん〉はヘマをやらかすが、叱責する先生は情け容赦がない。

 あえて、〈おとうさん〉を弁護するなら、ともかく目立ってしまう。私たちなら〈女の子〉の中に、オザッキーなり大谷なら〈おとうさん〉がいる限り、何とか〈僕たち若い者組〉の中に隠れることができる。〈おとうさん〉には〈その他大勢〉の隠れ場所がないのだ。中には「変な中年が迷い込んできた」位に思っている先生もいる。生徒なんだから一律平等でいいのだが、もう少し言葉使いぐらいには配慮があっていいと私は思う。


〈おとうさん〉は、それは仕方がないと割り切っているのか、顔に出さないが、さすがに酷いときは、うなだれて帰る時がある。こんな時、大谷や、オザッキーはやさしい。「田野さん、明日も来てくださいよ!」と声をかける。彼らはチャント〈田野さん〉と呼ぶ。男の友情は見ていていいものだ。勿論、〈田野さん〉がいなくなったら自分たちが最年長の男生になるのが嫌なのだろうが…。そんな我慢までして看護学校にこなければならない理由が知りたい。

 

 一応面接の時に私は聞いているがあれは表向きだと思う。〈おとうさん〉がいないときの話題は何時もそこにいく。お子さんは二人いるという。たまに奥様の話が出たりするが、昔から塾の先生をやっていた感じではない。どんな仕事をやっていたのだろう?あまり人の詮索はよくないが、三人よれば詮索話は大好きだ。

 おザッキーは「学校の先生」。玉ちゃんは「先生の匂いがしない。商社勤務で窓際にやられた」。大谷は「さばけたとこがあるから商売してた人?」高島花子は「中小企業の経営者、倒産して奥さんに逃げられた」。「それが何で看護学校に来た?」と私。「嫁さん探しに」花子は真面目かと思うとはぐらかす。あんたにはついていけない。デモ、ひょっとしてそうかも?少しはお洒落をしてこようかな。詮索はやめましょう、その内、徐々にわかるわよ。

 ともかく今は、昼は看護学校の生徒で、夜は塾の先生で、土日は警備員なのだ。お弁当は自分で作ってくるが、卵焼きはいつも黒く焦げている。


3章 大阪府立S看護学校


『看護制度 (正看、准看って知っていますか)』


 私たちの学校は大阪の郊外のニュータウンの中の医療センター内にあり、私が今勤めている由緒正しい財団の系列病院の建物の3階部分がそうだった。だが、実習は、私たちはこの病院を使えない。2部のコースの学生が使うためだ。2部とは准看の看護師が正看の資格を取るために、午前中授業、午後から病院勤務の働きながらの2年のコースだ。

 制服を着ていれば見分けはつかないが、准看と正看とはどうちがうか?准看は知事が与える免許で、正看は昭和23年制定された保健師助産師看護師法によって定められた国家資格で、厚生大臣の免許である。正看の受験資格は3年の専門学校卒以上が条件である。地域を巡って馴染みのある保健婦さんや助産婦は専門学校を出て、さらに1年のコースに行かねばならない。看護大学卒業の者は看護師、保健師ないし助産師の資格が合わせて取れる。准看は中学校卒業、2年間の准看の學校で受験資格が取れる。学校は病院に付属しているか、医師会立が多く、看護助手のようなかたちで働きながら行けるように配慮されている。やる業務に差はないが、何より給与、待遇に差がある。

 

 元々、看護学校は病院の付属の養成所として出発している。戦前は、働きながら学べる数少ない場所だったのだ。貧しい農村の子女が手に職を持って自立できるまたとない機会であった。また、戦中は戦争の激化に伴って大量の従軍看護婦がいった。国は教育期間を短縮し、陸軍付属の看護學校を作ったりした。

 最近は医療の高度化で看護学校の大学化が進んでいる。大学院も全国で42もあるようになった。看護教育の高度化が進んでいるのである。看護婦(師)の歴史も時代と共にある。男性がなれないわけではなかったが、圧倒的に女性の職種とされ、「看護婦」と呼ばれてきたが、(男性は看護士だった)男性も増えてきて2003年に「看護師」に呼称が統一された。

 看護教育の高度化に伴って、最近、病院でも名札を見られると思うが、認定看護師や専門看護師の資格ができている。認定看護師は看護経験5年以上で6ヶ月以上の講習を受けた者、専門看護師は大学院修士過程で教育を受けたことが与件とされている、日本看護協会の認定を受ける。専門看護師は5年ごとに認定の更新を受ける厳しいものだ。専門分野のコンサルテーションを行う。病院によっては医師と同じような部屋が与えられている。


 面白いことに、このような高度化、専門化の流れの中で、看護師の地位向上を掲げる日本看護協会は准看制度は〈日本にしかない制度〉として廃止を国に要請しているが、看護師不足や人件費の高騰に悩む病院側や、医師会は猛然と反対している。

 看護師として就労しているものは120万人と云われているが、三分の一の40万人が准看資格者である。准看から正看になった人も多いから准看資格取得者はかなりな比率を持つことになる。

 看護師不足は外国人看護師養成の受け入れが始まったり、時代の流れとともに、その養成、教育制度は混乱、複雑を極めている。准看から正看へ移行できる2年コース(2部)は准看の人には大切なコースなのだ。


 高齢化に伴って介護保険法の下、訪問介護がはじまり、平成9年介護支援専門員ケアーマネージャーの資格もできた。看護師以外の専門職(社会福祉士、理学療法士、介護福祉士等)でも取れるのであるが、看護師資格者が半数以上をしめている。看護師は病院の中だけでなく、そのフィールドを広げた。又、子供を産んで夜勤のない就労の道も広がった。

 フランスでは開業ナースが看護師の15%を占め、医師の処方箋にもとづいて医療行為を行い、相談業務、介護や福祉と連携を持ってより自由な形で地域のなかに存在している。日本ではこれに近いのが訪問看護ステーションであるが、開業ナースの声がその内あがってくるだろう。社会保障に占める医療費の問題、医師不足、医療と介護の障壁の解消、看護師の活躍の場はもっと広がっていいのではないか。

 やっと、看護師の重要さや、その社会的機能が認め始められたのだから、そのためには、制度の改革も必要だが、何より患者さんはじめ、人々の信頼を得ることが大事だと、私は思うのだ。そんな覚悟で学んでいるのに、現役の若い娘たちは「彼」のことしか話さない。


『病院実習』


 そんなわけで、不便だが、私たちは隣のM市にある市民病院か、大河内医療法人が経営する大河内病院を実習場所にしている。大きな病院といえばM市ではこの二つで、たいていの人はどちらかを利用する。市民病院は老朽化し、設備も古くなっているのに、大河内病院は近代設備を誇り、医療機器にも最先端のものが導入され、サービスにも定評がある。例えば食事だが、かなり前から、温かいものは温かいまま、冷たいものは冷たいまま出すようになっている。

 その装備をセットされた無人ロボット車が、厨房からエレベータに載ってナース・ステーションまで、磁気でも塗られているのだろうか、金のテープをなぞってやってくる。よほど珍しかったのか、〈おとうさん〉キョロキョロと人のいないのを確認して、そのロボット車の前を〈とうせんぼ〉した。「シゴトチュウデス、ジャマヲシナイデクダサイ」と、言われたのを通りがかった花子が見た。

「〈おとうさん〉ロボットにまでバカにされていたよ」と話してくれた。


 大河内病院は介護事業も積極的に展開し、評価は旧態依然の市民病院と入れ替わり、M市における地位を不動のものにしつつあった。

 1学年50人のクラスが二クラスある。私たちは1組で、成績はクラスで1番は玉ちゃん、2番は私だ。頑張っても玉ちゃんにはかなわない。〈おとうさん〉は3番から5番の間。ミスがなければ1番かも知れない。オザッキーは10番内には入っている。高島花子は私や玉ちゃんを脅かす成績の時もあれば追試で四苦八苦のときもある。定まりがないのが花子流だ。大谷はやっと真ん中ぐらい。社会人の平均点をひとり下げている。社会人組は現役組を圧倒的に凌駕している。


 2組の社会人組は、ご主人を癌で亡くし二人の子供を抱えた明美さん、38才。隣組の一番である。〈おとうさん〉はこの明美さんに気があるみたいだ。電車で一緒に帰るとき、しきりに窓の外を見ている。踏切の向こうに、二人のお子さんの手を繋いだ明美さんの姿があった。私は知らんふりをした。他に大学を中退してきた友ちゃん21才。看護學校ではなく、相撲部屋に行くべきだと思う大介君、28才。大谷の高校の後輩清水さんなんかがいる。


***

『授業でどんなことを習うのか?』


入院した、しないは別にして病院を知らない人はまずいない。どんなエライ人でも必ずお世話になることがある。それが「白衣の天使」看護婦(師)だ。では、看護学校を知っている人は?看護学校の中に入った人?ガクンと少ないはず。私たち看護師がどんな科目を勉強し、どのような実習を経て看護師になるのかを知ってる人?ドクターだって正確に知らない。彼らの中には「医療を中途半端に学んできた人」と思っている人もたまにいるのだ。


 偉い医者先生が初めて癌になって、入院をして、「医療が医者だけで成り立っていない。改めて看護師に感謝した」と、アホ見みたいな常識を書いた本があったけど、

この機会に看護学校學校でどんなに努力?をしているのか知って、看護師に優しい言葉をかけて欲しい。患者さんやご家族の「ありがとう」の言葉ほど私たちを元気づける言葉はないのです。たちまち夜勤の疲れなんか吹っ飛んでしまう。

「あー、それはヘンダーソンの理論ですか?」なんて話しかけて、美人看護師にお近づきになるチャンスだって出来るかもしれない。

チョト、専門的になるけど・・我慢して、せっかくの機会だから!


『教えるスタッフは?』


 職員室は全員看護師資格を持つ女性ばっかりで男性は一人もいない。チョット異様な光景。校長だけが男生で、ドクターの資格を持つ。看護学校の先生になるには、看護師経験5年で、教員養成所で10ヶ月程度の講習を履修しなければならない。お子さんが出来て夜勤が大変になった人には丁度いい。年齢がいって現場がきつくなった先生もいる。

看護師教員以外に専門のドクターが提携病院から講師として来る。例えば「脳外科」「循環器」「内科」とかの専門科目がそうである。

「心理学」とか「化学・生物」とかは大学院生なんかのアルバイト講師で安くあげている。他に理学療法士、社会福祉士等の専門資格を持つ人がそれぞれの科目の講師としてくる。


『『解剖生理学』・・一番大事な科目なのだ』


 1年生で一番授業時間数が多いのが「解剖生理学」で、私たちは中国国籍の女性ドクターに教わった。中国国籍の医師資格は日本では医療行為はできないのだ。「格調高い講義だ」と〈おとうさん〉はこの先生のファンだ。時々、たどたどしい日本語になるとき、若い娘たちは笑う。こんな時、〈おとうさん〉の顔色は変わっている。

「人間は自分の身体についてこんなにも知らないのかと思った、一番大事なものなのにね。生物の科目の中だけでなく、ちゃんと『解剖生理学』として、高校の必須科目にすべきだ」が〈おとうさん〉の意見だ。

筋肉の名前、骨の名前全部覚えなければならない。最初のテストはそうだった。〈おとうさん〉の意見も分かるが、これ以上受験生に肩がこることや、骨が折れることを要求するのも可哀想だ。


 でも大切な科目だと思う。人間はpHペーハー0.1の閾値の中で生きていると解剖生理で習った。pH、水素イオン濃度のことです。1~14まであって、pH7が中性で、数字が7より小さいと酸性、大きいとアルカリと習いませんでしたか。人間の体液は7.3~7.4の間にあり、弱アルカリよりなのです。

 人間は海からやってきたと云いますが、太古の海のpHがこの濃度なのです。この閾値を越すと人間は変調をきたし、ふれが大きいと死んでしまいます。このバランスをとっている物質がナトリウムとカリウムです。ナトリウムは食塩という形でとりますね。塩分のとりすぎは血圧を上げるといいますが、ナトリウムやカリウムは筋肉や血管の収縮に重要な働きを持っています。カリウムを注射すると〈楽に死ねる〉と言うのはこんなところから来ているのです。


「pH1の差以内で、たった1の中で生きてるの、お酢の飲みすぎなんて恐い」と私が言うと、「pHは水素イオン濃度の逆数の常用対数で表しているから、2とは10の2乗のことで100倍の濃度差ということになる」と〈おとうさん〉が説明してくれた。「常用対数ね?」習った、習ったことは覚えているが、中身はインド洋の遥か彼方、花子じゃないがアフリカあたり・・ともかく人間は僅かな閾値の中で生きている繊細な生き物なのだ。


『その他の科目』


基礎科目:生物学、心理学、生化学等そして解剖生理学、病理学を学びます。

看護学:基礎看護学(看護技術、臨床看護総論)小児、成人、老年看護学と成長別に、そして外科看護学、母性看護学、精神看護学、リハビリテーション看護学、そしてターミナルケアーがあります。

 成人看護学がメインになり、疾患別に、例えば呼吸器、循環器、運動器疾患、・・・・目、歯、口腔、耳鼻咽喉等病院の診療科みたいな科目が並び、科目数も一番多いのです。疾患の医学分野は専門のドクターが、看護分野は看護学校の先生が受け持ちます。

他の専門科目:薬理学、公衆衛生学、栄養学、放射線医学等があり、概論的なものに:医療概論、人間関係論、社会福祉、介護、国民衛生の動向等実に幅広く学ぶのです。

 臨床看護総論は急性期、慢性期、終末期別の看護のあり方を学びます。基礎技術は文字通り、清潔や安楽等の概念と技術を学びます。安楽には移動、安楽な体位の保持、清潔は文字通り、包帯の巻き方、髪の洗い方等です。

 実習は原則、1年生は学内実習、2年生で2回病院実習があります。1回目は1週間。2回目は基礎実習と称して、2年の3学期に4週間あります。3年になると週1日は学校で、後は全て病院実習になります。


***

『学内実習・・大変なのです』


学内実習はこの基礎技術のテキストにそって進められます。最初はまず、ベッドメーキングです。白いシーツでベッドのマットを包むわけですが、シワ一つ許されません。畳んでいたセンター線も真っ直ぐでなければなりません。四隅を上手に畳み込むのがポイントなのですが、一人でやるとなると中々上手くいきません。

 実習は一つ終わると必ず実技テストがあります。パスするまで何回でもやり直しです。落ちたものは昼の休憩時間、放課後、練習に励まねばなりません。自信が出来たところで先生に再度見てもらうという次第です。一回でパスするために、テスト前には実習室は事前練習で一杯になります。〈おとうさん〉は実習を1回でパスしたことはまずなし、2回、3回と、いちばん最後まで頑張っているのは何時も〈おとうさん〉です。


 一人でやれる実習はいいのですが、看護役、患者役がペアーになってしなければならない場合が多いのです。寝衣の着せ替え、車椅子からベッドへ、反対にベッドから車椅子への移乗。入院患者さんの洗髪等です。

 何故か私のお相手はたいてい〈おとうさん〉。寝衣は浴衣式のもので、新旧の寝間着を、肌を見せることなく、手際よく着せ替えるのです。患者さんを半身の体勢に体位を変換させてやるのですが、袖から手を抜き、袖を通すのが中々むつかしいのです。上手に肘を折畳むのがポイントですが、患者さんは寝たままで手は自分では動かしてくれません。袖幅に肘がつかえてしまうのです。〈おとうさん〉それでも私の腕を強引に、「痛い!」思わず声を出してしまった。もー、バッテンです。「次回やり直し!」先生の無情な声が実習室に響きわたります。


 洗髪のとき、ベッド上でやります。水をこぼしてベッドを勿論濡らしてはいけません。時間がかかりすぎると風邪引きの原因になります。ドライヤーで乾かし、櫛で整えるまでを時間内でやらねばなりません。時間ギリギリ「出来たで、ナミさん!」。 私の目は石鹸の泡が入って兎の目。先生に見えないよう俯いていました。

 車椅子からの移動では私を振り落とすわ、散々。これだけではおさまらない、この後、再テストの練習モデルは私。「慰謝料及びモデル代ちょうだい、〈おとうさん〉!」

 陰部洗浄という実習がある。まさかこれはペアーで、交代でするわけにはいかない。それ用の人形がある。廊下の窓から実習室を見れば〈おとうさん〉が居残って事前練習に励んでいる。寝かせた人形を前に一つ作業を終える度に、「よし!」と指差し確認、次に移って、また、「よし!」の声。もはや、笑いを通り越して泣けてきた。

この人形の代わりはできないが、これからも練習モデルのお付き合いをするしかないと思った。


 実習の時の忘れ物は致命傷、寝間着を忘れた、バスタオルを忘れた、口腔ケアで歯ブラシ忘れた。その時間は見学、実習によせてもらえない。次のテストは減点からスタート。座学では追試の追試、受かるまで追試、追試と言えない追試があるほど甘い学校なのに、実習にはやたら厳しいのだ。

 実習前の服装、ボディチェックは勿論ある。制服は汚れていないか、皺はよっていないか、ボタンは取れていないか、爪はきれいに切れているか、マニキュアは落としてあるか、頭髪に乱れはないか。女性なら化粧の濃淡まで言われる。

この化粧で濃ゆいと注意されるのが高島花子だ。次の時間、スッピンできたら「口紅ぐらいつけなさい!」だ。〈おとうさん〉には実習前のその前チェックがいる。これもわたし役だ。社会人みんなで〈おとうさん〉を応援しましょう。言ったのは玉子。するのは何時もわたし。実習でよく使う物は2セットロッカーに用意した。


 でも、実習で〈おとうさん〉がかっこよかったことが一度あった。場面は胃がんの患者さんの術前説明だ、医師役、看護師役、患者役の3人ひと組みで演技を競う。

私のチームは医師〈おとうさん〉、看護師は私、患者役はオザッキー。自分たちで想定してセリフ回しを考え、アドリブオッケーだ。要は患者に安心感を持って手術に臨む気持ちになってもらえればいいのだ。

 

 医師は手術の内容を説明し、看護師は手術に要るもの、ご家族の待たれる場所等の注意事項を与える。患者役はその流れに沿って不安から安心に心が移っていくさまを演じるのだ。持時間は何分と決められている。中々面白い実習のやり方であった。この時の〈おとうさん〉の白衣を着た医師振りは、スタイルよし、説明明快、貫禄十分、あれなら患者さん安心して手術に行けるだろうと思った。

 私はそつなくこなし、面白かったのはオザッキーの患者ぶり、今にも死にそうな表情から、希望を持って手術に臨む覚悟の顔に徐々になっていく、上手いアドリブで笑いを取って、私たちが一番の評価。見ろ、若い娘たち!社会人の実力を知ったか。でもこの時の〈おとうさん〉は全く別人だった。あとで聞くと、何年か前に実際に胃がんで全摘の手術をしたとのこと。そりゃー、臨場感ある場面が描けた訳だ。〈おとうさん〉が看護学校来た理由、ひょっとして関係あるのかも?


***

『看護理論・・看護師のバイブルなのだ』


看護はすぐれて実践的なものだ。実習の時間が多く、厳しく指導されるのは当然のことである。「解剖生理学」全然では、医者が何を言わんとしているかさえ理解できない。ましてや患者さんの愁訴がどこにあるかの推測すら不可能だ。八宝先生は言った。「患者さんの細胞が今、何を語っているのかを想像するような看護をしなさい」と・・。

〈おとうさん〉は「解剖生理学」だったが、私は、時間数は少なかったが看護理論という科目が好きだった。手技に優れていても、解剖生理や疾患の知識がいくらあっても、相手をするのは病気の人で、何人もの亡くなる人がいる。そんな現場で、自分が看護師として、良き看護師としてめげず、続けて行くにはしっかりした看護理論が必要だ。いわば、看護師のバイブルみたいなものだ。


 このバイブルをどれにするかでその学校の教育方針が決まる。有名なものとしてフローレンス・ナイチンゲール(1820~1910)の『看護の覚書』がある。私の学校はヘンダーソン(1897~1996)の理論に立脚している。クリミヤ戦争で敵味方なく負傷兵を助けた「白い天使」として、ナイチンゲールを知らない人はないだろう。

 

『ナイチンゲール知ってるけど・・どんな人で、どんな理論?』


 ナイチンゲールは裕福な家庭に育ち、父から幅広い英才教育を受けて育った。貧しい農民の現状を見て、人々に奉仕する仕事に就きたいと思うようになって、看護を習い病院に勤めた。母や妹は猛反対であった。当時、上層階級からは看護の仕事につくものは専門知識もなく、低俗な不道徳な職業と見られていた。また、実際そのような側面は存在した。クリミヤ戦争での自国の負傷兵の悲惨さを知って、ナイチンゲールは看護団を組んで戦地に従軍を志願した。

 

 彼女がまず見たものは兵舎病院の不衛生さであった。現場では彼女らに抵抗する勢力もあったが、上層階級出身の彼女は戦時大臣ともコネクションがあり、相手をいとわない直言力や実行力を持って衛生状態の改善や、病院の改善をなしとげ、驚くべき死亡率の低下の実績を上げ、本国での名声を得た。

クリミヤでのそのけなげな働きぶりから「クリミヤの天使」「白衣の天使」と呼ばれた。看護婦が「白衣の天使」と呼ばれる所以はここから来ている。


『看護の覚書』では《看護とは、新鮮な空気、陽光、暖かさ、清潔さ、静かさを適切に保ち食事を適切に選択し、管理すること・・・・こういったことの全てを、患者の生命力の消耗を最小にするように整えることを意味する》とし、人は自然治癒力を持つ存在とし、衛生的なよき環境を与えることが大切としている。

いかにこの時代、衛生観念が欠如し、感染症が幅をきかし、ナイチンゲールはこれと格闘したかがわかると思う。良き看護婦とは「鋭い観察力」と「よく動く手」持ったものと言っている。

 

 そして、看護教育の重要さを説き、ナイチンゲール看護学校を設立している。あまり知られていないが、看護の実践に携わったのはクリミヤの3年間で、この時の疲労がもとで、以後50年は病床で過ごしていることはあまり知られていない。病床にあっても数々の著書を表し、政府に統計資料を提供している。近代看護教育の母として称えられているが、イギリスでは統計学の生みの親としても称されている。ヘンダーソンの看護理論もこの『看護の覚書』を発展させたものだ。


 ナイチンゲールの覚書も素敵だが、私はナイチンゲールの言葉が好きだ。「白い天使」ではなく「戦う天使」の性格が分かってもらえると思う。

〈天使とは美しい花をまき散らすものではなく、苦悩する者のために戦う者のことだ〉

〈私の成功のもとはこれだ。決して弁解したり、弁解を受け入れたりしないことだ〉

〈私は地獄を見た。決してクリミヤを忘れない〉

〈人生でもっとも輝かしいときは、いわゆる栄光の時でなく、落胆や絶望の中で、人生への挑戦と未来への完遂の展望がわきあがるときだ〉

 最後極め付きは〈人生とは戦いであり、不正との格闘である〉。ああーこの時代の女性は、まず、男たちと戦わねばならなかったのだと思った。他にも好きな言葉が一杯ある。面白いモノに〈人間、自分の命より大切なものが多くなると、気苦労が多くなる〉なんてのもある。

命より大切なモノいっぱい欲しい。〈愛〉〈男〉〈お金〉燃えさしてぇ~!


 気持ちがめげそうになったとき『〈千分の一〉のナイチンゲール』になろうと思う。「ナイチンゲールもヘンダーソンも無理、とっても出来ない」と私が泣いたとき、〈おとうさん〉が慰めて言ってくれた言葉だ。

ナイチンゲールは生涯独身であった。「今年で30歳になる。キリストが伝道を始めた歳だ。もはや子供っぽいことは終り。無駄なことも、恋も、結婚も・・・。主よ、あなた様の意志のみを考えさせてください」と言っている。私は40才でまだ、子供っぽいのだ。いいのよ、しょせん「千分の一」なんだから。


『バージニア・ヘンダーソンとは・・』


 バージニア・ヘンダーソン。この名前を3年間どれだけ聞いたことか。ヘンダーソンは兄弟が第1次世界大戦に従軍したため、自分も何かの役割と、アメリカの陸軍看護學校で学んだ。その後、コロンビア大学で学び、コロンビア大学看護学部の教員になっている。

 ヘンダーソンの看護理論はマズローの心理学の影響を受けていると言われている。マズローは人間を欲求ニードの階層で出来たピラミッドとみなした。下から(1)生理的欲求、(2)安全の欲求、(3)所属と愛情の欲求、(4)自尊の欲求、(5)自己実現の欲求、というふうに、積み上げられていく。人間の成長段階を考えて見ても同じだ。

 

 赤ん坊の時はミルクを欲しいと泣き、オムツが濡れて気持ちが悪いと泣く、全くの生理的欲求の塊である。幼児になって、火はやけどをするし、おコッチたら痛いと覚える。学校に行くようになって、仲良しグループが出来、両親の愛情の庇護の中にある。上級学校に進み、自分を一人前と認めて欲しいと親にアピールする。反抗期がこれにあたる。そして、学校を卒業し、親から離れ自分の家族を持ち、仕事を持って自立した存在として社会と関わる。


 建物の土台が崩れるとその上の部分も崩れてしまう、下の欲求がある程度満たされて、初めてその上の欲求を充足することができるようになる。ヘンダーソンはこれを14の基本ニードに簡潔にまとめている。

(1) 正常な呼吸 (2) 飲食 (3) 排泄 (4) 移動と体位の保持 (5) 睡眠と休息 (6) 脱衣と着衣 (7) 体温の保持 (8) 清潔な皮膚 (9) 安全な環境 (10) 他者とのコミュニケーション (11) 宗教 (12) 達成感のある仕事 (13) 遊びやレクレーション (14) 自己実現 である。もうチョット解説をさし挟んでいるのだが、長くなるのでやめる。でも、分かってもらえると思う。


 患者はこれらのニードの不足した人とみて、この基本的ニードの充足を助けるのが看護ケアだとする。ニードに対する援助は医師の治療と並ぶべきケアであり、治療だけでケアがなければ患者は基本的ニードを満たすことが出来ず、生活の流れは絶たれる。ケアは治療にとって欠くことができないものとする。この援助活動は単なるお世話ではなく、生物化学的、心理学的、社会科学的知識と技術を要するのだとヘンダーソンは云う。ヘンダーソンは大学院で心理学や生理学等を学んでいる。ああー、大変だ。気がヘンダーソンになりそうだ。

 

(9) までならわかるけど、(10) 以降もお助けするの。「勝手にやってよ」と思った。例えば、(10) 喉頭がんで手術した人、(12)アル中の患者さん、(13) 手足に障害を負った人、(14) 鬱や精神を病んだ人を考えてみて、「看護師でも、わたし関係ないもんね」と言えるだろうか?看護の領域は広いのだ。ヘンダーソンは敢えていう。「看護婦は欠けたるところの担い手」になりなさいと。「孫の手になったらええんやろぅー」と大谷はヤケクソ気味に云った。


『看護理論を実践してみましたw』


この他に看護理論としてはロジャーズ、ロイ、オレム、トラベルビーと色々ある。ようは、(1) 人間をどう捉え、(2) 病人をどう定義し、(3) その違いによって、看護の意味が違ってくるのだ。最近読み直して「面白いな」と思ったものにレイニンガーがある。彼は、人間はその文化の中で病むという。

 例えば、日本では外に出て冷たい風にあたった〈風邪〉であるが、西洋医学ではウィルス感染による「非特異的上気道炎」と捉える。病気やむと疾患の違いである。よって固有の文化を理解して看護に当たることが看護には大事になる。最近のように外国人が多くなってきたら・・そういうときが多くなった。イスラム教とヒンズー教はどう違ったのだっけ?世界史の勉強大事です。


 ナイチンゲールやヘンダーソンは病人を回復過程にある人として捉えたが、全く回復の見込めない病気が増えてきた(感染症から、悪性腫瘍のように原因がはっきり分かってきた病名が増えたともいえる)。

 それに病んでも〈生きる意味〉を問う患者さんにどう寄り添えばいいのか?トラベルビーは、(1) 患者と未知の人として出会い、(2)その抱える問題を知り、(3) 患者の気持ちになり、(4) 共に苦しみ、(5) 打てば響く関係を患者と持つべきであり、そうした看護師の支えを受けることで初めて患者は自分の病に積極的な意味を見つけていくことが出来ると書いていた。胸が熱くなった。そんな看護が出来たらどんなにいいだろうと思ったのだ。たまには、理論を読み、原点を思い出すのもいいものだ。


 ちょっと理論を応用して上手くいきだしたことがある。パブローの理論だが、患者は看護婦(時代を考慮して婦にしてある)にどんな人間を求めているか?(1) 未知の人として出会い、(2) 幼児を世話する母親がわり、心を一にして回復をめざす、(3) やがて若者と指導者の関係になり、(4) 患者は回復し、大人と大人の関係になる。「その時々の患者が求める役割をあえて受け入れて演じよ」と言う考えなのだ。

 時には母のように、姉であったり、妹であったり、娘になってみたり、恋人的になってみたり、娼婦にはなれないけれど…これってけっこう効果があった。私って演技派なんだわ。男性看護師が増えてきた昨今、「男性看護師の役割」とかパブローの理論に追加修正が要りそうだ。オザッキー、新しい看護理論書いてよ!看護学校の先生になったんでしょう。


 看護にとって、人間関係や、心理学的重要さはわかってもらったと思う。これらの授業は講義と云うより、グループ学習のディスカッションが多かった。多分、教える方も教へづらくてグループ学習に振った感じがしないでもない、これをオザッキーは極端に嫌った。

 社会人と若い子、何処まで口を挟んだらいいのか、喋り出すと社会人の独譚場、遠慮すると若い子は喋らず先に進まない。人間関係、心理学的側面、やはり社会人組に一日の長がある。イラついて、つい口出ししてしまう。

 このへんは、先生経験のある玉ちゃんは上手い、みなに上手に質問を振っていく、答えが帰ってくるまでじっと待つ。「・・と言いたいのね」と答えをホローする。わかっていても急にはマネ出来ないもの。何でも長年の訓練がいる。「彼がね、彼が・・」と、男の話なら休憩時間に口いっぱいに話すのに、「かんじんなときに話せないなんって・・」と、オザッキーは怒っているのだ。


***

注射の練習・・血管くんって痛がらないの?


看護理論の授業に感動していたら、高島花子は「看護婦は医者の召使い。患者の使い走り。現実はそうなんだから」と白けた言葉を口にした。ともかくこの子は変わっているが、その手技は見事だ。先生がやったことは一発でマスターしてしまう。注射の実習がある。『血管君』というゴムの管が埋め込まれた練習台で練習をするのだ。最後にペアーで〈打ちっこ〉をするのだが、手が震えてしまって…。

 私はいくらなんでもこの時だけは〈おとうさん〉を避けた。うまく言って花子に代わってもらった。花子のその見事なこと、一発で決めた。全然痛くない。

〈おとうさん〉とペアーになったオザッキーの顔ったら、目をきつくつぶって、横むいて血の気が失せている。でも〈おとうさん〉も一発で決めた。オザッキーは安心の深~いため息を吐いた。


花子云う。「怖がったら相手も怖くなる。血管突き抜けったって相手の手ぐらいに思って狙いを定めてプスっと。快感やでぇ~」

「よし、相手の手や」と花子の腕にプス、快感で決まった。今は、看護師資格をまだ持たない、看護学生同士の〈うちっこ〉は禁止されているらしい。『血管君』だけの練習で、最初に打たれるのは誰だ?


『ウチでも大変、ソトでも大事件』


 高島花子はバイク通学で、そのバイクは派手なもので、ハーレーダビッドソンとか云った。大谷いわく300万円はするらしい。そんな花子が退学処分になりかけたことがある。

 入学して連休が終わった頃、一泊の宿泊研修で、バスで行ったことがある。研修と言っても皆は遠足気分だ。花子が酒を持ち込んで車座になって何人かが飲みだした。花子にしたら会社の一泊旅行のぐらいの乗りだったのだろう。

 知った学級委員の玉ちゃんが取り上げて(私も一緒に行った)、宴会にはならずに済んだ。でも〈ちくる〉奴が必ずいるもんだ。引率責任者の吉増ヨシエ先生が飛んできて、酒を持ち込んだ主犯探しを始めた。あだ名はヨッシー。定年近いお歳なのだが、老いて益々の口で、この先生をまず好く生徒はいない。


 花子が手を上げそうになったとき、玉ちゃんが私ですと名乗った。「果物の絵が書いてあったので、ジュースかと思ってバスの中で、皆で飲もうと思って何個か買ったのですが、飲む機会もなく持ち込んだのです。花子さんに『玉ちゃんこれ缶酎ハイやで』と言われたのをすぐ捨てればよかったのに、もって帰ろうと思って置いていた私が悪いのです。もし退学処分なら私に出してください」と云った。

 1年の学級委員は入試の成績がトップの者がなることになっていた。選挙で決めるのは2年からである。こう言われれば玉ちゃんを処分するわけにもいかない。以降、花子は玉ちゃんの言うことには絶対服従した。玉ちゃんは3年間学級委員を勤めた。


 6月にはこんな事件があった。授業中やたら救急車の音がすると思ったら、下の病院に負傷者が運ばれているとのことだった。後で、これが池田小学校の無差別殺傷事件だと知って驚いた。池田市の近辺の救急病院に負傷者が振り分けられたのだ。こんな事態にも看護師は対応しなければならないのだと思った。

 色んな事はあったが、みな無事に2年に進級した。私も、〈おとうさん〉も、オザッキーも2年から奨学金が受けられることが決まった。


『男たちの産科実習』


 S看護学校の実習先はM市民病院と大河内医療法人の経営する大河内病院の二つである。1組は市民病院、2組は大河内病院と決まっていた。2年1組の私たちは春の実習は市民病院であったが、市民病院が老朽化のため建て替え工事が始まり、基礎実習から大河内病院になった。

 私達が2年になった春、市民病院で産科実習があった。この実習では大谷とオザッキー、男達は「それはしなくていい、そこは入らなくていいのよ」と言われ、「何しに来たんや」とむくれていた。

〈おとうさん〉は?知らない。よせて貰えなかったみたい。産科のお医者さんには男性医師も多いのにね。同情。


『玉ちゃんの結婚、そのいきさつ・・』


 玉ちゃんと玉山さんとの結婚のいきさつは玉山さんより直に聞いた。予備校のときよく遊びに行って玉山さんとは親しい。玉山さんは厨房器具関係の仕事で、玉ちゃんの學校の給食厨房の設置に2、3日の予定で山口に出張になった。綺麗な先生だと思った玉山さんは、本社に適当に言って予定を1週間に延ばして、何とかデートにこぎつけた。

最後の決め文句が中々浮かばず、悩んだすえ、言った言葉が「玉山玉子になってください」だった。直球が届いたのか、6ヶ月後玉ちゃんは結婚の条件を電文で打った。

「ワタシノイウコトヲムジョウケンデキクコト。タマヤマタマコ」

玉山さんは返電を打った。「ワレポツダムセンゲンヲジュダクセリ」

玉子は幸せで、玉山さんは偉いと思った。


4章 基礎実習


基礎実習は3年に上がるための大事な実習である。今までの見学程度の実習ではなく、4週に渡り行われる。3年になると学校は1日だけで、後は全て病院実習になる。普段、追試の追試をやったり、甘い学校だが、毎年、何人かはこの基礎実習を落とされる。

「看護の世界は甘くはないのよ」の焼きを入れるための見せしめがいるのだ。他の科目の単位を取れていても、落ちると、1年この実習を待たねばならない。次の年はよっぽどのことがない限り、通してくれるのだが・・皆はこの実習だけは緊張する。

 実習では何グループかに別れ、それぞれに看護学校の担当教員と、病院側の看護師が指導員としてつく。看護学生は受け持ち患者を一人持つ。原則、実習中の患者さんの交代はないのだが、退院が早まったときなどは二人になることがある。

 こんな時は疾患が異なり、一から始めなくてはならず、最終報告書も2部になり、大変なのだ。又、担当教員と病院側の指導看護師の意見や、見方が異なるとどっちらを取り上げて良いのか分からずこれも大変なのだ。

 

 そんな緊張の連続の実習だが、お昼のお弁当の時間だけは違う。いつものメンバーでくだらない話が緊張をほぐしてくれる。いいえ、下らない話ばかりではありません。情報の交換、教え合い、助け合いがあるのです。〈おとうさん〉の忘れ物にも気を配らねばならないし。お弁当の時間は大切な時間なのだ。

 お弁当の時間に高島花子が「ニュース」を持ち込んできた。「大河内医師と小川看護師は出来ている。現場を見た」と云うのだ。大河内医師は理事長のご子息で、小川看護師は病院一の美人看護師なのだ。二人の噂は聞いてはいたが、噂でしかなかった。「どんなとこを見たのよぅ」と玉ちゃん。「節電とかで渡り廊下の電気暗くしてるとこあるわよね。だーれも居ないと思って手などつないでぇ、御手洗から出て廊下に顔を出したら見えちゃった。〈ドキ!〉として、又お手洗いに引っ込んだけれど。あれは出来ている」

「職場の中でか、まさか、本当につないでたんか?並んで歩いていたらそう見えることかてあるさかい。あそこはかなり暗いから…」大谷は認めたくないのだ。大谷は小川恵子にイカレている。小川看護師を見る時の目ったら、見れたものでない。

「大谷、私の視力検査の結果知ってるか、右2.0左1.8やで」と花子は大谷の気持ちなんか一切斟酌せずに言った。約1名を除いて噂は噂でなくなった。


『患者さんに付く』


患者さんには事前に「看護学生がつくけれどいいですか」と了解を取る。そして実習3日前につく患者さんの疾患名が知らされる。この3日間で疾患についての事前学習を終えなければならない。

〈おとうさん〉が付いた患者さんは北さんと言った。隣のベッドは南さんで、南さんは北側で、北さんは南で。ああややこし。ともかく北さんは「実習の看護学生がつくけれどいいですか?」と訊かれて、てっきり若い女性だと思って、「僕は若い人が好きだからいいですよ」と答えられた。挨拶にやってきたのが担当教官の八宝先生と〈おとうさん〉。北さんは〈おとうさん〉が指導教官で八宝先生をつく実習生だと思ったらしい。

「何が若い生徒さんだ、でも可愛い顔してるから、マーいいか」と思ったらしい、八宝先生は40才だがベティちゃんそっくりなのだ。すると、つくのは〈おとうさん〉と紹介されて思わず、「君とこの学校はどないなってるねん?」と言ったとか。


『おとうさんの実習・・真珠の涙が流せない』


 何と言っても〈おとうさん〉の実習を話さねばならない。〈おとうさん〉と私のグループの指導教官は、ヨッシーこと吉増ヨシエ先生であった。何か起きなければと私は心配した。吉増先生はこの実習で必ず苛めるターゲットを一人決める。何しろ「落とす」「落とさない」の生与の権限を持つ。〈ヨッシー〉は何時も実習で一人、いじめのターゲットを見つけて楽しむ悪い癖がある。若い子たちは最後に〈真珠の涙〉を流し、許されるが、〈おとうさん〉には生憎〈真珠の涙〉はないのだ。メガネをかけて、唇は薄く陰湿に笑う。あと2年で退職だと言うのに困ったものである。


〈おとうさん〉とヨッシーが患者さんの疾患をめぐって意見が対立した。〈おとうさん〉が付いた患者さんが例の北さんなのだが、北さんは前立腺がんで入院してきている。あそこに暫く管が入っている。陰部とその管の清潔をするのが実習生の役割なのだ。〈おとうさん〉は全摘手術に疑問を呈した。放射線治療も検討すべきだったとしたのだ。

 前立腺がんの場合はたいてい全摘手術で済まされるのだが、男性機能は失われる。北さんはまだ59才である。機能を守るべく放射線治療の可能性も知らすべきではなかったかと、報告書に記したのだった。

 

 看護師でも医師の治療に口出しすることは厳禁である。まして看護実習生ごときが口出しすべき事柄ではない。ヨッシーの癇にさわったのだ。削除を命じた。〈おとうさん〉は「知らせて、患者の選択に任せるべきだ」と抗辯してしまった。今ならインフォームド・コンセントとして重要視されているのだが、外科の先生は手術が好きだ。結果削除したのであるが、相手が悪い。ヨッシーだ。「ヨッシーとは云ってくれない」。基礎実習は不合格となってしまった。

 わたし、〈おとうさん〉の見識に一理あると思うが、医師ではないのである。分をわきまえるべきとも思った。要領が悪すぎる。


5章 その後の看護学生社会人組


玉子は玉のような女の子を一人産んで、国立病院の婦長になった。めちゃめちゃ早い昇進だ。玉子とは今も親友の関係だ。


 肉体派大谷は精神科の看護師になった。前回は患者さんに殴られたといって目にくまを作って来ていた。テニスで知り合った女性と結婚した。私に招待状はなかった。

大谷に個人的恨みがあると書いたが、それはこんなことだった。

私にあんな〈ひどい〉ことさえしなかったら好きになったのに…。

「ナミさん、食事に二人でいかんか?」何時にない真剣な口調。たいてい行くときは皆が一緒だった。これは「お誘いデートだ」と思った。勿論、私はオッケー。何時もの居酒屋風ではない、フレンチ風レストラン。

 私は少し酔いが回っていい気分。川沿いにあるホテル街のネオンも見えてきた。地下鉄の駅近くに来たら、大谷は突然私の手を両手で握って、「ナミさん、今夜はありがとう!」と云ってスタスタと駅に向かって歩いて行った。それを言うために私を誘ったの?30女をつかまえて失礼というもの。意気地なし!ひどい奴!死ね大谷!と思った。


 オザッキーは病棟勤務5年の後、講習を終え看護学校の先生になった。どうもあの事件以来、注射恐怖症になったみたいだ。看護学校なら注射は打たなくてよい。若い子相手に「みなさん、グループ学習しましょうね」なんて言っちゃって・・あいつは代わり身が早い。

 

 高島花子は大学を出ていたので獣医学部に編入して獣医師になって今アフリカにいる。先日絵はがきが来ていた。「今、最高に幸せだ。アフリカが私にこんなに合っているなんて。オザッキーに習ったスワヒリ語、習ってよかった。彼のスワヒリ語は上等よ。〈おとうさん〉は元気してる?」。花子が注射器を持って追っかけたら、虎やライオンだって逃げ回るだろう。その姿を想像しただけで笑えてしまう。


 スワヒリ語ではこんな話がある。お弁当を終えたわずかな時間、花子は、オザッキーにスワヒリ語を習い、花子はオザッキーに英語を教えた。花子の英語は聞いていても、外人かと思ってしまうほど上手い。オザッキーのスワヒリ語は聞いていても????ちんぷんかんぷん。元々何にも知らない言語なんだから無理もない。

  その内、止めるだろーと思っていたがズート続いた。それを見ていて玉ちゃんが「二人はいい関係になるかも?」。「何でぇー?」私。「だって、オザッキーと花子、あれは男と女ではなく、女と男よ、ひょっとしたら…」。「何だか、世の中、男女の境界線がややこしくなってきたみたい」。でも、二人の関係は玉ちゃんの期待のようにはいかなんだみたい…だった。

 

 私はなんとかやっている。お給料も増えたし、母には優しく出来ている。病院でも徐々に私の実力は皆が知るところとなって、次の次は私が次長だろう。何より好きな仕事をやっている充実感が幸せだ。ナイチンゲールは30才で生涯独身を決断した。「もはや子供っぽいことは終り・・主よ、あなた様の意思のみを考えさせて下さい」に気持は近づいている。


『みんなで甲子園に行った・・』


 病院の昼食は食堂があって、それなりにおいしく、安い。でも、慌ただしく掻き込んで終り。あんな楽しいお弁当の時間はなかった。大谷は大の虎キチで、〈おとうさん〉はキチまでいかないが、長年のファンで詳しく、二人の話が楽しそうなので、野球に興味のあまりなかった、オザッキーや花子が加わるようになって、皆で甲子園に行ったっけ。

 やっぱり多少はルールを知ってないと面白くない。両サイドの大谷と玉ちゃんが解説してくれたが、「なんで、一塁ばかりに走るの?たまに三塁に走ればセーフになるのに?」なんか云ったら、勝手に見てという感じでほっとかれた。でも外野の芝生が綺麗で、ビールが美味かった。


 花子がセンターを守っている新庄のフアンになってしまって「新庄さ~ん!素敵きぃー!こっち向いて・・」のやじの連発。またその声がよく通ること。新庄がセンタ-フライを取ってそのボールを花子に返した。大谷がナイスキャッチして花子に渡した。その日、新庄のサヨナラ・ホームランで勝った。みんな抱き合って、飛び上がって喜んでいた。私は「安くて、幸せになれる場所があるのや」と思った。

 

 それから私は甲子園に行ったことはなかったが、玉ちゃんを除いて4人はしばしば行ったようである。あるとき家でテレビをつけると、外野スタンドで胸も露にビスチェスタイルで応援している、いやあれは踊り狂っているといったほうがいい、花子が長く映し出されていた。あまりにも長い。このカメラマン、スケベ-。

 玉ちゃんのシモネタで私は耳年増になり、政治の貧困を語り恋愛談義もした。

もう、あんな楽しいお弁当は食べられない。今度の会合「ご注文は?」と訊かれたら、「いいです。私たちお弁当を持ってきてますから…」にしようかな?


 基礎実習落とされた〈おとうさん〉は透析現場で看護助手として、針が付いたダイアライザーから針を抜き、洗浄する仕事をして待った。あわてんぼうの〈おとうさん〉、血液の傷はB型肝炎のリスクがあって、そんな仕事して大丈夫かと私は心配した。

 基礎実習で落とされると翌年の基礎実習を待つしかない。おとうさんは1年待て、再度、基礎実習に挑戦したが、またまたヨッシーがつく不運であった。


終章 再度の挑戦!頑張れ、おとうさん!


玉子から全員集合がかかった。1年遅れてのおとうさんの実習評価が悪いという噂が入ったのだ。ヨッシーに睨まれているのだ。皆で応援をしようという事になり、注意を与えたが「いやー、今度は指導看護師さんも良い人で、順調にいっている」とのんきな返事だった。報告書も皆でチェックした。

3年生だった私たちは必死で応援したが、学年が違うと、庇うにも限界があった。何よりその要領の悪さったら聞いていて、「あんたは何年社会人をやってたの!」と、同情を通りこして腹が立った。

 受け持ち患者さんをめぐって担当教官ヨッシーと指導看護師の見立てが違った。〈おとうさん〉は指導看護師の見立てを了とした。「バカ、バカ、バカの3乗・・・!」指導看護師が正しかっても、点数、評価は誰が付けるの?!もー知らない。

 まだ1年〈おとうさん〉粘る積もりだったが、お笑い芸人知事の時代、大阪府の財政難とかで府立の学校は廃校になってしまって、〈おとうさん〉は卒業できず、看護師になれなかった。それでも、通信教育で社会福祉士の国家資格を取ってデイサービスの生活相談員を5年やって定年退職でやめたというから立派だと私は思う。


***

 55才で看護学校に入学した〈おとうさん〉に北さんがかけた言葉は「君、思い切ったね!」であった。北さんは〈おとうさん〉を認めていた。〈あの歳で挑戦か?偉いね〉であった。難儀やとは言わなかった。

 北さんがアパレルに勤めていたと聞いて、「僕の父は田舎で自転車屋をやっていましたが大阪に出てきて婦人服のブティックをやりました」と話し、〈おとうさん〉の〈お父さん〉の話になり、北さんは「君のオヤジは中々面白い人やね。ぜひ、小説に書きたまえ。この本の親父より面白い」と枕元の本を指さした。当時話題になっていた『少年H』という本であった。

〈おとうさん〉が「僕はそんな文才ないです」と言ったら、「僕が読んであげるから、書けたら持って来なさい」と家の住所を書かれたという。〈おとうさん〉はズートそのことが気になっていて、退職して時間ができたので〈おとうさん〉の〈お父さん〉を主人公にした『父の戦後』なる文を書き、投稿したらそれが本になり、何とか雑誌の〈遅れてきた新人賞〉を取って小説家デビユーを果たしたのだ。

 

 その中でちょっこと看護学校体験を触れて、私のことをなんと書いた。浜野屋ナミと名前は変えてあるが、「世話女房気取りのお節介焼きのナミ」だったり、「ドジで、忘れ物多いが頑張り屋のナミ」だったり…。これから出版されても私は読まない。

 私だって偉そうに言えない。癌の手術前に落ち込んでいる患者さん、病院に来る人は身体だけでない、社会的な事情を抱えている人も多い。特に中年以降の男性は…。

 そんな時に、胃の全摘手術をして看護学校に迷い込んで来た、変な中年〈おとうさん〉学生の話をする。少しオーバーにドジ、ヘマな実習ぶりを話すと、皆、腹を抱えて笑う。それでも看護学校を無事卒業にするしかないした話をすると、一様に暗い顔が明るく変わる。中には枕元に『看護専門學校受験案内』なる本を置いている人もあった。女の薗が中年男性の薗に変わっても私は知らない。


 一つ忘れていた。私が卒業の時、〈おとうさん〉が食事に誘ってくれた。フレンチレストランにね。「まさか…」大谷のことが頭によぎった。

 食事が終わって、百貨店のバッグ売り場でプレゼントするという。「そんな、高価な…いいんですかぁ~」と、〈おとうさん〉が薦めてくれた隣にあった1万円も高いバッグを買ってもらった。買ってもらってから、又「本当にいいんですかぁ~?」と訊いた。

「学内実習で先生に叱られて、しょんぼりしてたときに、玉ちゃんがナミのロッカーを開けて見せてくれた。タオル、寝巻き、石鹸、爪きり・・みんな二つ綺麗に揃えて入っていた。僕は泣いたよ」と〈おとうさん〉は言ってくれた。父が生きていて、卒業プレゼントされたような気持ちがした。バッグ、〈おとうさん〉大事に使ってますよ。


 浜野屋ナミと書かれたけれど、マーいいや。〈おとうさん〉にやっと訪れた春だもの、みんなで祝おう。28日まであと4日だ。今日は本当に冷える。明日は雪のトナカイさんになるのだろうか。母が待っている、早く帰ろう。

                        

   

          了




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