頑愚殿のゆううつ①
六月二日
安土の朝は早い。
昨日はなにやら胸騒ぎがして、三更(深夜1時)近くまで眠れずに時を過ごしてしまったのがツライ。
而して安土の朝は早い。六更(6時)くらいになって日がさして来ると、もう上様の生母・土田御前様が目を覚まされる。
齢71歳にしてなお健啖家であられる土田御前は、起きられると早速空腹を訴える。が、如何に生母様とてそんなに早く朝餉を召し上がれば、消化が出来ず体の調子が悪くもなり、一日の周期もどんどん早くなってしまう。
なので、ワシが二の丸まで散歩に連れて行くのが日課となっている。女中達が付き添いでも構わないのだが、なんだかんだ言って安土城は起伏や段差が多い。男手の方が便利なのだ。
その土田御前は打掛を脱ぎ捨て半袴を履き、しなびた大根の様な足をズムッと剥き出しにしてヒョイヒョイ先々へと歩く。
「しぇらえええ!」
土田御前は健脚ではあるが、入れ歯の調子が悪い所為か、ナニを言ってるのか判りづらい人が多いのも、ワシが付き添う原因である。
「はいはい、あそこに控えておりますのは山岡景佐殿でございますよ」
二の丸留守居役・山岡景佐は最近、わしの日課に付き合ってくれ始めて、いつも此処で合流を果たす。
「ゲッシャゲッシャ、マムー!」
「ははは。山岡殿、土田御前様はお主の顎髭が汚いと仰られておるぞ」
「…蒲生殿、今の本当に土田御前様の仰り様に相違ないのか?」
「ウッキャキャ!」
「その通りと仰っておられる」
「…ふぐぐぐ……それより、蒲生殿。お耳を拝借」
いつに無く鋭い眦の山岡景佐を見て、ちょっとからかい過ぎたかと少し後悔した。
だが、彼の放った言葉は予想を大きく超えて胸に突き刺さった。
「瀬田の兄上から、連雀(※小商いの行商人)が噂しているという話なのですが……京で謀反が起きたとのことですぞ」
瀬田は琵琶湖と宇治川を結ぶ要衝の地で、東から京を上がったり下ったりする時に決して欠かせぬ場所であり、いわば情報が一番集まる場所とも言える。
古来より壬申の乱に始まって、倶利伽羅峠の戦いや承久の乱、建武の乱と、天下の大戦の趨勢を決める決戦の地でも有名である。
山岡・兄は、いい加減な情報も見極められないほどの無能ではない。寧ろ色々勘案した結果、ワシに話を持ってきてくれたのであろう。
京で謀反……誰が誰を襲ったのであろうか。普通に考えれば上様が襲われたのか。しかし一体誰に?
京にいる嫡男・信忠様か、それとも堺の三男・信孝様か?
考えられるのは、身内。家臣団の中で上様の予想を超えてくるものなど中々居ないし、有力な家臣の牽制もあって、早々出し抜けるものではない。
唯一、あり得るのは実力と京への近さを両方併せ持つ、米五郎左こと、丹羽惟住様くらいのモノだろうか?
だが、丹羽惟住様は決してそのように軽々な振る舞いをされる方ではない……では誰が?
そして上様の安否はどうなっておるのか?
心中に急にモヤモヤした暗雲が立ち込めるのを押し殺し、にこやかに土田御前を屋敷へと案内する。
「……むにゃむにゃ?」
「いいえ、そんな事はありませぬぞ」
年の功か、土田御前に心を読まれそうになるが、それでも押しとどめる。
戦も接待も同じである。突き崩されたらそこから解れる。だから苦しい時ほど鷹揚に構えるのじゃ……
急にあんなに嫌だった筈の父・定秀の声が脳内に響き渡る。
「景佐殿。引き続き情報収集に勤めて頂けまするか」
「ははッ」
早い身のこなしで二の丸屋敷へと戻る山岡・弟。何事も無いよう、空を仰いで小さく息を漏らした。