安土城にて③
大手門は都から岐阜に抜ける街道沿いに開いている。
安土の城下は上様が出した楽市・楽座で賑わっているが、お日様も真上を越えたので大分店じまいをしいていて、その閑散とした街道を進んで行った先にクグまった通用門があり、その脇を御茶屋平という出丸が固めている。
そこを通れば大分道筋を省略できる。そこを進んでいくとやがて九十九折の難所に差し掛かる。
もう若くも無い身空で、この坂を上るのは大変である。安土城は表向きは天朝様を迎え入れるために大手門は入り易くしているが、その大手門も、羽柴殿の屋敷を切り崩すと完全に遮断されてしまうように設計されている。
また、その後ろ側は恐るべき緻密な縄張りが施されている…権謀術数の城なのである。
堀久太郎殿の屋敷を抜けると、やっと三の丸御殿へと着いた。ここで一息入れて広くなった額の汗をぬぐう。
未だ高いとはいえ、ゆっくり傾斜する陽の光が反射し、上様ご自慢の天主閣と、金を塗った瓦がキラキラと反射した。
なんともこの世の物とも思えない心地になり、ほぅ……と佇んで眺めいってしまった。
「しまった……」
少しのつもりが思った以上にボンヤリしてしまった様だ。風がもう涼しさをはらみ始めている。こんな場所に長居しているとかの御仁に見つかってしまう………
「こら~、がんぐ!」
思ったが運の尽き。一番マズイお方の黄色い声が耳にこだまする。
侍女を連れて、背の小さい内掛け姿の女性がこちらに向かって手招きしている。
「がんぐ~、こなたはいつもボンヤリしておる! だから家中でも体裁が上がらんのじゃ!」
そういってそのお方がヒョンヒョン跳ねながら怒鳴ると、長い髪が後を追って一緒に跳ねて来る。これでも御年は40を過ぎているというのに、未だあどけなさと若々しさが抜けていないのは驚異的である。
お鍋の方。
織田家中の奥の中にあって、正妻の安土殿と殆ど同等の権力を誇る、側室筆頭。
本来、側室筆頭であったのは嫡男・信忠殿を産んだ生駒の方であるが、惜しむらくは若くして亡くなられてしまった。
その後、年齢で言えば三男・信孝殿を産んだ坂の方が本来ならば筆頭である筈だが、身分が低いため序列は低く、次に重鎮であるお養の方は些事に興味を持たれぬ、超越した方だったのでその次のお鍋の方が筆頭となった。
「お鍋の方」とは上様が付けた綽名で、上様が気に入った証左でもある。他にも稲葉の方や土方の方、滝川の方等が居るが、お鍋の方のように綽名を付けられているのは他に居ない。
上様は気に入った者には綽名を付ける。前田殿を「犬」と呼んだり、羽柴殿を「剥げ鼠」と呼ぶのはお気に入りの証であろう。同様に自分の子にも「茶筅」や「五徳」などと茶の湯に因んだ綽名を付けておられる。
本来は小倉殿とか、小倉の方…というのが正しい。
しかしこの「小倉」という名前に、どうしてもワシは後ろめたくなってしまうのである。
小倉家はかつてこの南近江に領地を持つ土豪であったが、我が父・蒲生定秀が勢力拡大の為に攻め滅ぼし、そして彼女のかつての夫である小倉実房を殺してしまったのである。
その時の軍勢には…不本意ながらワシもいた。栄枯盛衰・会者常離は戦国の世の習いとはいえ、やはり申し訳なさが先に立ってしまう。
なので頭が上がらないため、あまり会いたくなかったのである。
「ムッ、がんぐ。その方が持っている物はイゴイゴしているが何なのじゃ!」
お鍋の方がワシの持つ虫篭に目をやった。
「あ、いえ…これは木胡椒にございます。宜しければ今日の夕餉にと摘んで参りました」
無理とは分かっていても、つい誤魔化してしまう。
「このハゲー! ワラワはそっちの箱に入っている物は何かと問うておるのじゃ」
「ははッ……これはあのう…芋虫でして…」
お鍋の方は見た目が若々しいせいか、頭の回転も早い方である。
「…むぅ、安土殿の所望か」
「は…あ、いえ、拙者の独断にござりますれば……」
「がんぐは安土殿にばかり媚を売っておる!」
「いえ、そんなことはございませぬ……」
「たまには我が室へも顔を出せい、がんぐが居らぬと用事が溜まる一方じゃ!」
「……え?」
思わず顔を上げると、お鍋の方の顔が赤く上気していた。
「もう知らぬ! 勝手にせい、ハゲ!」
そう吐き捨て、急にプリプリ怒り出したかと思ったら、お鍋の方は踵を返して足早に去ってしまった。
むむむ…ワシ、またなんかやらかしたかな? どうもお鍋の方のお気持ちを汲み取るのは苦手である。伏していた間、蚊に刺された首をポリポリ掻きつつ立ち上がった。
さあ、虫篭を安土殿に渡し、木胡椒を賄い方に預けよう。急がねば、また山崎殿や木村殿の呆れ顔を見る羽目になるだろうから。
お養の方は後の養観院です。まだこの時点では出家してませんので。