頑愚殿の決断ー④
土田御前の最後に残した言葉が、妙に心に突き刺さる。今までも間違った選択をしてきたし、今回もやっぱり明快な答えが分からない。
焼き飯を運ぶ係が居なければ、隅に蹲って口に拳を押し当て咥えながら、声にならない叫び声を上げたい衝動に駆られる。
正直、荷が重い。安土城は守兵がいない以上、棄城するしかない。奥方様達には、出来うる限りの避難場所を案内する……但し、美濃大乱に近江も敵味方が分からない以上、逃れる先は限定されるが……
京方面は明智方が抑えているので、下手すれば捕まる。上様の奥方と判れば無事では済まされまい…戦国の世の倣いで見せしめに殺されるだろう。何より、上様がソレを率先してやってきたのだ。明智も同様の手を使うだろう。だから西に逃げるという方策はありえない。
今思いつくのはこれくらいだ。ほかにどんな方法がある?
そうブツブツ呟いていると、前に人影が現れた。
端正な顔立ちの滝川殿だった。
「蒲生殿、何を呟かれておるのですか?」
滝川殿の顔はいつに無く物憂げである。滝川殿の表情に動揺したワシは、変に機転を利かせて滝川左近将監殿の情報をまくしたてた。
「あ、イヤ……滝川殿に関しては連絡や音沙汰も無く……関東の地で縄張りも定まっていないので、難儀しているかもしれませんが、きっと才知あふれる方ゆえ、無事に難関を越えて戻られる事でしょう」
滝川左近将監殿は関東管領として上野に下向しており、厄介な上田の真田や関東覇者の北条などに睨みを利かせる役だったのが災いしている様子である。
東海から戻るにしても徳川殿が不在であるし、未だ武田の残党が不穏でもあるし、また無事に帰ってきたとしても、所領や手勢が居ないので窮めて不安定な存在となってしまう。それでも肉親の帰りは何より心待ちにしているのかもしれない。
「いえ……勿論、一益殿も心配ですが、『中将殿』の事が……」
ハッと気がついた。
滝川殿の言われる中将殿とは、織田信忠様の事で、そういえば滝川殿と信忠様は従兄妹同士であり、幼馴染だった。
明智方が差し出した名簿には、残念ながら討ち取った者共の筆頭に……信忠様の名前が書かれていた。
「………」
言うべきか誤魔化すべきか逡巡しているワシの顔を読み取ったのだろう、滝川殿が立ちながらハラハラと涙をこぼしていた。
今まで一度も感情らしき表情を見せた事の無い滝川殿の泣き姿は、月明かりに映えて、妖艶というか、何か人に非ざらなるもののような気がして、息を呑んで無礼を承知ながら凝視してしまった。
そんな滝川殿に城を棄てる等という通知はどうしても出来ず、ただ逃げるように焼き飯を御付の女郎衆分だけ置いて、逃げるように退散してしまう。
「はぁぁぁぁ……」
ただただ、気が重い……あの後スグに出会った坂氏は、半狂乱でただひたすら「自分は商家の家の出だから、明智も手は出すまい。だから実家に帰る」の一点張り。坂氏の実家は尾張だが、そこに行くまでに野伏せりや野盗、更に一揆だって有り得る状態だと言っても聞き入れようとしない。最後は御付の者共が押さえ付ける様に言い含めていたが、アレでは落ち着くまで時間もかかろう。
いつもは豪胆な稲葉殿も、流石に涙の痕を残してはいたが、棄城の件を了承してくれてはいた。だが福田三河守と相談していたので、きっと実家の稲葉一徹殿の元、岐阜まで強行で帰るのであろう。
御人形の様なお養の方は、実娘が我が蒲生家に輿入れしているので、我等の城へ一緒に退出する事に賛同してくれた。何か考えている様子でもあったが、今の所、唯一表情を変えることの無かったお方である。まあ、それはそれでどうかとは思うが……
一気に老け込んだ感のある土方氏は、実父が三介殿(織田信雄)に仕える土方雄久殿なので、三介殿の治める伊勢へと行きたがった。しかし…そういう事ならもっと早く言って欲しかったのが本音だ。既に越前者の千福遠江守が少ない手勢と共に伊勢へと逃れてしまっている。一緒に逃れれば未だ護衛も居たろうが、流石に伊勢までの峠を女子供だけで行かせるほどの愚か者ではない。
本来案内に適役であるはずの甲賀衆も徳川殿の買収によって人手が集まらない。
「お困りの様だな……」
「ひゅいっ!?」
急に誰か耳元で囁いたので、あらぬ声を上げてしまった。
刀の柄に手を掛け、反射的に振り向くと……異形の者が居た。
「…ま、松本殿?」
そう、留守居役で上様の御伽衆である、松本為足殿が月を背にして浮かび上がっていた。
「ワシ等の手下ならば、伊勢に抜けるのは容易いぞ」
「お主…一体?」
「なあに、ワシ等は果心居士一党に連なる、つまらぬ放下よ…が、つまらぬ者故、伊勢までの抜け道、それに縁故の者や木賃宿も知っておる」
放下師……!
謎の者と思っていたが、まさか放下師だったとは。しかも果心居士とは!
放下は手品や妖術、傀儡など大道芸を以て諸国を漫遊する大道芸人の事である。だが、それゆえ逆に土方氏を預けられる信頼が無い。
「頑愚殿のお考え、手に取る様に判るぞよ。だが、安心なされ。ワシ等、上様に受けた恩は忘れませなんだ」
「?」
「頑愚殿はお忘れか。7年前の不破の関、山中であった出来事を」
「あっ!」言われて思い出した。長篠の合戦があった頃、上様は不破の山中で乞食をしていた哀れなカタワの老人に自ら施しをしているのだ。突然、何を思ってその様な為されようだったのか家臣達は分からず、訝しげであったので強烈に記憶に残っている。
「彼の者、我等の師匠である果心居士の成れの果てだったのよ。よって、我が師の受けた恩は我等が報いて見せよう」
何故、素性もよく判らぬ松本殿が御伽衆だったのか、これですっかり理解できた。
「…信じてよいのじゃな?」
「相身互いは武士だけの言葉ではないぞ」
フフッ…こやつ、ワシの口癖も知っておったのか。流石。
「なれば少々待ってくれ。土方氏を説得してこよう」
「急げ頑愚殿。この夜陰なればこそ抜けられる道もある」
「スグに出るというのか!」
松本為足殿が黙って肯首した。いやはや…事は急がねばならない。とりあえず一つ肩の荷が下りた気がして、踵を返し土方氏の元へ説得に向かう。
事態は刻一刻と無情に過ぎていく。