頑愚殿の決断 閑話~徳川家康の独白
「ううう…マズイでござるマズイでござる……」
草むらで野グソする中年男がしきりにブツブツ呟く。屁が相槌するかの如く放たれた。
「殿、その癖は未だ直らぬのか……」
本田平八郎が少々うんざりした顔で、草むらの向こうから声をかけてきた。
三方ヶ原の時より、恐怖に慄くと腹が下って脱糞してしまう癖が抜けなくなってしまった。些かムッとするも、言い返せないので黙って近くの大葉を毟って尻を拭く。
「しかし茶屋四郎次郎殿に同道なさってもらい、随分助かりましたな」
カラリと井伊直政が笑った。
本当にそうだ。今回、堺からの急変の知らせを受けたのも、いち早く近畿脱出の手筈を整えたのも総て茶屋四郎次郎である。戦功第一といっても過言ではない。
次に甲賀の上家である多羅尾光俊に話を付け、甲賀一党の協力を取り付けてくれたのが、我が徳川家ではないのだが上様から案内役を承っていた目賀田堅政殿である。
彼無くして甲賀を切り抜けると言う奇想天外な脱出方法は無かったと思う。戦功第二位である。
最後に伊賀までの手筈を整えてくれた服部半蔵。伊賀は少し通るだけであったし、ブッチャケ天正伊賀の乱のせいで服部家の知己は居なかったが、夜盗が出ない様にしてもらうだけでもかなり精神的に助かった。戦功三位だとは思う。
他にも上様から付けられた長谷川秀一殿……彼は使える。茶屋四郎次郎との予算編成、つまり何処までばら撒けば良いのかの適正価格、果ては伊勢に抜けた後の廻船問屋「角屋」との急ごしらえの交渉までしてくれた。
この者……趨勢がどう変わろうと、我が徳川家に取り込んでくれよう。
翻って我が徳川家臣団ときたら……今ここに徳川の重鎮が集結しておる事の重大性くらい弁えたらどうだ。本多も大久保も榊原だけではなく、まさか酒井まで武辺に逸りおって……戦に狂奔しすぎじゃ…、もっと徳川家臣団に能吏の者を抱えねば領土の太平は得られぬ。
しかし、本当に茶屋殿と目賀田殿は良い仕事を成された。コレほどまでにガッチリ甲賀衆が警護してくれるのであるならば、無事伊勢まで到着出来るであろう。
だがこれで甲賀衆をアテにしていった大名には、ちと申し訳ない気持ちにはなるノウ。なにせ、多羅尾殿を始めとした主だった甲賀衆を我等が使ってしまうのだから。安土城も近いし、一番困るのは和田殿…いや、和田殿は不在であったな。
では美濃へ抜ける道を守る久徳家か、南近江衆旧筆頭の後藤殿か、新筆頭の蒲生殿か……そこ等には悪いが……徳川家の為。捨石になってくれ。
「殿、そろそろお急ぎになりませぬと日が暮れますぞ」
静かな石川数正の声に黙って頷き、立ち上がって袴を締め直す。
足の速い甲賀衆の細かい先導の下、崖を馬で通る事が可能だったので夕方前には無事、多羅尾家の館に到着する事が出来た。
「嗚呼、そこに居るは目賀田殿ではないか。本当にありがとう」
足を洗ってもらっている間に、通り過ぎようとした武将に声をかける。白髪混じりながら元気溌剌といった感じのその者、目賀田堅政はこっちを振り向き、ニコヤカに笑い「なあに、困ったときは相身互いですぞ!」と天真爛漫に笑った。
「お前様これからどうなさる。もし宜しければ、このまま伊勢まで行き徳川の家臣として仕えませぬか。いや、厚遇は約束しましょうぞ」
「カッカッカ、家康様にそう行って貰えるのは果報にござる」
大きく笑った後、目賀田殿がニヤリと笑う。
「しかし、我が領地は南近江。地勢を見るに明智様の支配下に置かれるでしょう。よって大乱の中、大いに戦をして戦働きで我が領分を増やす事こそ、我が本分にございます!」
むぅぅ……本当にそんなにこれからも今までの戦国期のような小競り合いがあるのだろうか。いや、無い。上様こと、織田信長がソレを嫌がったのだ。日本の僻地ならば未だそれもあるかもしれないが、これから先、そのような機微は少ないだろう。
そして、時代を読めぬ目賀田という男についてはもう興味が薄れた。しかし……こんなん奴の近くの領土の大名は要らぬ迷惑を被りそうじゃわい…とも思った。
目賀田はこれから多羅尾を抜け、己の目賀田城まで戻るという。そんなに急ぐ事もあるまいと、菅沼定政に命じ、ささやかながら惜別の酒宴を持ちかけ、近くの妙福寺でいとなわれる事となった。
―この一日が転機点になるとは誰も知らず……