頑愚殿の決断ー①
使者が立って数刻もしない内に、賀藤殿や櫛田殿、鳴海殿に祖父江殿が膝を突き合わせてヒソヒソ話をしだした。
やれやれ、凡その内容はつくが…あまり景気の好い話ではなかろう。
「蒲生殿……」
後ろから声をかけてきたのは、顎鬚の山岡景佐殿。
「どうなされた、山岡殿……先ほど瀬田に帰られたのではなかったのではないか?」
「それが…早くも城下が騒乱と化しており、我が少ない手勢では帰る事もままならないのです」
そうして突如、ガバッと平伏した。
「蒲生殿の常駐している兵・100をお借りできませぬか?」
確かに平時の際の警備兵として、日野から子飼いの100の兵を連れて来ては居る……居るが、この子飼いの兵を貸与してはいざという時、ワシを警護する者共が居なくなってしまう。
「そう怪訝な顔をされますまい」
ワシの顔色を読み取ったのか、景佐殿が苦笑しつつ顔を近づける。
「それがし、早急に兄上の城である勢田に戻り、兄と甥を説得して明智勢の足止めを行いたいと思います。そのためにも確実にせんが為、蒲生の兵をお借りしたいのです」
勢田の大橋を管轄する瀬田城の山岡殿が明智勢に反発すれば、確実に1日は進軍は遅らせる事が出来る。その間に日野から1000の兵を連れてくることも出来れば、今よりまともな陣容を張れる……それでも一抹の不安が残る。
「それは妙案…だがしかし……兄の山岡景隆殿が果たして動いてくれるのか?」
と告げた後、もっと最悪な事態が脳裏に浮かんだ。即ち、山岡兄弟が明智勢を迎え入れ、先鋒として安土まで攻め寄せられると夕方には到着し、ワシには兵も無くあっという間に捕まってしまうという、マヌケな事態が。
近江衆は表裏比興…父・蒲生定秀が常々申していた事であるし、何より父上、貴方が一番比興のものでした。貴方の息子は貴方の背中を見て育ち、貴方の様な者にだけはなりたくないと思っておりました。しかし…しかし…………!
これは、この事態は余りに自分には過ぎる!
ギョッとしたのは山岡景佐殿。今話していた相手が、急に滂沱の涙を流したからだ。
「ワシは…“頑愚”ゆえ、腹の探りあい等というのは不得意にござる……だが、今ワシは山岡殿の上様に対し持っていた忠義の心を信じる」
驚愕の顔をしている山岡殿の瞳をじっくり探った。大丈夫、泳いでいない。彼の者は信用するに値する。
「…………」
「ワシの兵…お貸し、し申す!」
部屋に居た他の武将達が固唾を呑んで見守っていたが、ワシの言質に一同から深い溜め息が出た。
「……ありがたい。では時は一刻を争うゆえ、それがしこれにて失礼仕る!」
言うが早いか、景佐殿が場内を駆けて退出していく。
「馬鹿か! いくらなんでも頑愚に過ぎるぞ蒲生!」
いつに無く険しい顔をした木村殿が叫んだ。
「コレコレ、木村殿。口が過ぎようぞ」
逆に温和な貌を滲ませた賀藤殿が扇子を指して木村殿をいなすと、こちらに顔を向けた。
「上様が存命ならば我等、安土を死守する所存であったが、いざこういう事態になると、我等は敵地に残された様なものでござる」
「そこで!」
隣に居た鳴海殿が気ぜわしく口を挟んだ。
「我等、尾張衆は本来の所領に戻って警備を固めたいと思っておる。蒲生殿のお考えは如何か?」
「頑愚、いいのか!? これでは安土が丸裸になるぞ!」
木村殿が堪りかねて叫ぶ。そんな木村殿に好感を持った……が、口には出さず心中で語りかける「やる気の無い兵が守った処とて、寧ろ敵を城を招き込む様なものですぞ」と。
「…分かり申した。三介殿へ救援申請しに行った千福殿と同じく、伊勢へ抜ける道をお使いになられた方が宜しい。美濃は“大乱”にございます故にな」
「忝い。ではそうさせて頂こう」
そう言って賀藤・櫛田・鳴海・祖父江の4名が退出していく。おそらく若い佐久間与六郎殿も付いて行く事だろう。
これで美濃衆に続き、尾張衆も居なくなった。残るは木村殿、山崎殿、箕浦殿とワシの近江衆と、雲林院殿・大島殿・福田殿の武辺者、前波殿・松本殿の御伽衆だけである。
ワシの兵は居なくなってしまったので、残る大勢は山崎の300近い兵に木村・箕浦・大島の兵を併せて100の計400騎程度になってしまった。木村殿の知行が500石、箕浦殿が400石なので、如何に近江衆と言えども兵を出せる数は高が知れているのである。
今ここに、安土城防衛線は決壊した。
「頑愚殿、そなたには飽きれ申した……」
青白い血管をこめかみに浮かばせた木村殿がゆっくり立ち上がる。もうワシを憚る事無く“頑愚”と呼び出したのもその証か。
「ワシの力量不足じゃ。返す言葉もない」
しかしワシの声に返す事も無く幽鬼の様になった木村殿が部屋を退出していく。
「お主、どうなされるのじゃ?」
「…頑愚では話にならぬ。拙者が南近江衆を糾合して纏め、新藤殿と後藤殿に旗頭となってもらって、安土を守る!」
そうか。それも手かもしれない。今ワシが何を言っても反発を招くだけだから、黙って木村殿の背中に向けて声援を送る。木村殿、お主も忠義の人であったな……と。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
「いやぁ~頑愚殿はチョロイね~♪」
馬を駆けながら鼻歌を歌う者が居た。顎いっぱいに伸びた鬚、100騎の蒲生家兵に守られた者、山岡景佐であった。
「上様への忠義? そんなんあったけかな~。全く、頑愚殿は甘すぎるよ…この乱世、生き残れないんじゃないかな?」
そういって、山岡景佐はカカと大笑しつつ勢田城へと南下して行った。