頑愚殿のゆううつ⑧
分かっていた。だが、認めたくなかった。上様がもうこの世に居ない事を。
しかしこの時期にこの場所に、上様からでは無く明智日向から遣いが来たと言う事は、上様の最期を認めなければいけないし、腹を括らねばならない。
「明智様より伝言にございます」
黒の当世鎧を身に付け、萌黄に白抜きの桔梗を象った伝令の証である四半旗を、ガッタリに指した兵が受け答えする。
「承ろう」
この場にいるのは、ワシと賀藤兵庫頭殿、櫛田忠兵衛殿、木村次郎左衛門殿、鳴海助右衛門殿、祖父江五郎右衛門殿、そして山岡景佐殿の7名であった。
他の武将は動揺を防ぐためにも、別室で待機してもらう様指示しておいたが…きっとどこかで聞き耳を立てていることであろう。
「昨日、我が主は本能寺にて天帝への逆臣・織田右府を弑殺奉った。よってこの近江は明智殿の支配下に置かれる!」
「…面妖な……上様がナニを根拠に、朝廷へ楯突いたと申されるか!?」
櫛田殿が怒鳴った。櫛田殿の言う事は正しい、上様はなんら叛意を示した事は無い。しかしそこは使者もシレッとしたもので、
「拙者、そこまでは聞き及び申さぬ」と、素っ気無く矛先を逸らした。
「上様が討たれたと申すは確かなのか? 中将(信忠)殿や松平三河殿は如何あそばした?」
代わって櫛田殿が一抹の希望を頼りに、臓腑を絞るような声で尋ねる。それに対しても使者は素っ気無く、
「本陣である本能寺は火を放たれ、爆発四散。二条城でも織田信忠は天晴れな討ち死にを遂げられてござる」と言い放った。
「…亡くなった者の名簿はあるのか?」
女房衆から後々、嵐の様に質問攻めに遭うだろう懸念を予想して、滅入った気を寄せ集めつつ訊く。
「さすが蒲生左兵衛殿。これ、この様に持参してござる。存分に確認なされよ」
ニヤリと笑った使者が、所々に血の滲んだ和綴じの名簿を投げて寄越した。ややムッとするも、その仕事の手際の良さに、流石明智殿よと感心してしまう。
「忝い……」
ジッと名簿に集中するワシの姿勢に焦れた使者が声を荒げた。
「それよりも蒲生殿。明智様が陣営へ帰順なさるか、それともこの城を枕に討ち死になさるのか……南近江衆や東近江衆の総意を聞きたい!」
「…ワシは大将の器に非ず。元々近江は自在闊達なるが気風ゆえ、それぞれがそれぞれの判断にて問題ないと思う」
使者は思ってもみなかった答えなのか、片膝を立てて咄嗟の様子で叫んだ。
「それでは責任放棄ではないか!」
今までに無い位“冷たい”視線を意識して、細い目を思うきり瞠目する。
「……責任はあった。だが、その責任の元締めを潰したのは己らぞ」
ハッタリが効いたのか、憮然とした表情で使者が居住まいを正す。
「むぅぅ…では、蒲生は明智に干戈を交えると申すか!?」
「我等蒲生は、『一番必要としている者』に付く。余の者は他に一々聞いて回れ」
「…ふん。さすが“頑愚”よ。後で後悔して泣きついても知らぬぞ!」
やや怯んでいた使者が、持ち直してこちらを見下すように冷笑し、言い放ってから席を立った。
「ご随意に」
……この間、同席の者。
一切咳もせずただ、雨上がり後の石にへばり付いたミミズが如く、微動だにしなかった。