頑愚殿のゆううつ⑦
……四更(午後一時頃)になってしまった。二の丸下の総見寺が正午の鐘を鳴らして大分経った気がする。
女房衆方々への昼食を遅らせた事、さぞや皆々様ご立腹の事だろう……そう思いながら恐る恐る職僧等に膳を運ばせる。
そうそう、余談ではあるが女房衆への料理。配膳などは総て総見寺の雑職僧が行う手筈になっている。非力な女中や、色目を使いかねない男ではなく、僧の方が未だ安心するそうな。
「くかわらけー!」
襖を開けて早速、土田御前の一喝が飛んだ……が、いつもは姦しい他のご夫人方々のキンキン声が続かない。異常なほど、皆押し黙っている。
「本日の献立は、冬瓜のあんかけに烏賊のタマリ漬け焼きです」
「……」
カチャカチャ、コトンコトン。
沈黙の中で食器の響きと咀嚼の音だけが部屋に、やけにひりつく。
嗚呼、そうだ。彼女達とて、もう知っているのだ。だけど万が一、万万が一、誤報であったなら、騒ぎ立てた己の醜態は後世にまで伝えられてしまう。
だから……正確な、確実な知らせが伝わるまでは、狼狽もせず騒ぎ立てず……それこそが織田信長の夫人である事の矜持と信じて、また他の夫人へ弱みを握らせないように……本当は自分の兄弟や息子の無事を問い質したいであろうに……
これもこの時代の女性の戦であり、ここは戦場なのだと思い至り、感動と己が不覚悟に戦慄して背筋を冷や汗が滴り落ちた。
これぞ上様が目指した家族の一つのあり方なのであろう。
「…時に左兵衛大夫、上様から息災の便りは未だ届かぬのか?」
来た。
“探り”が。発信したのは意外や意外、お養の方であった。逆に、現実主義で実利的なお養の方だからこそ、発せたのかもしれない。
「は。今の所、特に伝令も無く…便りが無いのは良い便りと申しまして……」
「嘘じゃ!」
突如金切り声を上げたのは、あここの方。
「わらわは兄者からの早馬の知らせを受けておる! 上様が本能寺にて……!」
そうであった。あここの方の父親は京の公家で内府・三条西実枝だが、もうこの世の人に非ず、兄の公世が家督を継いでいる。その現場を実際に見た実家からの使いであるから、あここの方も確信に至ったのであろう。……上様の死を。
「シャッ輩、あここの方! 口が過ぎまするぞ! 言葉は災いを齎しまするぞ!」
上座よりあここの方の声をピシャリと封じたのは、なんと安土殿こと、帰蝶様。こちらがしどろもどろになって言い訳を考えるより早く、その場を一気に沈静化してしまった。
「…我等が為すべき事は、軽挙妄動に心乱される事ではなく、主の無事帰還を祈り、そして留守を守る事でしょう」
帰蝶様の言葉は静かに、しかし重くそれぞれに響き渡り、あここの方もシュンとして俯いてしまった。
昼食は皆、箸が進まず、三々五々己が部屋へと戻ろうとしたその時、無粋な甲冑武者が食堂へ割り込んできた。
「ここは女房衆の不可侵領域ぞ、控えおろう!」
さすがお鍋の方。先ほどの帰蝶様の一喝で損なった己が威信を取り戻すためにも、大きく見栄を張る。
「それ処ではありませぬ、蒲生左兵衛様に特使でございます! 急ぎ天主へまかり越すように賀藤様・丸毛様が申しております故!」
「それは……一体何処からの特使にござるか?」
甲冑武者がゴクリと咽喉を鳴らすのがその場の全員に聞こえた。
「……は。明智日向守からでございます」
ざわっ。
空気が震えた…いや、揺らいだ。
平衡感覚が怪しくなる。女性達の阿鼻叫喚が馬耳東風で抜けていくのを他人事の様に感じながら、黙って襖を閉じつつ退室した。