頑愚殿のゆううつ⑤
三更(午前11時過ぎ)、涙で腫らした目を井戸水で冷ましつつ、とにもかくにも筆頭留守居役の津田信益殿に会う身支度を整える。
しかし、天主の三階部分のどこを見回してもいない。三階以上、上の階には上様の許可が無いとは入れないので、津田殿が居るとは考えられない。
とはいえ二階の上の蔵座敷を始め、主だった所に姿が見えないのだ。
その間にも噂を聞きつけた人々が老若男女問わず右往左往しだし、城の中が騒然となりはじめているのに、このままでは収集がつかない。
何よりも、他の留守居役の姿を全然見かけないというのは一体どうした事か。
「ホッホッホ、蒲生殿、探し人かぇ?」
バタついている中に静物が一つ……それはコッチに向かって手を振っている弓名人・大島光義殿だった。
「大島殿、津田殿はどこに居なさるのじゃ。今から軍議を始めねば…城が持ちませぬぞ」
「蒲生殿……クビキじゃ」
「……は?」
遂に惚けてしまったのかと、一瞬思ってしまった。だが、ボケていたのはどうやらワシの方であったとすぐに気付く事となる。
「上様という“クビキ”が無くなって、皆浮き足立っておる。もはや忠義もへったくれも無いワイ。皆、己が保身に汲々じゃ」
「そ、そういう時だからこそ、引き締めを謀り、要綱を纏めて建て直しに――」
ワシの言葉を心底可哀想に頭を振って否定する弓の名人。
「居ないのだ」
「へ?」
「津田信益様以下、野々村又右衛門、市橋源八、遠山新九郎、それに二の丸からも丸毛兵庫頭などの主だった美濃衆を引きつれ美濃は岐阜城迄、既に逃げ出したワイ」
「はひぇ?」
「本丸留守居役で残っておるのは賀藤兵庫頭殿と、櫛田忠兵衛とワシだけじゃ」
……頭が真っ白になった。確かに美濃で大乱が起こりつつあるとの報は聞いた。だが、責任ある留守居役を放り出して、上様の奥方達や母上や子供等までも放り出して、恥も外聞も無いのか。
泣き虫で激高家の野々村なら未だ分かる。有岡城で討たれた万見重元の代理で留守居役になった遠山新九郎もうろたえただろう事は容易に想像出来る。しかし……美濃衆が総まくりで居なくなるとは……では駐屯していた美濃衆2千の兵も居なくなったという事か!
「ご老体…ご老体は何故一緒に行かれませなんだか?」
よく考えれば、この大島光義という老人も美濃衆である。小身の身ではあるが古強者である。
「…蒲生、お主ワシを愚弄する気か?」
今まで飄々としていた老人の目が、ギラリと光った。
「これは失礼……大島殿こそ天晴れ忠義の侍でござった」
「いや、違う……ジジィだから棄てられたんじゃよ、フフフ」
…又やられた。どこまでが本気でどこからが冗談なのか、表裏の読めぬお方である。
「はて、そういえば本丸留守居役にはもう一人居られた気が……」
「世木弥左衛門か? アイツは丹波衆じゃからな……明智勢に加わるため、京へ向かっとる」
昨日まで仲良く一緒に居たものが、こうまで露骨に敵味方に分かれるのかと思い、暗澹たる気持ちになる。