今日の話は。
「雲になりたい……」
「え?」
三月二日午前八時。お姉ちゃんの一日と私の一日は、他愛もない、くだらない、ほんの少しの、話から始まる。
「ねぇねぇ聞いてよ、お願いマイシスター」
「マイメロディかな?」
「今ね、お姉ちゃんは受験の発表待ちなの」
「あー、そろそろ結果出るんだっけ?」
「明日の朝には届くと思うんだけどね、もう気が気でないの」
「あー、確かに高校受験の時も慌ててたもんね」
何を隠そう我がお姉ちゃん、第一志望だった高校の結果発表を見に行った時、自分の番号が掲示されていたことに動揺しすぎてその場で受験番号が書かれた紙を無意識に破いてバンザーイしたのである。……いや、私も思い返して全く意味が分かんないけど。
「だからね……雲に、なりたいなぁって……」
「わー、唐突だなーお姉ちゃんはー」
「雲はいいよねー……雲……だってあれだよー? こう……プカプカとさ、浮かんでるからさ」
「理由が雑過ぎない?」
「いいよー、雲……もうね、あれだね」
「何?」
「なんにもやりたくないね」
「クズじゃん」
「この~、特に何もしなくていいこの時間。自由登校というこの期間。出席するとかマジ異端」
「なんで韻踏んだの」
「もうさぁ~ずっと続いてほしいよねぇ~。そうしたら大学入ることもなく~、後期受験の勉強頑張ることもなく~」
「それはやってよ」
「結果発表のプレッシャーを、感じることも、なくぅ……」
そう言ってお姉ちゃんはだらんとうなだれる。まあ、昔からプレッシャーにすごく弱いし、なんとか励ましてあげたいんだけどなぁ。
「……お、お姉ちゃん、あのね? もし大学が第一志望のところじゃなくても、お姉ちゃんのやりたいことが見つかれば、それでいいんじゃないかな? その、私大学のことよく知らないから、具体的なアドバイスはできないんだけ」
「とりあえず二度寝してこよ……」
「ど……ねぇ、励まし返して」
そうして勝手に話を終えると、お姉ちゃんは自室のある二階にのそのそと戻っていった。……いや、朝ごはんは?
――あの子は、寂しがり屋だから。
三月二十日、午前八時。今日の話は。
「ご飯のお供ってさぁ、やっぱり塩だと思うんだよね」
「……そう?」
私が朝ご飯を食べ終えると、同じくご飯を食べ終えたらしいお姉ちゃんは、唐突に話し始めた。
「ご飯のお供ってさ、いろいろあるじゃん。梅干しとか漬物とか干物とか」
「チョイス渋くない? 春から華の女子大生だよお姉ちゃん」
あの後、無事第一志望に合格したお姉ちゃんは、パソコンで結果発表を見た瞬間にキャーキャーと奇声をあげながら、部屋中をぴょんぴょんと跳び回ってお母さんに怒られていた。うん、まぁ、いつものことだった。コーヒーこぼして服べったべたになってたし。
「他にもね、ゆかりとかのりたまとか、そういうふりかけも確かにいいんだよ」
「あー、ふりかけいいよねぇ」
ふりかけご飯かぁ、もうしばらく食べてないなぁ。
「卵かけもね、いいんだよ。わかるよ。TKG、TKGだよ? TKG」
「川柳」
「でもね、やっぱり塩なんだよ。一番いいのは塩なんだよ。あれがね? 一番ご飯のうまみを引き立てるというか、そう、そういう役割をね? 果たしてると思うんだよ。ほら、お母さんの作ったおにぎり、普通のやつの方がおいしかったじゃん?」
「あー……」
そういえば、昔からお母さんはおにぎりを作る時、決まって塩むすびだった。一度お弁当の彩りに凝って混ぜ込みタイプの……あれはふりかけでいいのかな? とにかく、そういうものを使った時もあったけど、やっぱり昔からの塩むすびが一番記憶に残っている。久しぶりに食べたくなっちゃったな。
「……まぁ、とは言ってもね?」
「とは言っても?」
「結局焼肉が一番だと思うの」
「ねぇ元も子もないんだけど」
「さぁて、じゃあお姉ちゃん友達と遊びに行ってくるね! お昼は食べてくるけど、晩ご飯には帰るから!」
「あーはいはい、いってらっしゃーい」
受験のストレスから解放されたお姉ちゃんは、最近よく友達と遊びに行ってる。大学が別々だし、この一年あまり遊べなかったみたいだから、まぁ、楽しんでくれてればいいなぁ。
「あっそうそう!」
「?」
「今日の晩御飯ね、焼肉らしいの」
と、お姉ちゃんはニヤッと笑いながら言い、出かけていった。顔が悪だくみしてる悪党の子分みたいな感じだったけど……うん、まぁ、焼肉。楽しみ。お姉ちゃんも相当楽しみらしく、玄関先からは「おーにっくにっくにっくー♪」と謎の歌が聞こえる。
夜も少し、話をした。私も少し、焼肉を食べれた。おいしかった。やっぱり米にはお肉。うん、全く否定できなかった。ちなみにお姉ちゃんはお肉ばかり食べていた。野菜も食べなよ、と叱ったけど、聞こえてたかなぁ。
――朝にはおはようを、夜にはおやすみを、言ってあげなきゃ。
四月四日、午前八時。今日の話は。
「いざっ! 東京!」
「盛り上がり過ぎでしょお姉ちゃん……」
お姉ちゃんの通う大学は四月六日に入学式があるらしい。当然、その前に向こうに移り住まなきゃいけない。これから住むアパートは大学から徒歩数分で行けるほど近いらしい。絶対に自堕落な生活するんだろうなぁ、このお姉ちゃんは。
「いや~楽しみだよね~、都会だよ都会。大都会東京だよ~」
「いや、楽しみなのはわかったけど……というか東京じゃなくて山梨でしょ?」
「ん~? 今東京じゃなくて山梨でしょ? ってツッコミが聞こえた気がするなぁ?」
「うわぁ、的確な当てずっぽうだ」
「東京じゃなくてもいいの! 関東ならだいたい東京なの! つまり大都会!」
「うん、失礼だけど栃木とかって都会のイメージないけど?」
「……あーでも群馬は都会のイメージないな……」
「うーん、ちょっと意思疎通が惜しいというかどっちも失礼だねこれあとで謝っておこうね?」
そう言うとお姉ちゃんは右を向いて、手を2回叩いて
「群馬県のみなさんすみませんでした!」
と軽く頭を下げた。とりあえず、右は東じゃないよってまた教えてあげよう。
「ま、まぁ! 多分山梨は都会だと思うし?」
「多分そういう問題じゃないと思うんだけど……」
そこで、お姉ちゃんはしばらく「私」の方を、何もしゃべらず、見つめた。多分、時間にしたら、十秒くらいだと思うけど、私には、その間に、お姉ちゃんが何か決意をしたように見えた。
「……じゃあ、お姉ちゃんもう行かなきゃいけないから」
――ううん、言ってあげなきゃ、じゃなくて。
「……うん」
「しばらく、朝にこうやって話したり、おやすみって、言ってあげたりできないけど」
――私が、言いたいんだ。
「……うん」
「多分、ゴールデンウイークとか、夏休みには、帰ってこれると思うから」
――朝には少し、お話を。夜には一言、おやすみを。
「だから、また、いっぱい、お話、しようね?」
「……うん」
――あの子と、話がしたいんだ。
「……よしっ! じゃあ、行ってきます!」
「……うん、いってらっしゃい。お姉ちゃん!」
――本当に寂しがり屋なのは、私だから。
家を出るとき、最後に「あの子」の方を見た。笑顔と、少し涙を浮かべた、あの子の、あの時のままの、懐かしい姿が、見えた気がした。……そんな気がしたんだ。