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この物語は兄に盲目的なとある可憐な公爵令嬢のお話。
……ではなく、ブラコンのご令嬢にアタックを続ける不憫な王子様のお話である。
「お兄様がお帰りになさってることは早く言ってちょうだい!」
腰まで伸びたブロンドの髪を揺らし、零れ落ちそうなほど大きな淡い蒼色の瞳を不満そうに細め、ピンクに色付いた唇で言葉を紡ぐ少女は、まさに可憐の一言であった。
可憐なだけではない。消えてしまいそうな儚さの中にしっとりとした艶が息を潜め、ふとした仕草の時に少女を女に見せる。
つまり一言で言えば絶世の美女なのだ。
そんな少女は見た目は優雅に淑やかに…けれど早歩きとは言い難いスピードで屋敷を駆けていた。
幼い頃から徹底的に淑女の教育を受けてきた彼女にとって、はしたないと思われないように屋敷を駆けるなど、息をするかのように容易いことだ。
しかも少女は心から…いや盲目的に尊敬し敬愛し慕っている実の兄の元に向かっているのだから、寧ろ走りだしていないだけマシであろう。
側に付くメイドの存在なんて遥か彼方に押しやっている少女の脳内には、久しぶりに(昨日ぶり)に会うお兄様にどうやって抱き着くかという薔薇色の思考で染まっている。
(もうお兄様ったら!昨日、おはようとお休みの挨拶をして下さらないなんて!)
全く恥ずかし気なく思う少女は、兄に(一日ぶりに)会える高揚感で頬を染めつつも、自分に会わずに何をなされていたの!?と拳を握り憤慨する気持ちも抱えていた。
これが少女の通常運転である。
そして兄の部屋まで着いた少女は、ふうっと息を整え部屋の扉をノックした。
「お兄様、シェリーでございます。お時間よろしくて?」
道中の全力徒歩疾走による息の乱れを少しも見せず、少女〈シェリシア〉は鈴の鳴るように透き通った声で入室の許可を求めた。
すると直ぐにドアが開く。内側からドアを開けたのは兄専属の執事である男で、「ありがとう」と執事を労った少女は、じれるように部屋に視線を巡らし___ソファーに座る兄を見て、華が咲き乱れるような笑みを浮かべたのだった。
「お兄様!本日もお美しいですわ」
朝っぱらから兄の部屋を突撃し、開口一番にこのセリフである。
だがこれも日常茶飯事の出来事だ。日課とも言える。
少女の兄はソファーに腰掛け、その膝には何やら難しそうな題名の本を伏せていた。そんな兄の容姿は妹に負けじとこれまた大層整った美貌であった。シェリシアと同じブロンドの髪に、甘さで蕩けてしまいそうな顔立ちをしている。微笑めば花の蜜、愁いを帯びれば月の雫のようだとシェリシアは思う。きっと誰もが触れるのを躊躇うように高貴で、それでも心が貴方を求めてやまない。その筆頭が私ね!とふんわり笑った少女を映す兄の瞳の色は、湖の水面を写しとったシェリシアの瞳とは違い湖の深淵のような深い蒼色をしているが、濃さが違うだけでカラーはシェリシアと同じなので、シェリシアが両手を叩いて喜ぶ彼女の大好きなお兄様ポイント!の上位に食い込んでいる。
シェリシアは今日も今日とて美しい兄を前にして、既に口を滑らせてしまったが気にしないことにして、綺麗な礼を取って兄に向かって微笑んだ。
「おはようございますお兄様。昨日ぶりですわね」
シェリシアは少しだけむっとした色を声に混ぜる。昨日は兄が一日中王宮に篭っていたせいで、シェリシアは兄の顔を見ることが叶わなかった。
そう常日頃から一秒たりともお兄様の側を離れるなんて言語道断よ!と意気込んでいる少女である。
兄も可愛い妹に付き纏われて悪い気はせず…寧ろ溺愛っぶりを発揮しているのでシェリシアの暴走は止まることなく、シェリシアが振り巻いた華が屋敷中に漂う一方だった。
「おはよう。昨日は本当にすまなかったね。…俺の可愛いシェリーに寂しい思いをさせてしまった。お詫びにと言ったら何だけど、姫の隣で機嫌を直す機会を俺にくれないかな?」
シェリシアの不満そうな様子をしっかりと感じ取り笑ってそう言った兄に、シェリシアのハートはずきゅん!と射抜かれ「お兄様ああああ!」と叫びながらその胸に飛び込みたい衝動にシェリシアは襲われる。が、はしたないわと邪な思考は振り切り、兄の誘いの通りに兄の隣に腰掛けた。
ぴったりと身兄に寄せながらだが。
「……いいえ、お兄様はお仕事なんですもの。ちゃんと分かっていますわ。でも私との時間も忘れないで下さいね」
兄の隣に座れたことと甘いリップサービスでほんのちょっと拗ねていたシェリシアの機嫌は鰻上りだ。
しかしシェリシアはいくらブラコンでもやはり公爵令嬢である。どうやってお兄様に抱き付こうかしら、と頬を薔薇色に染めながら伺っていたシェリシアの目に止まったのは兄が膝に伏せていた本のタイトルだった。
(……あら、お兄様ったら本当勤勉な方だわ)
シェリシアの父は貴族の中枢に立ち、国の宰相を担っている。国王陛下の信頼も厚く、陛下のご子息の殿下とシェリシアの兄も互いに厚い信頼関係と友情関係を築いていた。公爵家として華々しい栄光を父と兄の二人は浴び、他の家の追随を許さない。
嗚呼流石お兄様、とシェリシアは更に胸を焦がす羽目になる。国中…いや国境を超えて令嬢の憧れの的となっている兄と殿下だが、シェリシアの興味は兄にしか向かず、立場上参加する夜会も兄以外に向ける笑みは揃って上辺にすぎない。
シェリシアの兄〈アンリ〉は殿下が国王の位に着いた暁には、父から宰相の仕事を請け負うと既に決まっており、21になる今から父の宰相としての仕事を学んだり、領地の仕事を手伝ったり、常に学びを怠ることはない。
なのでアンリはとても賢い。世の中を知りすぎた冷たい眼差しを、美しい瞳の裏に隠し持つくらいには。
そんなアンリがシェリシアを溺愛するのは、ただ可愛いということだけではなく…
「お兄様、その本を読み終わったら貸していただける?」
シェリシアの弾んだ声に、アンリの瞳の奥の凍てついた塊がとろりと蕩ける。アンリの気を引きたいと言う理由だけではなく、本当にこの本に興味を持つような賢さも備えているシェリシアだからこそ、アンリは溺愛してしまっているのだ。美しさばかりを求める令嬢じゃない。家柄に甘んじる令嬢でもない。傲慢に与えられたものを振りかざす令嬢とは程遠い。シェリシアのような令嬢は、きっと誰一人として他にいないと確信できるほど、シェリシアは高潔で美しい。
幼い頃からアンリにべったりで、アンリが読んだ本全てをシェリシアは読んできたので、賢くなるのは当たり前なのだが、ここは割愛しておこう。またアンリの地雷を全て把握しアンリの嫌いな女にならないよう努力を欠かさず行っていることも、だ。その証拠に満足気に笑うアンリの隠された本心を垣間見て、今度こそ抱き着く衝動を抑えれずに抱き着いたシェリシアの緩み切った顔も、見ないふりをしておこう。
そんな日課をこなしてシェリシアのアンリ一色に染まった一日は始まるのである。