勇斗くん②
とりあえず鍵がない我が家には入れないので、勇斗くんの家にお邪魔することにした。私は断ったし、勇斗くんには学校行きなよと言ったのだけれども、怖い顔で睨まれて「いいから」と再びキレ気味に言われたとあっては、従うしかあるまい。だめだ、どうしてもあのかわいい勇斗くんの顔を歪ませているのが私だという事実が許せない。さっきのお姉さんには、すごく感じが良かったのに。やっぱり勇斗くんはさっきの人に恋をしているのだろう。
松島家の部屋は、思ったよりも片付いていた。それは勇斗くんがしているのか、さっきのお姉さんが片づけているのかわからないけれど、生活感はあれどそれぞれの物が使いやすい場所に収納されていた。
魔導研究所や旅で使った馬車の、雑多に荷物を置いていることに慣れてしまった私にとっては、なんだか新鮮な感じだ。
「風呂でも入れば。服は何か用意するから」
「えっ?」
「だって…汚れてるし」
勇斗くんは優しい。こんな変な服着た奴が、「あっちの世界」だのわけのわからない事を言っても、世話を焼こうとしてくれるのだから。…それがいくら隣に住んでいる人で顔見知りだからって…うん、危ないな。後で注意しよう。
お言葉に甘えてありがたくお湯をいただくと、洗面所にはシャツとカーディガン、スカートが置かれていた。多分、お母さんの物だろう。
あ、でも。
「勇斗くーん」
上は何とかなるとして、スカートを穿いてからてくてく居間へと行くと、勇斗くんは制服のブレザーを脱いですっかりくつろいでいた。
「パンツも借りられないかな?」
「は?」
「ありがとうね、これ。上はカーディガンがあるからいいんだけど…下もできたら着替えたいなって…」
さすがにこれは図々しすぎるだろうか。いや、でもお母さんのお古でいいんです。新しくて返しますから。そうして勇斗くんの言葉を待つが、彼は口をぱくぱくして私の穿いたスカートを眺めている。
「勇斗くん?」
名前を呼ぶと、バッと立ち上がって、お母さんの着替えが詰まってるであろう部屋でごそごそ音を立て、出て来るや否や私に向ってパンツを投げつけてきた。
「わっ!」
「バカじゃねーの!」
「ご、ごめん!」
さすがに図々しすぎたみたいだ!
慌ててパンツを穿こうと足を持ち上げるが、勇斗くんに「向こうで穿けよ!」と怒られてしまう。
ああ、また思春期の男の子の心を傷つけてしまったみたいだ…。姉の着替えなんて見たくないですよね。ごめんなさい。
すごすごと洗面所に戻る途中で、勇斗くんが何か呟いていたが、よく聞こえなかった。
「……ノーパン…。」
着がえもしてさっぱりしてから勇斗くんと向かい合うが、どう説明したらいいものかわからない。ローテーブルには先ほど買ってもらったペットボトルが二つ置かれていて、どちらももう中身は僅かであった。
ええい、ままよ。
私は異世界に行って帰って来たら3年経っていた話をそのまま話した。勇斗くんは黙って聞いていた。
「すみれさんは、帰って来たかったの?」
勇斗くんが最初に聞いたのは、そんなことだった。
「え?」
「そっちでも、うまくやってたんでしょ。」
「何を?」
「その、一緒にいた魔法使いとか、と」
「え、勇斗くん」
「向こうの世界に未練はないの?」
勇斗くんを見ると、何だか悲しそうな顔をしている。どうしてだ。何故私の話で、天使のようなその顔をもの憂げにしているのだ。帰って来ない方が良かったのだろうか。いや、それよりも……。
「勇斗くん、こんな話信じてくれるの?」
「え?うん」
「どうして!?」
「だって、俺すみれさんが消えるところ見てたから」
「消えるとこ…?」
「3年前。学校行くときに、姿がドロッて消えるの、見てたから。」
「えぇ……?……そういえば、あのとき…、勇斗くんに挨拶してた気がする」
「そうだよ。忘れてたの?」
むっとしたような表情をする勇斗くん。ああ、尖らせた唇が愛らしい。天使はこんな表情も似合うのね。
「いつ戻って来るんだろうって、毎朝同じ時間にいつもあそこを見てた」
「勇斗くん…」
そりゃね、そんな不思議現象見ちゃったら解明したくなりますよね。
「おじさんおばさんに言っても信じてくれないし。警察も」
「警察!?」
「そうだよ。すみれさんは行方不明ってことになってるんだけど?」
「えええええ大事じゃん!」
勇斗くんは、困ったように溜息をついて、だからさ、と言う。
「今日も同じ時間に出てみたら、消えたときと同じようにすみれさんが現れるんだもん」
「うわあ…それは驚かせましたね…ごめん」
現れたところから見ていたのか。普通、もっと驚いても良さそうなものだけれど…。あのお姉さんも恰好には引き気味だったけど、現れ方は見間違いってことにでもしたのかな。
「それで」
勇斗くんは、私の目を真正面から捉えて、
「すみれさんは、帰って来たかったの?」
先ほどと同じ質問を繰り返す。どういう意図があるかはわからないけれど、私の答えは一つだ。
「そりゃそうだよ。あっちの世界にはスナック菓子もないしアイスもないんだよ!移動は馬車だし最初の頃は魔物がいっぱいいたし…。」
おどけたように聞こえればと言い始めて、魔物、なんて非現実的な言葉を口にした瞬間、胸の奥から何かがこみ上げてきた。魔物の獰猛な目に射すくめられたとき、身体が動かなくなった恐怖。血をまき散らしながら飛ぶ魔物の腕。魔法で吹き飛ぶ内臓。闇夜の魔物の大群の足音。抑えていた恐怖があふれ出してしまった。
急に泣き出した私を、勇斗くんはどう思うだろうか。ああ、恥ずかしい。私の方が7歳もお姉さんなのに。こんな情けない姿を見られていると思うと、抑えていた嗚咽も止まらなくなってしまった。
いつの間にか勇斗くんが私の隣に来ていた。控えめに、そっと肩に手を置く。
「おかえり、スミねえちゃん」
耳元で囁かれたのは、昔の呼び方。
恥ずかしながら、号泣はもう止められなかった。
ただいま、という言葉は、勇斗くんに届いただろうか。