第217話 七月二十三日 Ⅴ
あの場で戦い続けていれば、無関係の人間が巻き込まれていた恐れがある。実際、俺が気絶させた男たちが三人、少し離れた場所にだが倒れていた訳だし。
品沼もそれを理解していて、すぐに撤退という判断をしたんだろう。
「さて……悪魔っていうのが、どれほどの能力を発揮してくるのかは、僕には分かってない。白城くんを信じるよ?」
品沼は、俺の勝ち目があるかも分からない不明確な提案に、ただ乗ってくれるようだ。
ありがたい……これで、心おきなく――
「……品沼。ちょっと聞いていいか?」
「ん? なんだい?」
武装を確認しながら周囲の状況に気を配っていた品沼が、首を傾げた。
俺は額に手を当てて、前回の、瑠海のことを思い出す。
「嫉妬……レヴィアタンは、嫉妬の感情を糧にしているんだ。その対象に、上繁がなってしまった。じゃあ……あいつの嫉妬の感情ってのは、どこに向いている?」
また、俺は過ちを繰り返すところだったんじゃないか。
友達の心に向き合うことから逃げない。
俺はそう誓ったはずだ。俺が守りたいものを、戦うために犠牲にしてどうすると。
「お前に聞くのはお門違い、って分かってるんだけど、俺だけじゃない視点も――」
「ちょっと待って。白城くん、それは本気で言ってる?」
俺の言葉を遮って、品沼が真剣な目を向けてきた。
いや、どこか呆れを含んだ目つきをしている。憐れみ、にも近いような。
「そりゃ本気だが……」
「僕は、姫波さんの件を部分的にしか聞いていないけれど、君への感情が発端だって知っている。その情報だけでも、僕には充分に分かる……上繁くんは、君に嫉妬しているんだ」
「それはさすがに分かってるよ。あいつに直接言われたんだ、妬ましい、って。でも、その先が分からない……あいつは、俺の何が妬ましいんだ?」
そこまで馬鹿じゃない、と品沼に言い返したのだが……むしろ、憐れみの色が強くなった。
なんだ? 何かおかしなことを言ったか?
「やっぱり、役は交代しよう。君は、上繁くんと会うんだ」
品沼が脱力するように息を吐いて、そう切り出してきた。
だが、それは駄目だろう。そうなると、レヴィアタンの相手はどうするんだ。
「君が話をつけるまで、悪魔は僕が抑えておく。勝てなくても、時間は稼げるはずだ」
「何言ってんだ。そんなの任せられる訳ないだろ」
「でも、上繁くんとは話すべきだ」
強い口調だ。頑として譲る気はないらしい。
俺も一度黙って考える。相談した身としても、品沼の提案は一考すべきだし、無意味にこんなことを言ってくるとも思えない。
「俺はあいつに直接聞いたんだよ。どうしたいのか、って。でも、応えてくれなかったんだ」
そうだ、あいつは自分から、俺との対話を拒否したんだ。
ただ、戦おうとしていた。
「白城くん……よく考えて? 嫉妬している相手に、何が妬ましいか、何が羨ましいか、それを言う人は普通いない。それを伝えろ、って言うのは、あまりにも酷な話だよ」
諭すような口調に、俺は思わず頭を抱えた。
分からない、でもない。ああ……理解はできる。
それなのに、俺には対処方法が分からない。解決策が見当たらない。
品沼の言う通りであるならば、上繁と再び対話したって、俺には何もできないんじゃないか?
単純なことなんだ。とても近くに答えがある。感覚的にそれは分かる。
でも、見つからない。
俺が悩んでいる内に、品沼が独断で行ってしまいそうな気配もする中で、俺の携帯が震えた。
……瑠海からの着信だ。さすがに、まだ帰って来ないのを不審に思ったらしい。
出ないのも不自然なので、通話に応じる。
「黒葉? 何かあったの?」
「いや、ちょっと遠くまで来ちまって……すまん、もうすぐ帰る」
嘘を言って、適当に時間を稼ごうとする。
焦っても、レヴィアタン相手に短期決着ができるとは思えないが。
「ふう~ん……今どこ?」
瑠海は、俺の言葉に疑問を持ったようだ。
伊達に長い付き合いじゃない、ってことか。半端な嘘では誤魔化せない。
「駅の方だよ」
曖昧に流して、通話を終えようとする。
「じゃあ、青奈ちゃんが商店街方向のスーパーに行ったから、合流して帰ってきて」
「は!? 青奈が!?」
瑠海の予想外の言葉に、動揺してしまった。
商店街方向であるなら、下手するとレヴィアタンと遭遇してしまう。
と、焦った一瞬で……してやられたことに気が付いた。
青奈のことを持ち出せば、俺が冷静でいられなくなることも分かっていて、引っ掛けやがったな。
「……商店街の方だね?」
電話向こうの雰囲気が変わったことで、俺はため息を吐いた。
上繁の今後も考えて、俺は連絡を入れなかった訳だが……同じような目に遭った瑠海なら、俺よりも理解してやれるのかもしれない。
「事情があったんだ。全部込みで、話すぞ?」
ふと顔を上げれば、品沼が何事かと俺を見ている。
俺が首を振ると、品沼は、やっぱり、というように笑った。
瑠海とは通話をしながら合流した。その間に、大まかな事情はすべて伝えた。
レヴィアタンと上繁に、今のところ動きはない。不自然なほどに。
既に、俺と品沼があの場から離脱して十五分くらいは経っている。
「……黒葉は、どうするの?」
深刻な表情で瑠海が訊いてきた。
どうするの? か。戦略的な話ではなく、心構えの話だろう。
「上繁と対話だ。だけど、今のままじゃ、どうしようもない。俺には……あいつの気持ちが分からないんだ」
反射的に、瑠海から目を逸らす。
結局、俺は成長できてないんじゃないか……相手の心を理解できないままで。
「……黒葉はさ、さっき電話で、心の矛盾っていう話をしたよね?」
瑠海が小さく、俺に聞いてきた。
確かに、俺は上繁をレヴィアタンの呪縛から解放するために、心の矛盾点を明確にしようと考えた。瑠海にもその旨は話したのだ。
俺が頷くと、言いにくそうに瑠海が口を開いた。
「それは、違うよ。心は矛盾しない」
◇
俺は第三高校の校庭のど真ん中にいた。
この場所の設定に、どれほどの意味があるかは分からない。だが、あいつと話をつけるなら、ここの方がいいと思ったのだ。
ジャリ、という砂を擦った音に、俺は振り返る。
「……よう」
軽く挨拶をするが、上繁は黙ってこちらに歩いてきた。
明らかなまでの殺気。とんでもなく、敵意が剥き出しだ。
「待てよ、話そうぜ? 俺はお前と、ちゃんと話してないんだからさ」
俺は両手を挙げて、戦う気がないことを示す。
瑠海と品沼の二人と相談して、俺はこの場所に、携帯で上繁を呼び出した。瑠海の一件でも分かる通り、どんなに悪魔に唆されていたとしても、文明の利器を使わない訳ではない。むしろ、利用することさえあると。
メールの本文は、瑠海に書いてもらった。
『お前も男なら、一対一で俺と会え。場所は第三の校庭だ』
それだけだ。
「嫉妬の面が強化されるってことは、それ以外の感情が後回しにされるってことでしょ? だから、こうやって煽るような文面なら、乗ってくると思うよ」
瑠海は得意げにそう言っていた。
レヴィアタンがどこまで上繁を利用する気かは分からないが、今は邪魔をしてこないはずだろう。多少は、二人を引き剥がせる。
「話すことがあんのかよ。もう今更だろ」
「そうか? 俺は上繁に、まだ言いたいことがあるけどな」
一応、上繁は、俺の二メートルほど前で脚を止めた。しかし、まだ剣呑な雰囲気は変わらない。
さて、と……こっからが勝負だな。
さりげなく視線を巡らせるが、目につく位置にレヴィアタンの姿はない。この場所を指定したのは、レヴィアタンが介入して来ようとも、すぐに発見できるから、という理由がもある。
「お前は、俺が妬ましいんだろ? なんでだ? 意味が分からないぞ? お前と俺、何が違うんだ?」
瑠海の作戦に乗っかる形で、俺は会話を始める。
作戦とも言えないが……俺のこれは、瑠海の時とは、別のやり方だ。感情が違うんだから当然ではある。
簡単に言えば、誘い出したメールと同じ。煽るんだ。
予想通り、上繁の表情が僅かに動いた。
「……違うだろーが。お前は俺よりも――」
上繁が言葉に詰まった。
瑠海曰く、感情は、心は、矛盾しない。矛盾するのは、行動だけだ。
俺が妬ましい、という上繁の中にあった感情は、大なり小なり最初からあった。それは仕方ない。
ただ、その感情を、どうするかだ。
「どうした? 言えないのか? じゃあ、俺の予想を言ってやるよ」
言葉に詰まった上繁の代わりに、声を張り上げる。
「上繁より俺の方が強いことが、女子にモテるってことが、気に入らねえんだろ!?」
これは俺の言葉じゃなく、瑠海の言葉を借りただけだ。俺は、女子にモテた覚えはないのだが、瑠海に言われたら頷いて呑み込むしかない。
だが、確かに思い返せば、上繁が俺のことをそう思っているような節はあった。冗談混じりだったし、俺も適当に流していたから、本気にしていなかったが……他でもない上繁自身が、そう言っていたのだ。
そして、瑠海の思っていた通り、俺の記憶の中の通り、それは事実だったらしい。
「てめえっ……!!」
上繁のここまで怒気を含んだ表情は、初めて見る。
今にも殴りかかってきそうな上繁を前に、俺はすぐ口を開く。
「いい迷惑だぜ、こっちは! お前が弱いのは、俺の警告無視して訓練も何もしてないからだろ! モテないとか知るか! そんなの俺にもお前にもどうしようもねえことだろ!!」
ここは結構本気で怒鳴る。特に後半。
瑠海に言われて、俺もなるほど、と思った。俺にだって、嫉妬の感情は存在する。でも、それを抑えて生きているんだ。そうするしかない。
そう……レヴィアタンの言う通りだ。嫉妬という感情は、厄介で、どうしようもない。
本人にも、周りにも、できることはない。
「それで妬ましいだと? 冗談じゃねえッ!」
俺に叫ばれて、表情はそのままだが、上繁の動きが止まった。
当然だ。正論なのだから、上繁は言い返せない。
誰にもどうすることもできない感情だからこそ、みんな抑えて生きているんだ。我慢して生きているんだ。だって、表に出してもどうしようもできないんだから。
俺は上繁の感情をどうにかしようと思って、解決しようと計ったが、それがそもそもの間違いだったんだ。
「……うるせえよ……」
上繁は、拳銃を抜いて、俺に銃口を向けてきた。だが、さっきのようにすぐに発砲はしてこない。
矛盾しているのは、上繁の心ではなく、行動だ。
どうしようもない感情を増幅させられた上繁は、どうしようもないから、どうにかできる俺の命を奪おうとしている。レヴィアタンにそう誘導されているからだ。
上繁の行動は、無理にそうして動かされているだけなのだから、矛盾して当然だ。
「俺を殺すか? そうしたら、俺たちの友達は泣くぞ? 俺が死んだから、お前が殺したから、悲しむ。お前は捕まるし、女子どころか誰とも関われなくなる。それが望みかよ?」
上繁の銃口が、微かに震えた。
それでいい。上繁、銃を収めろ。剥き出しの感情は、お前のせいじゃないし、どうにもできないのだから、せめてその武器を抑えるんだ。
でも、それだけで引っ込みがつかないなら、相手になる。
こっからはもうアドリブだが……これしか、俺には思い付かないんだよ。
「殺し合いなんて意味ないだろ? それでもお前が引っ込みつかねえ、っつうんなら……そうだな、男らしく喧嘩しようぜ」
俺は拳銃を抜いて、地面へと投げ捨てる。ナイフは折られたから、持ってすらない。
予備の弾倉すら捨てて、俺は再び両手を挙げた。
俺の動きに固まる上繁は、眉をひそめた。
「丸腰だ。お前も男だろ。素手で、決着をつけようぜ」
分かりやすく、左手を前に出して、ありきたりな挑発の仕草をする。
そんな俺に、上繁は……初めて、笑った。呆れたように。
「やっぱ馬鹿だよ、お前」
「お前ほどじゃない」
笑った俺に、上繁は首を竦めた。それから、拳銃を地面へと放り投げた。ナイフも抜いて、遠くへ転がす。
お互い、左拳を前にして構えた。
◆
やれやれ、と首を振りながら第三高校の校庭へと向かって歩き出すレヴィアタンは、そのまま校舎の角で脚を止めた。瑠海と悠が立ち塞がったのだ。
「どけ」
レヴィアタンが短く、それだけを口にする。
瑠海は笑って、拳を打ち合わせた。その両手には、メタルズハンドが装着されている。
「任されちゃってるからさ、ここは」
無言でナイフを抜いた悠が、その言葉に頷いた。
二人の顔を見たレヴィアタンが、ため息を吐いてから首を回す。
「無駄な殺しなんか、しなくてもいいんだけどね」
わざとらしく首を傾げたレヴィアタンが、殺気を滲ませる。
僅かに気圧された瑠海の代わりに、悠が一歩前に踏み出した。
「一つ、聞かせて欲しい」
物怖じしない態度で、悠が左の人差し指を立てた。
「君たちは、白城くんのことを捕まえたところで、どうなるんだい? 君たちの存在が、白城くんによってどう変化するのかな?」
隣で、瑠海が小さく息を呑んだ。気になってはいたが、明確にしたことがない話だったからだ。
瑠海が深く追求しない理由は色々とあるが、まずは黒葉がそれを望んでいないのが大きい。ただでさえも、黒葉の抱えている秘密を明らかにしようと生徒会などが動いている状況で、友人にも迫られるのは酷だろうと。
しかし、知りたくない、訳ではない。
例えばそれこそ、黒葉の望まぬ形で、思わぬ機会に、偶然知ってしまうようなことであれば――
「それを知ってどうなる? 邪魔するのをやめるのか?」
「難しいところだね。君たちが、最終的に彼をどうするのかが問題かな」
悠は臆する様子もなく、涼しげな表情で肩を竦めて見せる。
事の成り行きを見守る瑠海の前で、二人はしばし動かずにいた。
しばらくして、小さくため息を吐いたレヴィアタンが、小馬鹿にするような表情を悠に向けた。
「詳しいことは、私たちを生み出した奴らに聞け。辿り着ければの話だがな」
「生み出した……?」
瑠海がレヴィアタンの言葉に眉をひそめたが、悠は軽く頷いただけだった。
「仕方ないね。君たちにもやっぱり分かってないんだろう」
レヴィアタンの表情に、僅かな怒りが浮かんだ。
その一瞬で、悠がその場で最も速く動く。手慣れた動きでナイフが投擲され、レヴィアタンを囲むように四角形の点となって地面に刺さる。同時に植物の蔦がそれぞれの柄から出現し、レヴィアタンの四肢を拘束した。
その手際と速度に、瑠海が感嘆の声を上げる。
「君の戦闘スタイルは聞いている。狙撃弾すら弾く装甲、白城くんが躱し切れないほどのスピードによる格闘術、聞くだけでも恐ろしいよ。でも、勝ちを狙わず、留めるだけなら僕の得意分野だ」
鋭い視線を向ける悠に、レヴィアタンがフッと笑った。
「なるほど……確かに、一つ上を出さなくては、と言ったところか?」
瑠海と悠が警戒して構えると同時に、レヴィアタンの身体が赤黒い光を発し始めた。




