第198話 姫波瑠海Ⅲ
腕時計が五時五十分を示した時、瑠海と雁屋さんが車に乗るのが見えた。
俺は五時半から、まるで張り込みでもするかのように、瑠海のマンションの近くで様子を窺っていた。瑠海が家を出なければいけないので、結局は同じ時間になる訳だが。
「じゃ、行くか」
さっき到着したばかりの陽愛と桃香に合図して、俺は大量のビニール袋を持ち上げる。
「小鈴ちゃんは来ないの?」
「早過ぎるから、後から青奈が送ってくれる。多分、七時半くらいだな」
エレベーターの中で、俺は一息吐く。
食材が重い……買い過ぎたな。女子に持たせる訳にはいかないと思って、俺が一人で手にしているのだが、腕が辛くなるレベルだ。
早朝でも、夏の暑さが身に沁みる。汗が一滴流れ落ちた。
「大丈夫……?」
俺が息を吐いたのが分かったようで、桃香が俺の顔を覗き込んできた。ハンカチを出して、俺の頬を伝って流れた汗を拭いてくれる。
「ありがとう……ま、これで良かったよ」
そう言って、エレベーターの床をつま先で小突く。
最上階で停まったエレベーターを降りて、重い荷物を手に、瑠海の部屋の前に立った。部屋の鍵は、雁屋さんが外してくれている。来たのは初めてだ。
「お邪魔しま~す」
先頭を陽愛にして、誰もいない部屋に入っていく。リビングでやっと、ビニール袋を置けた。
「さて……じゃあ、準備しますか」
それから続々とやって来た参加メンバーに、陽愛が仕切り役となって指示を出す。
朝なので、誕生日会とは言っても朝食っぽいものを作る。
料理が得意な陽愛と共に俺がキッチンに立ち、桃香は飾り付けをしていた。
月音、駒井、七時近くになってようやく上繁、その三人が来て、メンバーはこれで充分だ。小鈴ちゃんは後から来るし、他に声をかけられた人はいない。
「人脈がなあ……」
嘆きながら、スープの味を整える。瑠海の交友関係はもっと広いハズなのに、俺が呼べたのはこの数だけ。やはり、俺はサプライズを企画する器じゃないな。
「人との付き合いは、広く浅くより、狭く深く、だよ」
陽愛が皮付きのフライドポテトを揚げて、励ますようにそんなことを言ってくる。
「広く深く、じゃないのか?」
「その方がいいけど、広くしたら自然と浅くなるものだよ」
人付き合いは苦手じゃないけれど、運がない陽愛が、遠い目をしながらそう言う。
深く聞いちゃいけない気がするので聞かないが、経験上の話なのだろう。まあ、人に与えられている時間は有限だからな。広くすれば掘り下げる暇はないし、掘り下げていれば他の場所にまで手を出す時間はない。
「もうケーキ出しておきますね」
キッチンにやって来た月音が、冷蔵庫を開けて、桃香が作ってきたケーキを取り出す。
桃香本人曰く、あまり料理は得意じゃないそうだが、お菓子作りなら陽愛にも負けないらしい。
なるほど、見事なホールケーキだ。シンプルに生クリームで覆われていて、上に苺が並べられ、瑠海の名前が入ったチョコプレートが置いてある。
「そう言えば、月音って料理しないの?」
俺が何気なく訊くと、月音の動きが止まった。
「え、えっと……私は、あまり……」
「でも、一人暮らしなんだよな? 作らない時ってどうしてたんだ?」
「あ、ああ……いや、その……」
妙に歯切れ悪いが……とりあえず、料理をしていなかったことは察した。
義姉の星楽さんから、仕送りがあったとは聞いていたが……なんというか、健康に悪い、偏った食事をしているイメージだぞ。
「お~い! あの車じゃねえのか?」
上繁の声で、先ほど雁屋さんの車を見た桃香が、ベランダに出て行くのが音で分かった。
「うん……戻って来たね」
桃香がキッチンにやって来て、俺と陽愛にお知らせをしてくれる。
料理もほとんど終わったし、大丈夫だろう。パッと見て、飾り付けは完璧だと思うし。何を基準に完璧かは適当だけど。
エプロンを外した陽愛が、クラッカーをテーブルから拾い上げる。
「黒葉の割には、気が利いてるね」
手の中でくるくるとクラッカーを回しながら、陽愛が意地の悪そうな顔で笑う。
俺も一つクラッカーを手に取って、苦笑いを返した。
これもまあ、一つ成長だと思えばいいさ。相手の気持ちを考えることの、僅かな一歩だと。
俺らしい、火薬に巻かれた成長の証だ。
◇
瑠海と雁屋さんが帰って来てからは、騒々しさが六割増しくらいな気がする。瑠海という追加燃料があったからだ。
みんな空気を読んで、瑠海の失踪の件は口に出さない。俺が前もって、瑠海の代わりに謝っていたというのもあるのだろうが、誕生日に無粋なことはしないのが、暗黙の了解だ。
「すみません、後はお任せします」
七時半頃に、雁屋さんが耳打ちするように言うので、俺は慌てて後ろを追った。
「ありがとうございます、俺の我が儘で、ここを貸してもらって」
玄関で靴を履きながら、雁屋さんは首を振った。
「いえ、白城さんの我が儘ではありません。私の甘さです」
「甘さ? 雁屋さんの?」
思わぬ言葉に、俺は首を捻って聞き返す。
「あの子の誕生日だということは、当然、覚えていました。瑠海のお母様も、分かっていてパーティーを開いたのです。だから、どうせあの子への罰にはなりません」
まあ……俺も察してはいた。
多忙で、心のすれ違いも起こる瑠海とその両親だが、決して、瑠海を蔑ろにしている訳ではない。偶然パーティーを開く訳がないとは分かっていた。
「ですから、本当はここまでして下さることは、私の甘えが原因なのです。白城さんの気遣いに縋り、あの子の幸せを願ってしまう、私の……」
背を向けたまま、雁屋さんが深く息を吐いた。
「いいんじゃないですか。家族なんだから」
血の繋がりよりも、もっと深い絆がある。
俺が知ったような口を利くべきじゃないかもしれないけれど、思ったことは言ってもいいだろう。
「あなたにとっても、瑠海にとっても、お互いが大切な家族のハズです。家族なら、無条件で身勝手でも、幸せを望む権利があると、俺は思いますよ」
余計なことだろうな。わざわざ言うほどのことじゃない。
言わないのが美徳ってことだろうさ。それこそ、暗黙の了解で。
「片付けなど、お願いしますね」
そんな美徳を俺なんかより心得ているであろう雁屋さんは、心なしかさっきよりも少し明るい声で、俺にそう託して出て行った。
雁屋さんが出て行ってすぐ後に、青奈が寝惚け眼を擦りながら小鈴ちゃんを連れて来た。
玄関で出迎えた俺に小鈴ちゃんを預け、ふらふらとした足取りで青奈は学校へと向かって行った……ハズなのだが、大慌てで戻って来て、大声で瑠海を呼んだ。
「はいは~い」
口にフライドポテトを詰め込みながら、瑠海がリビングから登場した。
「誕生日おめでとうございます! これ、プレゼントです!」
そう言って青奈が渡したのは……帽子だ。しかもこれ、マリンキャップだろ。
瑠海がこの前被っていたのは黒いマリンキャップだったが、青奈がプレゼントとしたのは真っ白と対照的。どちらにせよ、あの帽子は雁屋さんが処分すると言っていた。嫌な記憶に結び付くかもしれないし、俺たちが発見していなかったことにすれば、いつの間にか紛失した、で済む。
俺は今回の流れを、青奈には大まかにしか言っていない……偶然か?
「……ありがとう、青奈ちゃん」
柔和な笑顔で、青奈からの帽子を受け取った瑠海は、それを胸に抱いた。
「私、今日から生まれ変わろうと思う。これは、その証として」
少し神妙な面持ちで、瑠海は貰ったばかりの帽子を頭に乗せた。
白い生地が、瑠海の鮮やかな金色を映えさせる。今日はまだまとめていない金髪が、白く、淡く、輝いた気がするほどに。
「やっぱり似合ってますね! ――あ、私は学校行かなきゃいけないので。お邪魔しました!」
青奈が慌てて頭を下げ、勢いよく玄関を飛び出して行った。
俺には一言もなしか。
一気に静まり返った玄関に、俺と瑠海が取り残された。
「……黒葉」
少し、怯えたような声。
振り向くと、瑠海が帽子を前に垂らして顔を隠していた。
瑠海は、攻められるのには慣れちゃいない。だから強引に、俺から家に押し掛けたのだが……。
ぶっちゃけ、何も考えていなかった。
俺は瑠海に謝って欲しい訳でもなく、泣いて欲しい訳でもなく、俺から離れていって欲しい訳でもない。
話すことなど、何もない。いつも通りに戻れれば、それでいい。
けれど、話さなければ、きっと戻れないんだろう。俺があの時叫んだ、戻って来い、という言葉は本心だと言わなければいけない。
「ああああああっ!? スクランブルエッグが焦げる!」
俺が意を決して口を開きかけた時、上繁の間の抜けた叫びが響いた。
「誰だ、あいつをキッチンに入れたのは……」
雁屋さんの調理器具に焦げ跡を残したりしたら、土下座じゃ済まない。
慌てて俺が小走りでキッチンに向かうと、マジでスクランブルエッグを焦がそうとしている上繁がいた。
「なんでこれだけの作業ができないんだ!?」
「知るかあ! 急に煙が上がったんだ!」
上繁が悲痛な声を上げて水を投入しようとするのを、寸前で俺が止める。
火が強すぎるんだよ……! マックスじゃねえか!
悲鳴を上げる上繁を蹴り飛ばし、俺は卵の救出を始めたのだった。
疲れた。
上繁のスクランブルエッグ事件を機に、部屋は更なる騒乱に包まれた。
小鈴ちゃんが余裕でスクランブルエッグを作ったものだから、上繁は残っている卵を全て使ってリベンジしようとするし、瑠海はそれに巻き込まれに行くし。
雁屋さんと瑠海が、一緒にいる理由……今は、本当の家族のような関係なのだろうが、出会った当初は違った。幼い頃から使用人嫌いの瑠海をどうにかするため、比較的若い人を付かせたのが雁屋さんという訳なのだけれど……それを瑠海は甘んじて受け入れる理由がある。
とにかく瑠海は、家事ができない。一人暮らしをしようものなら、カップラーメンのみの食生活に、掃除や洗濯も満足にできない、という悲しい末路を辿ることとなるのだ。
おそらく瑠海は、この中で誰よりも料理ができない。
「うわわわわっ! 陽愛! これどうなってるの!?」
「え!? ちょ、ちょっと!? なんで油の中にベーコン入れたの!?」
「か、カリカリしているのは、油で揚げたからだと思って!」
恐ろしい会話がキッチンから聞こえてくる。
聞いているだけで心が痛むので、俺はそっとベランダに出た。
夏なんだな。一瞬でそう思わせる、新緑と生き物の匂いを混ぜた風が、ベランダを吹き抜けた。
「お疲れ様です」
困ったように笑いつつ、月音が俺に続いてベランダに出て来た。両手に持っていたオレンジジュースの入ったグラスの、片方を手渡される。
「月音はいいのか? あの料理教室」
「わ、私はちょっと……今度、ちゃんと教えてもらいます」
茶化して言うと、月音も笑いながらそう答えた。
オレンジジュースを飲みながら、月音と並んで、通学路を通る学生たちを見下ろす。
「昨日は家に帰ったんだな。陽愛の家に泊まってるって聞いてたけど」
朝に陽愛からも言われたことだが、なんとなく確認してみる。
集合場所に陽愛が一人で来たものだから、予想が外れたのだ。てっきり、月音と一緒に来ると思っていたのに。そう言うと、昨日は第二都市の自宅に帰ったらしい。
「それはそうですよ。講義もあったんですから、わざわざ外泊のためには戻って来ません」
月音がクスクスと笑う。
なるほど……確かに。誕生日会の計画で頭の中は一杯だったから、つい忘れていた。
「じゃあ、今は吸血鬼の魔法も使えるのか」
少し声を低めて言うと、月音の顔から笑みが薄れた。
「はい……その……ごめんなさい、私……」
申し訳なさそうに俯くので、俺は左手を左右に振りながら否定する。
「怒ってなんかないぞ? むしろ感謝しているんだ。最初に、俺が使ってくれ、って頼んだ訳だし、最後は命まで救ってくれたんだ」
そもそも、吸血鬼は既に、月音の能力なのだ。俺が今更、どうこう言えることじゃない。
「でも……」
変なところで食い下がる月音が、何かを思い出したように目を見開いた。
「あの、これ……黒葉くんに見てもらいたくて……」
月音がポケットから、何かの紙を取り出した。二つに折り畳まれたそれを開くと、何かが書いてある。
と言うか、これ、短冊じゃないか。
「瑠海さんの文字に見えませんか?」
少し強い口調で訊かれる。同意を求められているんだろうなあ。
短冊を覗き込めば、確かに瑠海の文字に見える。中学時代に手紙を何通も貰ったことあるし、見覚えはあるのだ。
『今日みたいな日が、いつまでも続きますように』
それが、瑠海の願いだったのか。本心だったかは知らないし、詮索する気もないけれど。
あいつは一度、書き直している感じだったしな。誰に願ったものかは知らないが、リトライがありなのかは定かじゃない。
その結果、願いに食い付いたのは悪魔だった訳だ。
「これはどこにあったんだ?」
「あ……そ、その……瑠海さんを見つけて、追っていたら……拾いました……」
嘘だな。追及する必要はないけれど、俺には言い辛い何かが、瑠海と月音の間に起きたことは分かった。
その過程で、月音はこの短冊を見つけたんだろう。おそらく、吸血鬼の能力も用いて。
「瑠海が飾っていた短冊の方は分かるか?」
試しに訊いてみる。
「覚えてます」
これは使ったな、吸血鬼の能力。普通、分かる訳ないもん。
「『何も失わずに、欲しいものが手に入りますように』、だった気がします」
ああ、なるほど。これもきっと正しいのだろう。
瑠海の願いは、むしろ後者の方が正しい。瑠海自身が言っていた。誰のことも悲しませない方法として、悪魔に力を借りると。
「吸血鬼さんの予想だと、マモンはあの短冊を依代のようなものとして、瑠海さんから力を引き出していたんじゃないか、って」
「それはつまり……あの短冊が、マモンと瑠海を繋ぐ回路だったってことか?」
見えるハズのない、第二都市で揺れているであろう短冊がある方向を見る。朝靄が僅かにかかった視界の端で、笹の葉が揺れたような気がした。
「厳密には違うそうですけど、予想ではそんな感じ、だそうです。私の勘違いじゃなければ、瑠海さんの短冊を、わざわざ入れ替えたくらいですから。一枚目と二枚目、飾られてたのが逆だったんです」
勘違いじゃなければ、なんて言いながらも、その声は自信に満ちている。
吸血鬼の夜目の力が、影響しているのかもしれない。夜の闇の中でも、マジックペンで書かれた文字が見えるのだろうか。
「てか、見ちゃったの?」
人の願い事を見ちゃ駄目だと、他ならぬ瑠海が言っていた気がするが。
俺に言われて、月音の顔が少しずつ赤く染まっていき、遂には真っ赤になってしまった。
「すみません……その、つい……」
「俺は別にいいんだけどさ……」
気まずい空気を紛らわそうとグラスに口を付けたが、既に中身は空だった。
「新しく汲んで来ますね!」
離脱するための口実を見つけた月音が、勢いよく俺の手からグラスを奪い取り、室内へと戻っていく。
月音が俺の左手に残していった短冊を見る。
人に教えたら、願いは叶わないと言うならば――
俺たちの、あの七夕祭りの日のような平和は、遠く過ぎ去っていくのだろうか。
いや、そんなことはない。俺たちで、取り戻すのだから。
誰かに願ってもたらされる平和なんて、信用ならないさ。俺は三年前から、本気で何かに願うのはやめた。
だから俺はまず、室内から俺の様子を窺っていた瑠海に、手招きをするのだった。




