第196話 姫波瑠海Ⅱ
私は、普通に過ごしたかった。
新しい中学への転校初日、高級車で迎えにきた我が家の使用人の方々に、私は怒りを覚えたのだ。だって、普通の家庭の子、の方が絶対に馴染みやすい。それを、初日からぶち壊してくれたのだから。
その時は、怒りが頭の中を支配していたのもあって、むしろすぐに乗り込んだ方が目立たないことには気付けなかった。というか、私のことを全く理解してくれていなかった親に、少しでも反抗したかったのだ。
周りの同級生が遠巻きに歩いて行くのを見て、私は何故か泣きそうになった。
最後に、大きな声で叫んでもみようかと思った時――
「あ、すみません」
私の腕を掴むSPの人の腕に、一人の男の子がぶつかった。俯いていたから、前方不注意だったのか、と思ってしまうほどに自然な流れで。
でも、違った。
ぶつかったことで少しだけ緩んだ拘束を、その男の子は急に素早い動きで引き剥がして、私の腕を今度はその子が掴んだ。
「行くぞ」
一瞬のことに反応が遅れた周囲に反して、その子は私の腕を掴んだまま、身軽な動きで下校していく同級生の間を走る。引っ張られるように付いて行く私を、一瞬だけ抱えるようにしたその子は、風に乗ったような動きで、塀を跳び越えた。
しばらく走ってから、空き地に入り込んだ私たちは、木の影に座り込んでゼエゼエと息を整えた。
「大丈夫か?」
その子は素っ気ない態度で、それだけ話した。
「あ、はい……えっと……」
もしかすると……誘拐と勘違いしたんじゃないのかな?
そう思った私は、おずおずと真実を口にした。
「はっ……? 迎え?」
「は、はい」
私の説明に、その子は呆然と口を開いて、しばらく固まっていた。
気まずくなって私が顔を逸らすと、小さなため息が聞こえてきた。私が抵抗したせいで、面倒事に巻き込んじゃったな……。
「すまなかったな、勘違いして。じゃあ、戻るか」
思ったよりもあっけらかんと、その子はそう言って立ち上がった。
「え? も、戻る……?」
「そんなに嫌なのか? 家が」
私が驚いている理由を勘違いしたその子が、目を細めて首を傾げた。
うっ……ちょっと目つきが怖いから、細められると余計に怖く見えるんですけど……。
「そうじゃなくて……一緒に?」
「だって、俺のせいでややこしくしちゃったんだろ? 謝らないと」
淡々とそう言って、その子は私に手を差し伸べてきた。
呆然としつつその手を取ると、座っていた身体が引っ張られる。
「怒らないの? ややこしいことしちゃって……」
ビクビクして聞くと、振り向いたそこの子は首を傾げた。
「怒る? なんで? 俺が勝手に助けようと思っただけだし、助けるってことも責任は伴われるんだ」
それに、と付け加えて、顔を前に向けて歩き出す。私も慌てて、その子の後ろを追う。
「君は戦ってた。誰の助けもない状況で、自分の願いを守ろうと必死だった。相手は複数で大人。その状況で、君の思いが無視されるのは間違っている――そう、思っただけだ」
「で、でも……誘拐みたいに……」
「……正直、考えてなかったな。とりあえず、話は後から聞けばいいか、と思って君を連れ出した。まあ、後からした予想も全部、勘違いではあったけどな」
……そんな。
いるんだ、そんな人が。あるんだ、そんな考えが。
「俺はただ、ヒーローに憧れてるだけだ」
充分に、君はヒーローだよ。
誰よりも真っ直ぐに、私の心を慮ってくれた人は、あなただけだった。
事情も何も無視して、私の心に向き合うことを一番に考えてくれた人は、あなたが初めてだ。
雁屋さんも私にとっては大事な人だけど、あの人だって初対面の私には遠慮していた。
この人は、初対面どころか、碌に事情も知らない私を……助けて、くれたんだ。
あ、待って。戻る前に――
「えっと……君の名前は?」
私の問いに、その人は振り返った。
「白城黒葉」
自分のヒーローの名前を知らないなんて、少女漫画だって許してくれないよね。
「私は、姫波瑠海」
黒葉くんの手を握りながら、私は小さく呟いた。きっと聞こえたら、否定されちゃうだろうから。
「助けてくれて、ありがとう」
◇
私はともかく、父まで気に入るとは思ってなかったな。
私の普段の態度が少し変わったからなのか、黒葉を紹介した時、どうも中学生に対する雰囲気ではなかったような気がした。黒葉は少し大人っぽいけれど、それを見抜いていたのかもしれない。
「娘がよく、君の話をするものでね」
黒葉と知り合って五日後。珍しく父が家にいて、黒葉と会いたい、なんて言ってきたものだから、土曜日に招待したのだ。午後のお茶を一緒にする、という名目で。
「そう、ですか……すみません、聞いているとは思いますけど、勘違いしてしまって」
午後のお茶に招待したのだけれど、黒葉は畏まっているようだった。
――だから、あまり家には呼びたくなかったんだ。
家、と言っても、こっちの方で両親が仕事を長くする時にのみ使っている別荘なのである。当然、見た目が堅苦しいのは分かっていた。
迎えに来た高級車の件で、既に私の家が普通じゃないのは分かっていたとは思うけれど、それを露骨に見せるようなことは、したくなかったのに。
「いや、謝ることじゃない。私が少し、過保護が過ぎたんだね」
気難しい顔を少し和らげて、父がコーヒーを啜るのを、私は黙って眺めた。
あまり大きくない部屋を使ったつもりだけれど、応接室には違いないし、あまりにも広い。横長のテーブルに、私と黒葉が並んで、その向かい側に父が座っている。
――これじゃあまるで、ドラマで見た、結婚の許可をもらいに来た恋人みたいな――
「そうですか? 中学生くらいなら相応の心配だと思いますけど」
驚いて横を見ると、さっきの愛想笑いを浮かべていた黒葉とは、少し表情が違っていた。
「君はそう思うかい?」
「はい」
ちょっと……残念。
黒葉には、私がお金持ちだと知られたくない、ってことは話している。だから迎えも嫌がっていたと説明したのに。
「でも――」
黒葉が少し、声を低くした。
「俺が言うのはお門違いだとは思いますけど、俺のような人間に連れて行かれるんじゃ、迎えの意味はないと思いますよ」
思わず、紅茶を吹き出しそうになった。
よくもまあ、そんなことを言える。この父に、面と向かって。
「迎えはあまり、しない方がいいと思います。逆に目立ちますし、瑠海が嫌がれば、危険は増しますから」
黒葉は真っ直ぐに、父の目を見つめていた。
恐る恐る、父の反応を窺う。
父は、コーヒーカップに視線を落として、黙っていた。
「……く、黒葉……」
「瑠海はハッキリ言えてないようだからな」
私が慌てて名前を呼ぶと、黒葉はこちらを見もせず、父の方を向いたままそう言った。
確かに私は、この一週間、車での送迎を甘んじて受けている。
……なんで?
どうして私に、そこまでしてくれるんだろうか。
後に黒葉は、誰にでも同じようなことをすると知ったのだけれど。
「……なるほど。君の言うことは、一理あるな」
長い沈黙を破って、父が口を開いた。その声は、とても穏やかだ。
「ただ、君が言ったことだ。責任を取って欲しい」
「責任、とは?」
「下校の時、君が一緒に帰ってきてくれ」
何を言い出すんだ、この人は。父の顔は真面目そのもの。ふざけている様子はない。
黒葉は私の心を代弁してくれただけだ。それに責任なんてない。
「分かりました。それで許してくれるなら」
再び、黒葉の顔を覗き込む。こっちも、真面目そのもの。ふざけている様子はない。
「ありがとう白城くん。よろしく頼むよ」
なんだこの展開……。
私を置き去りにして、話が進んでいく……どころか、まとまってしまった。
こうして私は、転校するまでの約一年間、黒葉と帰り道を共にすることになる。
父と黒葉の下校条約が結ばれてから二日後、私は黒葉に告白して玉砕した。
きっと私は自分勝手だったんだと思う。恋愛というものをしたことがなかったけれど、告白されたことは小学校の時からあった。だから私は、相手の気持ちを考えるという当たり前のことを、思ってもみなかったんだ。
私は、自分の心に向き合ってくれた黒葉を好きになった。私の心を、願いを、全て汲んでくれた人。そのために、普通は気後れするであろう行動もしてくれた人。
この人はきっと、真っ直ぐに向き合って、相手の気持ちを考える人なんだ。
私は逆だ。全く逆だ。
自分が不自由だと決めつけて、相手の気持ちを考えようともしない。
黒葉が私を好きになってくれる要素なんてないのに、私は軽く想いを伝えてしまったんだ。
ここで折れたら……黒葉は二度と、私を好きになんてなってくれない。
だから私は、折れずにいた。自分の想いをできるだけ伝えて、行動にも示すようにした。大袈裟だって思われても、やり過ぎだって言われても、正直に。黒葉がいつか、私を好きになるかもしれないと。
それから一緒にいる内に、黒葉の心の傷を感じた。どこか冷たい態度や、事務的な口調に、私は寂しさを覚えた。
黒葉が何かに傷付いているなら、私がそれを癒す人になりたい。私も、黒葉の心に向き合う人になりたい。
「ねえ、黒葉はどんな女の子が好きなの?」
ある日の帰り道の中で、そんなことを言った。半年くらいしてからだったと思う。
「は? ああ……考えたことねえな」
「つまり、好きな人になった人がタイプ、ってパターンか」
「知らんわ」
この頃になってようやく、黒葉は私に、友好的な態度で接してくれるようになっていた。
それが私のお陰、じゃないのは分かっている。でも、少しは貢献できていたんじゃないか、って信じてはいた。
「私はね~、ヒーローっぽい人!」
「なんだそりゃ」
悪戯っぽく言った私に、黒葉が呆れたように笑ってくれた。
私にとって、ヒーローは君だけ。黒葉、だけなんだ。私が変わるきっかけをくれたのも、黒葉なんだよ?
「俺は……お前のヒーローじゃないんだぜ」
少しだけ、黒葉が厳しい口調で言った。
黒葉は自分で、ヒーローに憧れている、と言ったけれど、こうやって自分で否定をする。黒葉はどこか、自己否定的な面があるんだ。
だから黒葉は、恋愛に対して消極的なのかもしれない。
いつか、それを私が変えたい。黒葉が自分を認められるようにしたい。
黒葉が私以外の誰かを好きになっても、それが報われるように。幸せに、なれるように。
私は黒葉に微笑んで、返事はしなかった。
◇
小さくため息を吐いて、私はドレスを脱いだ。
時刻は朝の七時。今日の午後からあるパーティーに、私は出なければならなくなった。そのために、新しいドレスのコーディネートをしてもらっている。契約を結んでいる専門の人だから、特別な扱いなのだ。
「どうしてこんな朝早くに……」
「急なことだったから、仕方ありません」
雁屋さんがそう言いながら、ドレスを脱ぐ手伝いをしてくれる。
そうは言われても、前日の夜に急に決まったことなのだ。いつもなら、何週間も前からオーダーメイドで作ってもらう。
――黒葉には、謝らないとな。
みんなには謝ったけれど、一番謝らないといけない人にはまだだ。あの時、月音ちゃんがいなければ、黒葉は私に殺されていた。本当は、謝るどころの話じゃないのだけど。
でも……怖い。
私は黒葉に、嫌われるようなことしかしていない。しかも今回は……殺そうとまで、した。
黒葉は、戻って来い、私のことを嫌いになんかなれない、って言ってくれたけど……あの時は、黒葉も必死だった訳だしね。甘えてちゃ、駄目だ。
「瑠海」
雁屋さんの気遣うような声に、私はハッとして顔を上げた。
「これで大丈夫?」
示されたドレスを見て、私は慌てて頷いた。
赤……派手なのは、あまり好きじゃないけれど。昔、無理やり黒葉を誘ったパーティーで着たのは、赤いドレスだった。
「はい、今すぐ持ち帰ります」
雁屋さんが話すのを、ぼんやりと聞いていた。
私の携帯は壊されたらしい。どこでなくしたのか、もしくは誰に渡したのか、覚えてはいないのだけれど。
車の助手席に乗り込んで、私は目を閉じた。早起きはあまり得意じゃない。
「ねえ……雅弓さん」
「……雁屋、と呼んで下さい」
関係性を厳格にしたいらしく、雁屋さんは名字で呼ぶように私に言っていた。小さい頃は、名前で呼んでも怒らなかったのに。
「黒葉は……私を許してくれるかな?」
私がまだ謝っていないことは、雁屋さんも知っている。
「そうですね……もうちょっとしたら、分かると思いますよ?」
珍しく、少し茶化した言い方だった。
自宅となっている、マンション最上階の一部屋。
重い足取りで、私は扉の前に辿り着いた。
「ごめんなさい」
雁屋さんが慌てたように駆けて来て、私より先にドアノブに手をかける。扉を開けて、私を置いて行くように早足で廊下を歩いていった。
欠伸をして、私は気怠く靴を脱ぐ。
のんびりとリビングへ――
――パパパァーン――!!
思わず身構えた。訓練をし過ぎているからか、一瞬、撃たれたと思ってしまったのだ。
『誕生日、おめでと~う!!』
何人もの声が重なって、鼓膜を震わせた。
陽愛、桃香、月音ちゃん、上繁くん、駒井ちゃん――黒葉……十人近い人が、クラッカー片手に立っている。
「さ、座って座って!」
呆然とする私は、引っ張られてクッションに座らせられる。
部屋の飾り付け、朝食向けだけれど豪華な食事、様々なものが準備されていた。……もしかして、ドレスのコーディネートに関する急なアポイントメント、それが朝早くに行われたこと、全てがこれのため?
そう言えばそうだ……今日は誕生日なんだ。自分のせいで色々あったから、思わず抜け落ちていた。
「それでは、主役も登場したことで~! 誕生日パーティー! 始めたいと思いま~す!」
上繁くんの掛け声に、一斉に拍手が鳴った。
「ちなみに、主催は白城で~す!」
意外な一言に、私は黒葉の顔を見つめる。
みんなからも視線を注がれ、黒葉が顔を逸らした。上繁くんの方に追い払うように手を振って、早く進めろ、とでも言いたげな表情をする。
雁屋さんの方を見ると、微笑んで頷いた。
そっか……さっきのは、そういうことだったんだ。
…………ありがとう、黒葉。
それも含めて、話さないとね。




