第191話 game over
俺たちは、お互いにコイントスをした。
俺とマモン、それぞれの金貨の裏表が一致した時に、先手と後手が決まるように。
三度目の結果。
「……私の、先手だね」
少し冷たい声で、マモンが二枚のカードをテーブルから取り上げた。
俺はため息を吐いて、ソファに背中を預ける。
今のコイントス……バレないようにと、二回目だけ風魔法によるイカサマを止めた。あそこで決まっていたら、危なかったかもしれない。後手が有利かは定かではないが。
大丈夫だ……ツキも俺にきている。
手元のカードは、“STAY”と“DOWN”の二枚だけ。金貨の獲得数を示す天秤は、俺の方に傾いている。
マモンもさすがに考え込んでいるようで、手の中の二枚のカードをじっと見ているようだ。
この五手目には……先手であるマモンからの、心理的な圧力が強い。
勝率が二分の一である以上、俺がマモンのカードを読む方法など、実際ない。俺はマモンの精神状態を読んだような口振りをしたが、ギリギリの勝負だったし、最早ここで掴める情報などない。
四手目で、俺はマモンに読み勝ったような台詞も吐いたが、あれだって綱渡りもいいところだ。直観で出されれば俺の予想なんて無意味だし、俺が挙げた理由だって根拠薄弱に他ならない。
だからこそ、イカサマも考えていたレベルだったが、本当によく繋げられた。一生分の運を使い切った気がする。
マモンが“DOWN”を出したら、俺は“STAY”を出す。マモンが“UP”ならば、俺は“DOWN”。
もう、これだけだ。この二択、この組み合わせしかない。勝つ確率、負ける確率、共に二分の一。引き分けなど、余地もない。
カードを出されれば、金貨の宣言も意味をなさない。俺は“DOWN”を出したら、十四枚以下を要求する。それが、“UP”との組み合わせでギリギリ勝てる限界だ。マモンは、俺の残りのカードが“STAY”である以上、三十枚を要求する以外に意味はない。
もし“DOWN”同士なら、俺の負けは確定だ。マモンが“DOWN”で三十枚以外を要求するメリットがないのだから、俺はどう足掻いても相殺しかできない。残りの“STAY”も四手目の逆になって俺の利はないまま、三手目でできた十五枚差が維持される。
マモンが勝負を急いている……俺はそう思った。今でもそれは思っている。こいつ自身の調子に、何か変化があるのかもしれない。
だが、今やその考えも無意味だ。今のマモンは――
「……まずいな」
マモンには聞こえないように呟く。
あいつの顔には既に、笑みが浮かんでいる。しかし、ここで勝ちが決まるような手段はないハズだ。それはつまり、あいつが賭け自体を楽しんでいるってことになる。
最初からあったマモンの人間らしい部分は、賭け事に対する楽しみ方だ。それがどんどん顕著になって、今やギャンブラーの雰囲気すらある。
そして、分かっていたことだが……俺とマモンの埋められない絶対的な差――執着心が、俺には不利に働く。
俺は負ければ、言葉通りの終わりなのだが……マモンは、陽愛と桃香を手放すだけ。心の余裕ってやつは、マモンに分があり過ぎる。
俺は特に考えもせず、勝負に挑んだ。それしかないと思っていた。
何かあったのかもしれない。打開策が、本当はあったのかもしれない。
それでも俺は、少しだけ、この勝負をして良かったと思っている。悪魔という心の闇のような存在と、心理戦をして勝つ。冗談では済まされないレベルの賭けだが、それこそが本当の悪魔との戦いじゃないのか?
自分の心を、相手の心を、予想して、想像して、覚悟を決めて、決断する。反則まがいなことはしたし、かなり綱渡りの状態で戦っていた。でも、まだ負けちゃいない。俺はここまで、不利な状況から五分五分まで、なんとか繋げたんだ。
そこで……急に、瑠海の顔が浮かんだ。
相手の心を予想して、想像して……? 何を、偉そうなことを言っているんだ、俺は。瑠海がマモンに力を貸す理由……もしかして、俺じゃないのか? 瑠海が、何かを望むとしたら――
戦う時ばかり、相手の心を考えて、なんてことを口にして、俺は身近な人のことを考えていたのか? あいつの気持ちを、心を、俺は汲もうとしていたのか?
守ろうとすることを、優先した。だけどそれは、何のために? 前に陽愛と放課後に出掛けた時、俺は思ったハズじゃないか。日常を、平和を、大事にするためだって。
俺はあいつの日常を、大事にしていただろうか。あいつとの日々を、どう守ろうとしていたのだろうか。
あいつが必死に強くなろうとしていた時、自分を守ろうとしていた時、俺はあいつに何か言ったか?
俺のせいで危険に巻き込まれるから、というのが理由だろう? それなのに、みんなは俺から離れることじゃなく、自衛を学ぼうと必死になってくれた。危険を承知で、俺といてくれようとしたのに。
俺はずっと、自分のことばかりだ。
「これにしよう」
雲が月光を遮った時、マモンが遂にカードを決めた。
現実に引き戻された俺は、慌ててマモンの目を見る。
……僅かな月の光で、マモンの目が黄色く輝いているように見えた。不敵で、どこか楽しそうな瞳。
どっちだ。“DOWN”か、“UP”か。
勝負の途中で、相手から目を離してしまっていた……言い訳もできない、自らの失態だ。
どうする……どっちを出す? マモンが置いたのが“DOWN”なら“STAY”、“UP”なら“DOWN”だ。どっちだ?
「ああ、はい」
迷う俺に、間の抜けたマモンの声が聞こえてきた。
……馬鹿な……何をしている……?
「私が置いたのは、“DOWN”だよ」
マモンが左手で、一枚のカードを俺に向けている。“UP”の文字が、鈍く光って見えた。つまり、伏せられたのは“DOWN”……。
馬鹿な、そんな馬鹿な。ここで、本当に“DOWN”を伏せている訳がない。引っかけに決まっている。俺が信じて、“STAY”を出したら、本当は“UP”ってオチなんじゃないのか?
だが、どうやって……?
俺はさっき、明らかにマモンから目を離していた。それは、当然マモンにも分かっている。その隙に、あいつが魔法でカードを作った――正確には、根本から賭けのルールを揺るがす魔法は使えないハズなので、限りなく似た偽物だろうが――としか考えられない。
だとしたら、雲で月からの光量が減っているタイミングも、偶然じゃないのかもしれない。
落ち着け、惑わされるな。
今までの俺なら、マモンと接していた今までの俺なら、どう判断した? その逆をつけば、マモンの予想を裏切れるハズだ。
マモンは左手をテーブルの上に乗せ、右手で頬杖をついている。余裕の態度だ。その目が、光を反射して鋭く光った。
俺のイカサマってのも、できるかどうかは分からない状況だ。覚悟を決めるか? 俺がマモンから視線を外していたことを、マモンはどう捉える? 俺の作戦だと、深読みするんじゃないか?
思い切って“STAY”に手を掛け、少しだけ持ち上げる。
このまま、出すか……?
…………おかしい…………。
どうしてそんな、リスキーなことをする? そこまでメリットがある行為か?
――マモンの目――左手――ルール説明――イカサマの意味――
“STAY”を持ったままの右手を首元に当てるが、そこには未だ、狐のような何かが巻き付いている。
……マモンはこれを、なんと説明した? 楔だと? 正々堂々と賭けるために? どうやって?
見張っているとでも?
マモンのルール説明は、どこから始まっていた? 少なくとも、マモンの首に巻かれている狐は、最初からいたんだぞ? 本当に、俺とマモンに等しくある、楔としての役割を持っているのか?
最初から、イカサマだったとしたら?
マモンの目が、異様に光って見える。つまりそれは……リンクしているんじゃないか? そういう魔法だとしたら?
あからさま過ぎて、使われれば気付けたかもしれない。だが、マモンは今まで使わなかった。最後の、決めるための一手のために。俺を、イカサマを警戒しないレベルに引きずり込むまで。
俺がリスクを冒して調べたカード認識のルールも、マモンなら調べるまでもなく分かっている。あの左手の下にはカードがあって、伏せられているカードは、まだ認識前だとしたら。
カードの偽造など、そもそも行っていない。
今のカードを見せる行為が、大胆な狐のイカサマに対するカモフラージュとしてあったとすれば。
全て、勝つための誘導だったのか。
イカサマの意味がないゲーム、と重ねて言うことも、実際に序盤はイカサマをしなかったことも、全て。
一歩、遅かった。気付くのが、もう少し早ければ。
マモンと視線が合う。あいつは、俺と違って目を逸らしてなんかいない。こっちを見ている。
俺が“STAY”を選ぼうとしたことは、もうバレている。まだ取り返しはつくタイミングだが……マモンに、繕った対応が通じるのか。一手目で、少ない情報から俺のカードを読んだというのに。
……どうする。
◆
陽毬はなんとか、気絶していた雅弓を建物の影で見つけた。すぐ側には、おそらく雅弓の物と思われる携帯が捨てられている。
(鮮やかな手際……あの子も訓練してたらしいけど、さすがにここまでとはいかないでしょ。悪魔の能力も使ったかな)
雅弓が気絶していることを確認し、陽毬は携帯を拾い上げた。メールの送信履歴を確認し、新しい二つを削除する。それから自分の携帯を取り出した。
何度目かのコールで、相手が通話に応じる。
「ごめ~ん、契約した子には逃げられちゃった。黒葉くんとマモンの方も間に合わなかったし……もしかして、怒る?」
「――怒る訳ないだろう。俺が無理に頼んだことだ」
「ありがと~! でもこれ、黒葉くん負けちゃったりしたら、相当まずいんじゃ?」
陽毬が心配したような声を上げる。横目でチラリと雅弓の様子を窺いながら、相手の応えを待つ。
「だろうな。あいつら悪魔には、黒葉を利用するための裏技がある。ここまで用意周到に仕掛けてきたってことは、それも使っている可能性が高い」
陽毬は、その予想が当たっていると確信していた。
陽毬が再び、雅弓と共に廃墟に戻った時は、戦闘音はしていなかった。人質を連れて場所を移すような理由もなければ、勝負がついたという様子もない。それならばきっと、戦闘以外の何かが起こっている。
「怒りはしないが、もう少し働いてもらうぞ」
「え、いや、それはいいけどさあ~……黒葉くんのこと、ヘルプに行かなくてもいいの?」
「お前が行っても助けにならないだろう。それと俺は、黒葉が負けるとは思っていない」
前半の辛辣な言葉に顔をしかめつつ、陽毬は自分の武装を確認する手を止めた。
「へえ……意外と、信じてるんだ」
少しおどけた調子で言って、陽毬は廃墟のある方角に目を向ける。
「信じている、とは少し違うんだがな……。まあいい、今回の事件からはもう手を引け。お前の妹も、きっと助かるさ」
「きっと?」
「……絶対」
「分かった」
陽毬は頷いて通話を終え、目の前のことに意識を切り替えた。
しゃがみ込んで雅弓を起こそうとした陽毬の上空を、大きな影が通り過ぎる。反射的に、陽毬は拳銃を抜いて空へ向けた。
「……確かに、私じゃ役不足かな」
拳銃を下ろした陽毬が、小さく呟いた。
◇
迷い続けている様子の黒葉を見て、マモンは空へ目を向けた。
今のマモンは、黒葉の首に巻き付いた狐と視覚を共有させている。マモンの注意力が落ちた、と思って黒葉がカードを選べば、それで何を出したかが分かるのだ。
(何もしないで負け、なんてやめて欲しいな)
マモンは自分が楽しんでいることを自覚していた。賭けることに対して、楽しみを感じている。
だが、それ以上にマモンは勝つことを渇望していた。なんとしても勝つつもりだ。
月明かりを遮っていた雲が、その端を見せた時だった。黒葉が無言で、二枚のカードをテーブルの上へと置いた。
それとほぼ同時。巨大な雲とは違う何かが、月光を遮り始めた。穴の空いた天井から見える空が、全て暗闇に染まっていく。当然、部屋の中は今までにない闇の中に落ちた。
「なんだ……?」
マモンは呟いたが、大して慌てはしなかった。一度“STAY”を選ぼうとした時から、カードの位置はすり替わってはいない。
形の性能を引き継ぐ魔法のため、夜行性である狐の目は狂わない。加えて、狐の聴力は人間の比ではない。暗闇だろうと、マモンには場面が理解できている。
マモンは途中で、黒葉がカード認識のルールを自らで調べて利用していることに気付いていた。訊ねてこなかったことが、逆に確信へと繋がっている。だから、自分の左手に注意力を割いていることも計算の内に入れていた。ここでカード認識のルールを利用することは、黒葉のできる最大の抵抗だ。
「俺はこれだ」
黒葉の一言で、勝負は決まった。二枚並べたカードの内、マモンから見て左側の方を前へと滑らせたのだ。
(見せかけたね)
マモンは小さく息を吐いた。
黒葉が左手でもう一枚のカードに触れたのを、狐の目を通してマモンは見た。更に、微かに“STAY”のカードの下から、何が擦れる音が聞こえたのだ。普通ならば聞き逃す音でも、狐の聴力を利用できる以上、マモンには聞こえている。
さも前に出した“STAY”のカードを選んだように見せかけて、本当は手前の“DOWN”という仕掛けなのだろう。さっきの音は、カードの下にある何かと、テーブルが擦れる音。そうマモンは即座に判断し、カード認識のルールを利用して、自分のカードを直前に選んだ。
「これで、決まりだね」
「……ああ」
黒葉が乾いた唇を舐めた。
(ここまできて、やはりマモンが上手か……確実に勝てる保証はない)
黒葉の右手が拳銃に触れる。強硬策に出ようとしても、賭けのルールが本当ならば、お互いに危害は加えられない。
「私は、三十枚を要求するよ」
長い息を吐いて、黒葉が奥のカードの端を持ち上げる。
「三十枚だ」
お互いが、カードを表にする。
マモン――“DOWN”――
黒葉――“STAY”――
「俺の勝ちだ」
天秤が、黒葉の方に更に傾く。
現時点で、黒葉は四十五枚分勝っている。最後の組み合わせでは、マモンが勝ち越すことは不可能だ。
「俺は次で、最低額十枚を要求する。お前が三十枚を要求したところで、俺が五枚差で勝つ」
強い口調で、黒葉が宣言する。黒葉の首から、するりと狐が滑り落ちて消えた。
静かに、部屋を包んでいた暗闇が引いていく。
「…………どうして、あそこで…………“STAY”が選ばれてた……?」
マモンが絞り出すように疑問を発した。
「お前が言ったことだ……イカサマを妨害しない、って方法もある。お前が狐の魔法を、最初から俺に仕込んでいたことには途中で気付いた。だが、そうするとカードの入れ替えは通用しない。狐は夜行性だから、暗闇でも目は働くだろうし、音にも敏感だ」
七つの大罪が使う魔法武器は、大なり小なり、その動物自体の特性を受け継ぐ。ベルゼブブとの対決で、黒葉はそれに思い至っていた。
どれほどまで、狐の恩恵を受けているかは分からない。だから黒葉は、最悪の事態を考え、それに賭けた。
「お前はカードの選択がいつなのか知っているから、俺の苦し紛れのイカサマなんか通用しない」
「……イカサマを公言したら、それは負けを認めたのと一緒だよ?」
「いいや、俺はイカサマなんかしていない。“STAY”のカードの下には、何もないんだからな」
黒葉が“STAY”のカードを持ち上げて、ひらひらと振る。なんの音もせず、何も起こらない。
「だから俺は、正々堂々と勝負した。お前が宣言した通り、“DOWN”を置いていたのと同じように」
マモンがカードの認識のルールを利用して、直前までカードを選んでいないことを知っていて、敢えて黒葉は挑発的に言った。
マモンがクッションから立ち上がり、左手で天秤に触れた。全ての金貨が床に崩れ落ち、消えていく。
「――――君の勝ちだ、不死鳥」
マモンが言うと同時に、部屋中に硝子が割れるような音が響き渡る。金貨と天秤、カードなど、賭けに使用された全てが消え去り、部屋の空気が変わった。
黒葉は、賭けでよく起こることを利用しただけだ。
考え過ぎ、複雑に捉え過ぎ、裏を読み過ぎ、そこにイカサマのような余裕を持つ時の、人の油断。それを利用した。
狐の魔法というのが勘違いだったら意味のないものだったし、狐の特性である聴力の優秀さを信じた結果である。
カードを見せる、ルールをあやふやにする、会話での誘導。マモンが行った、本命のイカサマを隠すための目くらましを、黒葉もしただけだ。カード認識のルールを利用したイカサマのように見せたのも、マモンが視線をわざと逸らした時に動いたのも、全て誘導だった。
ただ一つ、狐の聴力が、カードの下の異音に気付くことに賭けたのだ。異音の正体は、テーブルの裏の金貨が擦れる音である。靴先に乗せた金貨を微弱な風魔法で浮かせ、敢えて音を立てたのだ。
黒葉はできる限りの保険として、部屋を暗くしようとしていた。狐の魔法に気付く前から、イカサマのしやすさなどを踏まえて考えていたが、それが運良く働いた。
部屋を暗くすれば、マモンは最大限アドバンテージを取ろうとする。狐の魔法を使われていなかったとしても、暗闇の中なら狐の聴力が利用できるために、後から使うだろうと予想した。
暗闇にすることで、マモンの意識を狐の魔法にのみ集中させようとしたのだ。
(って、そんなの上手くできないけどな……だから、助かったよ)
携帯を取り出し、送信済みのメールを見る。
一通は、悠に宛てたものだ。雅弓の携帯の位置に人を送るように頼んだもの。
もう一通は、月音に。もしできるなら、吸血鬼の空間魔法で建物全体を暗闇で覆って欲しいというものだ。
「俺の勝ちだ」
念を押すように、黒葉が力強く言う。
「……ああ、君の勝ち、だ」
応えるマモンの言葉は弱々しく、どこか剣呑な気配を孕んでいた。
不吉な雰囲気を感じ取り、賭けに勝って気を抜きかけていた黒葉が、パラに手を掛けて半歩下がる。
「おい……勝負後に危害を加えるのは禁止だろ?」
「そうだよ。そのルールに関しては、嘘を吐くことはできないからね」
マモンが顔を伏せがちに、一歩、黒葉の方へと歩み寄る。
未だに椅子の上で目を覚まさない陽愛と桃香を守るように、黒葉が方向を調整しつつ、マモンと一定の距離を保つ。
「私が、戦果なしで帰ると思った?」




