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0820 ~パラドックス~  作者: 加藤水城
第八章 世界変革という終止符
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第八章 世界変革という終止符(2)


  

 

 

「あーあ。……そうか、本当にようやくだけど、バレたかぁ」

 気の抜けるような調子で、九条は言う。

 しかし騙されてはいけない。目の前の男は、一〇二五人の竜也を騙しぬいた男なのだ。

「お前は……一応聞くけどよ、どうしてあんなことしたんだ?」

「君には損じゃない話だったんだけどね。まあこの際だし、言わないよ。この時間の君は無事、もうすぐ消えそうだし」

「……自分が生き残るためなのか、やっぱり?」

「あ? あー……あー、うん。それでいいや」

 自らの裏切りが発覚したというのに、九条はいつも以上に適当な空気を崩さない。敢えてなのだろうが、少しだけ頭に血が上る。

「……おい、真面目に答えろよ」

「じゃあ言うよ。本当は、『成功』した世界で全てを終わらせるつもりだった。ただし、その世界で生きていく如月竜也は『その世界』の如月竜也じゃない。『成功』させた、時間遡行した方の如月竜也―――つまり、君だ」

「じゃあお前は、俺をこの世界で生かし続けるって目的だったのか?」

「その通り。だからこの世界にこの時間の如月竜也を消してもらおうとしてるんだ。ほら、さっき話したやつさ。……君は消えると矛盾パラドックスする。なら世界は、容赦なくこの時間の如月竜也を消す。世界が判断に迷うとか言ったけど、あれは大体嘘だからね。世界は人格じゃなくて、ただの仕組みだ。迷うとかそういうのは、有り得ない」

 九条はそこで、だけど、と一息入れて、

「もう、知られたら俺達の関係性もここまでだ。いっその事、君も死んでくれれば手っ取り早いんだけどね」

「そして、お前だけ生き残るのか」

「世界に一人は必ず、如月竜也は存在しなきゃいけないからね」

「……なら俺とお前、どっちもいなくなれば、この世界の俺は帰ってくるのか」

「来るだろうけど、まず無理だね。今は騒がれないように気絶してもらってるけど、本来この時間の如月竜也の体には今、相当な痛みが走っているはずだ。存在が徐々に消える痛みがね。それに彼が耐えられるとは思えないし、君が俺をそこまでに殺せるとも思えない」

 竜也は内心、流石は十七年アドバイザーのフリをし続けただけのことはある、と思っていた。あまりにも場違いな考えだが、しかし問題点を指摘するのはとにかく九条は上手い。

 だが、指摘されたところで言うべき言葉は変わらなかった。

「……そんな言葉で、俺がやめるとか思ってるのか?」

「思っちゃいないさ。形式的に言っただけだよ。……さあ、もう面倒なことはやめてはじめようか。早くしないと、この時間の君が消えちゃうからね」

「…………ああ、そうだな。はじめるか」

 殺し合いを、と。

 言葉など使わずとも、それは両者とも理解している。

「それじゃあ、ルールを決めよう」

「…………ルール?」

「ああいや、一つだけさ。なに、俺も一応は如月竜也だからね」

 そこで九条は言葉を区切ると、

「柊 優華だけは何があっても傷をつけない。それでいいかな」

「……勿論だ」

 確かに、どの結果になろうと優華が死ぬというのだけは避けたい。ならば、ここはこういった確約をしておくのが最善だろう。

 九条と竜也は双方の眼を眼光で射抜きながらも、なるべく優華から遠ざかる。正面玄関から十三メートルほど離れると、そこで彼らは停止した。

 九条は、いつにない殺気のようなものを滲ませながらそれを言う。

 竜也も、返す形でそれに続いた。

「君とは良い友達でありたかったよ。最高の如月竜也」

「残念だが、俺としては願い下げだ。最低の如月竜也」

 瞬間、爆音が突如として鳴り響いた。

 それは、九条の手元。

 そこには、九条の軽く三倍はあるであろう長さの、灰色の剣が顕現していた。

「残念だけど、俺としてももう願い下げさ。……すまないが、」

 九条は、はっきりと告げる。

「俺の生の為に死んでくれ」

(……………………………っ!)

 聞いた瞬間に、竜也の脳内で九条との思い出が蘇った。

 どうでもいい話。

 少しイラつく仕草や言葉。

 だが、確実に竜也を正解へと導いてくれた言葉。

 それらを思い出し、少しだけ竜也は胸が痛んだ。

 この二週間で、唯一体験しなかった辛さ。痛み。

 信頼の、裏切り。

 その痛みに、以前なら飲み込まれていた。

 しかし竜也は、毅然とその言葉にも、返答をする。

「ああ、けど最初に死ぬのは俺じゃない。お前の方だよ、竜也くじょう

 そして。

 成功した者と失敗した者。

 翻弄された者と翻弄した者。

 運命に勝った者と運命に負けた者。

『時間の異能』と『時間の異能』。

 如月竜也と如月竜也の、本来ならば運命の筋書きにはなかった最後の戦いが始まる。

 どちらが勝つのか。

 それは、如月竜也にしか分からない。

 

 

 

 

 先に仕掛けたのは九条だった。

「っ!!」

 いつもの動作からは考えられないほどの瞬発力で飛び出してくると、竜也が何か反応するよりも先に、顎を目掛けて右膝蹴りを繰り出してくる。手元にあった灰色の剣は、いつのまにか霧散していた。

「―――っ、とぉ!?」

 竜也はそれを仰け反って紙一重で避けると、九条は膝蹴りの勢いを殺さずに跳躍力のみで仰け反っている竜也の体を飛び越えた。それはつまり、九条の体が一メートルと少し飛ぶぐらいのエネルギーを内包した威力が、あの膝蹴りには込められていたということだ。

(ば、九条のヤツ、運動神経良すぎだろ……っ!?)

 仰け反った姿勢を戻そうとするも、優華と交戦した際の疲労が動きを阻害する。よろけながら姿勢を戻すと、後ろを振り返ろうとして。

「なんだい、遅いにも程があるよ」

 既に体を捻り、十分な勢いに乗っていた九条の右足が鞭のようにしなる。

 それを先ほどと同じくほぼ竜也の反応が返ってくる前に放つと、今度は左脇に直撃した。

「あ、いぃ……!!!?」

 呻き声のようなものを僅かに上げ、竜也は軽く三メートルは吹っ飛んだ。確実に肋骨が折れたのが分かるぐらいの激痛が迸り、急激な吐き気が這い上がってくる。

(う、っぅうううぅ……っ!!)

 涙目になりながら、それでも吐くのを堪えて起き上がる。最早少し動くだけでも痛いのだが、形振り構ってはいられない。

 つい右手で左の脇腹を抑えたくなるのだが、右肩は脱臼したままだ。今はもう、左の腕しか使えない。

「く、そっ……!」

 確実に自分が消えると思っていたが故の乱雑な処置に、今更ながら後悔する。

 しかし、そんなことを悔やむ暇もなければ余裕もない。

 悠々とした状態で正面に立つ九条は、少しだけ呆れ顔で言ってくる。

「……おいおい、流石に脆すぎないかい? 一応は男子高校生だろ、頑張ってくれよ」

「う、……る、せえ……っ」

 九条の蹴りは、予想外にも呼吸まで乱す程の衝撃だったようだ。叫ぶように言ったつもりが、少し勢いがついたぐらいで終わってしまう。

「まあでも、好都合かもね。これならすぐに終わるだろうし」

 そういうと九条は、最初の右膝蹴りと大差ないスピードで迫ってくる。あと一秒未満の時間で次の一撃が来るのは確実だ。

 対して、竜也はあと『異能』は残り『膜』一分程度の残量しかない。時間停止はあと約〇・三秒出来ることになるが、今の体で時間を止めても九条の攻撃が来るのが遅くなるか早くなるかの違いだけだろう。校舎に駆け込んだほうが懸命だ。

 だから、竜也は走った。

 ただし、校舎ではなく九条の方へ。

「!!」

 流石に、九条も右肩を脱臼し脇腹を痛めた体で向かってくるとは思わなかったようで、表情が僅かに驚きへと傾いていた。

「なら……っ!」

 九条は膝蹴りを再びしようと思っていたらしいが、それよりも頭部にダメージを与えることを優先したようだ。一瞬で、九条の右の拳が灰色の『膜』に覆われる。

 それを、既に十分に射程距離内へ入っていた竜也の頭部へと振り下ろした。明らかに常人離れした拳の速度だったが、竜也の動体視力は必死に食い下がる。

(狙いは、頭か!!)

 一瞬で判断を決めた竜也は、自分の頭部のみに『膜』を張った。

直後、竜也の前頭葉を覆う頭蓋骨目掛けて拳が直撃するも、『膜』同士の相殺効果で瞬時に離れあう。

その反発は結構な威力だったようで、九条の右腕が大きく横へと逸れる程だった。

 そして、その反応を竜也は待っていたのだ。

 竜也は現在、決定打となる直接打撃が出来る部位は左腕だけだ。足を使おうとしても、右肩の脱臼の影響かどうしてもバランスが崩れてしまうのである。

 左腕での攻撃。それを真正面から成功させるには、九条の右側の胴体をがら空きにするしかない。その為には、『膜』同士での反発作用が最適だと踏んだのだ。

 竜也は左腕の僅かな指先にのみ『膜』を展開すると、そのまま倒れこむように九条の左胴体へと手刀もどきを突き出す。

 もどきだろうがなんだろうが、『膜』が到達すればあとは肉が裂けるのみだ。

 全体重をかけた竜也の左手刀が、風を切って九条の胴体へ減り込む。

 それは確かに服を裂き、肉を抉り、骨まで到達し、更には臓器にまで達した。

「あ、がぁは……っ!!?」

 手刀を突き立てた箇所から、徐々に血の染みが広がっていく。白衣は、その純白をどんどんと穢されていく。

 予想外の反撃に、九条も目を丸くしながら痛みに耐えているようだ。竜也は手を引き抜くと、よろめきながら後ろへと五歩下がる。

 切れ切れの息で呼吸をしながら、竜也は九条へ向けて言う。

「……どうだ。これで、お前も…………終わりだろ」

「…………く、ぅ…………これ、は……マズイ、ね…………」

 九条は、指された胴を右腕で抑え付けながら呻き声を上げた。

「その出血じゃあ、素人の俺でも分かる。お前、もうすぐ死ぬぞ」

「……は、はは…………じ、自分に殺されるなんて………最高の、ブラックジョークだ……」

「冗談言ってる余裕、あんのかよ」

 しかし、竜也は心のどこかで願っていたのかもしれない。

 満身創痍の自分をこれ以上戦わせるのは、勘弁してくれと。もう終われと。

 そう思っていたからこそ、それが油断に繋がったのだろう。

 九条は、口元を大きく歪める。

「ふ、ふう…………なら、よかったじゃないか」

「……何がだよ」

「自分に殺されるなんて、最高のブラックジョークだろう?」

「だから何が―――――って、…………!?」

 そこで、竜也は見た。

 いや、見たという訳ではない。事実を確認しただけだ。結果を目撃したのみだ。

 しかし、現にそれは起こった。

 九条の、血に滲んでいた傷が――ない。

 いや、傷どころではない。白衣に染みていた血液さえ、全てが消えている。

 それはまるで……竜也に『刺された』ということさえ、なかったことになったような。

 唯一あるのは、刺されて破けた服の穴のみだ。

「お、まえ…………それ、どうやって…………!?」

「俺は、この『異能』と十七年の付き合いだ。肉体の時間を『巻き戻し』て、怪我をなくすなんてことは簡単に出来る。まあ、ある本の受け売りだけどね」

 竜也の目の前に同等の存在として立っていた九条が、どんどん大きくなって見える。

 幻覚なのは分かるが、恐怖は止められない。察しが良い竜也だからこそ、恐怖する。

 今の九条の発言はつまり、こういうことになる。

 いくら決定打を与えようと、九条の肉体の状態はいくらでも『巻き戻る』。

 つまり、ほとんど不死身に近い。

 一気に奈落の淵に落とされた気分だった。

 だが、それで諦めるのは早い。というか早い段階から、竜也は次の作戦を練っていた。

 あくまでも、驚愕は本音半分演技半分といったところだ。驚きの声を上げているうちに、九条の『仝』を僅かながらに吸収して『異能』を補充していたのである。

 だから敢えて、竜也は達観したような表情をすると、

「…………九条。お前、気付いてないのか?」

「っ、」

 一瞬。本当に一瞬だが、九条はそこから身を引いた。九条も元々は、というか本当は如月竜也だ。増岡の時のように、あの手この手で騙しを使ったりすることもあったのだろう。もしなくても、過去の一〇二六人の竜也を見ていれば、間違いなくそういった策を見ている筈だ。

 だからこその、ブラフ。

 一瞬でも警戒して身を引けば、それで良い。

(……伸ばせっっ!!)

 頭の中で強く念じると、足元に一本の円柱が生じた。藤木と戦った時に使った、突然の高所からの奇襲などで役立つ『時間の柱』と言ったところか。正直な話、まだ同じ目線で話せる暴走が多かったので使用しなかったのだが、今この時は大いに役に立つ。

 竜也の体が柱に押し上げられ、一気に校舎の三階ぐらいの高度へと上がった。そこから体の震えを無視して柱を蹴り、顔を左腕一本で庇いながら校舎の窓ガラスへ飛び込む。本当は『膜』でガードしたかったが、柱で全てを消費してしまったのだ。

「うおぉ、おおおお!?」

 そして次の瞬間、物凄い激痛が左腕全てを覆い尽くした。

 窓ガラスが砕け散り、派手な音を立てながら竜也は三階の廊下へ転がり込む。しかし、やはり片腕がぶら下がったままというのはバランス的に問題があるようで、着地する寸前でみっともなく転んでしまった。派手に顔面をぶつける。窓付近の装飾をした生徒には申し訳ないが、この際は多少の破壊には目を瞑ってもらおう。

 それよりも、痛みだ。ハリウッド映画のようにスマートにはいかず、ガラスの破片で左腕の皮がズタズタに引き裂かれている。出血が思ったよりも酷く、正直な感想を言えば今すぐ逃げ出したいくらいだった。それに、着地失敗での顔面殴打で鼻血も出ている。

「くそ……クソッ、クソッ、畜生!!」

 叫びながらも、竜也は壁に背を預けながら這うように起き上がる。

 どうしてこんなことをしなければならない、という疑問がよぎる。そもそも、この戦いはこの時間の竜也が消えるのを防ぐための戦いであって、竜也が勝っても負けても消えるのは同じなのだ。

 何度も葛藤したことだったが、ここまで極限の痛みに追い詰められると、やはり揺らいで来てしまう。

 ただし、その疑問を唯一吹き飛ばす保留がある。

 その保留の名は、勝利。

(……そうだ。まずは九条に勝たないと、どっちにしろ俺もこの時間の俺も、消える……)

 いや、違う。

『勝つ』や『負ける』などといったお茶を濁す表現では駄目だ。

ここで竜也は九条を、

(……あいつを、殺さないといけないんだ。今、ここで!)

 これ以上は肉体に活を入れるとそれが決定打で竜也が倒れる可能性もあるので、心中の決意に留めておくことにした。

 竜也は壁伝いに歩きながら、考えを纏めていく。

(まず、あいつにはいくら殴ろうと蹴ろうと無駄だ。いくらでも『巻き戻し』しそうだし、それに……)

 竜也は僅かに開かれた、左の手の平を見る。

(それに、あいつの『仝』の量……吸収して分かったけど半端じゃない。多分だけど、俺とは別の何か『仝』の補給する手段を持ってる筈だ……)

 おそらくは、その膨大な『仝』を用いて常時旧体育館の床を押し上げていたのだろう。床のすぐ下に『膜』でも張っていれば、竜也が何回か落とされた落とし穴現象も納得できる節がある。竜也の足元のみの『膜』を解除すれば、その床のみが落ちて落とし穴のようになるのは想像に難くない。

 と、そこで竜也は思考が脱線しているのに気付いた。

(……九条を確実に殺す方法は、二つ。地道に『異能』を使わせて使い切った状態にさせれば、あくまで『異能』の特性である『仝の補給』は行えない……あとは、一つ)

 そして、その一つこそ。

 竜也は今から、どうにかして実践しようとしていることだ。

(圧倒的質量か攻撃力で、九条を一気に押し潰すか気絶させる……要は、九条の意識を途切れさせれば俺の勝ちだ)

 その為には、まず。

(…………あそこ、だな)

 竜也は踏み出す。

 勝利へと近づく為の道を、一歩ずつ。

 

 

 

 

 九条は、校舎の三階の窓ガラスが派手に砕け散る音に顔を顰めた。

「……うるさいな」

 だが、すぐにいつもの真顔とも言えない微妙な笑みに表情を戻すと、彼は割れた窓を見つめる。

 あそこへ飛び込んで、まだ床でのた打ち回っているであろう竜也を殺すのは簡単だ。そちらの方が手っ取り早いだろうし、あの調子だと『膜』も張れていないようなのでダメージを受けた今が攻撃するのは最適だろう。

 だが、九条はそんなに甘いことはしない。

 あくまでも九条からしてみれば、既に当初の目標は達成出来なくなってしまった。ものの数分間で、二週間分とは思えないぐらいの絆は全て断ち切られた。そして、殺す対象の竜也は校舎へ逃走をしている真っ最中だ。

 ならば、やることは決まっている。

「まずは、この時間の『俺』から殺すか」

 そう言って、そこにまだ消えずに気絶しているであろうこの時間の竜也の方へ歩みを進める。九条は元々この竜也は殺す予定であった為、特に感慨もなく足は進む。

 足が何か肉質のあるものに阻まれ、そこで九条は立ち止まった。ここで、透明になるほど存在が薄れているこの時間の竜也が横倒しになって気絶している筈だ。ならば、あとはこの足に『膜』を展開し蹴りを放ってもいい。ただ単に『槍』や『柱』で貫いてもいいし、単純な圧死や窒息死だって今の状況なら可能だ。

 しかし、九条はそこで安易に蹴りを放ったりはしなかった。自分の手に『膜』を纏わせ、先ほど竜也が九条へ突き出した手刀のような形にする。

「君の死因は、『鋭利な刃物による切断』で決定した」

 ドラマでよく見るような台詞を口にしながら、九条はそっとしゃがむ。

 足の感触で分かったが、こちらが上半身だろう。

「なんの事情も知らさずに、悪いとは思っているさ。……じゃあね」

 九条は手を振り上げると、その手を丁度首の辺りの位置へと振り下ろした。

 風を切る音が響き渡り、地面に亀裂が入る。

 しかし。

 肉を断つ音は、聞こえてこない。

 九条は、思い切り地面に振り放った手をそっと戻しながら呟く。

「…………やっぱり、この程度じゃあ騙されないか。いや、そもそもこっちの様子なんて伺ってないのかね」

 九条は校舎の窓を眺める。

 亀裂が入ったその窓からは、既に人の気配は感じられなかった。

 ちなみに言ってしまえば、今の九条にこの時間の竜也を殺すことは事実上不可能だ。

 何故なら、ここでこの時間の竜也を殺した瞬間、この時間の竜也はこの世界で死亡した存在として永遠に固定されてしまうからである。そうなれば、九条が『如月竜也』としてこの世界に残ることは出来ない。あくまでも存在自体を消すために、この時間の竜也は気絶させてあるのだ。

「…………しょうがない、俺も校舎に行くかな」

 誰に向けたわけでもないその言葉を放った瞬間、九条の身体は空中へ押し上げられた。竜也が飛び込んだ窓ガラスと同じ、三階部分の高さだ。安定性の悪い竜也の『柱』とは違い、九条は足元を『膜』で覆い地面にも『膜』を展開、その相殺作用で空中へ飛んだのだ。通常の作用のみならば有り得ない現象だが、九条の脚力をもってすればいとも容易い行為と言えるぐらいである。

 空中に飛び立った九条は、そのまま自分の体を動かすことはしない。ものの数瞬後に自由落下が始まるのは目に見えているのに、それを阻止しようともしなかった。

 そして、九条の身体は突如として超加速した。

 加速、という表現が正しいかも分からない。空中で一瞬だけ静止していた九条の体が、突然前へと……言うなれば『ズレた』のだ。スライドとでも表現するべきだろうか。前へと平行移動し、割れた窓ガラスを見事に潜り抜けると廊下へ着地した。

 その体勢から一瞬で振り返ると、床に散乱しているものが目に入った。砕け散ったガラス片だ。九条は目を細めながらしゃがみ、それに触れると、

「……あーあー、散らかしたら片付けないと。まあ面倒だから、」

 触れたガラス片は、僅かに、ほんの少しだけだが……浮いたように見えた。

「『戻す』けどね」

 次の瞬間、九条が触れたガラス片とその周囲のガラス片が、不自然な発光をした。白とも銀とも言えない、灰色としか表現できない色の発光だ。

 その発光したガラス片は、我先にと元あった窓ガラスの枠の中へと戻っていく。

 数秒後には、竜也の突撃で砕けた筈の窓ガラスは綺麗に復元……『巻き戻され』ていた。

 すっきりしたような表情を浮かべ、九条はそこから廊下の左右を順に見る。どちらへ進もうか、と悩んでいるのだろう。

 しかし、そこで九条はあるものを見つけた。

 それは、

「……んー、鉄の臭いだ」

 竜也が道標のように落としていった、血痕だ。

 暗く、先が見えない廊下を点々としている血痕。確かに、窓ガラスに突撃すれば皮膚はズタズタに引き裂かれるだろう。これほどの出血があっても不自然ではない。

 廊下の闇のその先まで続くその血の臭いは、暗い校舎ということも相まって途轍もない不穏な空気を醸し出していた。

 そんな闇の先へと、九条は迷わず進んでいく。

(喜びなよ。君のその幼稚な策に、引っ掛かってあげるからさ)

 最早、その瞳はいつもの九条のそれではなかった。

 それは、九条と出会った当初の竜也のような―――。

 

 

 

 

 竜也は、満身創痍と言っても足りないぐらいの疲労と負傷を負った体に鞭を打ち、なんとか目指すべき場所へと辿り着いていた。この頃九条は正面玄関前でこの時間の竜也に手刀を振り下ろしたりしていたのだが、そんなこと知る由も見る余裕もない。

 竜也は、辿り着いたその部屋の中……更に鍵がかけてあるドアの取っ手に、部屋の隅に置いてあった消化器を叩き付ける。左腕一本での作業だからか叩き付けた衝撃が振動となって左腕を痺れさせるが、それを無視してでも早くこの作業を終わらせる必要がある。何より、この叩き付ける音は結構うるさい。九条に聞かれるどころか、最悪近所の住人に聞かれて通報でもされると面倒なことになるのは目に見えているのだ。

 そして、その作業を二十回ぐらい繰り返したところで、

「……っしゃあ!」

 ドアの取っ手がボロリと取れ、更に都合よく鍵が開いた。何だか上手く行き過ぎて怖くなるのだが、正直なところここで手間取っていると九条に対抗なんて出来る気がしない。

 素早く、というかほとんど倒れこむようにドアの中へ入るとすぐにドアを閉めて、更に近くにあった重そうなものを手当たり次第にドアの目の前へと置いていく。『時間の異能』の前では気休めでしかないが、少しでもこの場所が発覚するのを遅らせれば問題はない。

 竜也は今、食堂の厨房に半ば篭城をしていた。

 普段、生徒からの注文を受ける場所はシャッターで閉鎖されており、残る出入り口は校舎の外に繋がる搬入口とスタッフ(購買のおばちゃんと呼んだ方が良いのだろうか)用の出入り口のみだ。搬入口も注文を受ける場所のようにシャッターが下ろされており、残るは一階廊下から繋がるスタッフ用の出入り口。その取っ手を竜也は破壊していたのである。

 彼は、大きなオーブンのようなものに背中を預けると、そのままずるずると座り込む。

「ぐ、うぅう……!!」

 正直なところ、既に立っていられることが不思議なぐらいの気分だった。物理的にもだが、精神的にもまだ九条に立ち向かおうとしていることが不思議でならない。

 今だって、ただ座るだけで折られた肋骨が悲鳴を上げる。九条を引き寄せる為に撒いた血も、決して意図してやった訳ではない。結果的に竜也は血を撒こうと思っただけで、そう思わなかろうと血は確実に辺りに撒き散らされるぐらいの量が左腕から出ていた。

(……マンガとかだと、肋骨って結構折れても大丈夫そうなんだけどな……それに、腕の傷も……)

既に塞がっている小さな傷もあれば、未だにどくどくと血を流し続ける大きな抉られた傷もある。それに今気付いたが、ガラス片は竜也の顔も傷つけていたようだ。眼球が妙に痛いと思ったら、額の右上辺りから流れている血が右目に血を流している。頬にも無数の傷があるようで、今なら力んだだけでちょっとしたスプラッタ劇場でも撮れそうだ。

 竜也は自分の制服の袖で眼を拭うと、少しだけ右肩に視線を向けた。

 厳密に言えば竜也は、『異能』を使い切った訳ではない。九条が今、もしここに来ても、少しは対抗出来る術がある。

「……でも、これ取ると…………やっぱ右肩痛いしなぁ」

 脱臼した右肩に使っている『異能』を解除すれば、それだけで少しだけ『異能』を補充できる。何より、竜也は時間経過による『時間の異能』の回復の為にこうやって篭城をしているのだ。少しでも多く使用可能にしておいた方が良い。

 試しに解除をしてみる。すると、

「…………あれ?」

 痛みが、消えていた。

 完治した訳ではない。今も、右肩が外れた右腕は不自然にぶらんと垂れている。

 しかし、完全に痛みはなくなっていた。

(時間を停止しすぎて、肩がその状態に馴染んだのか? それとも、普通に慣れただけなのか……?)

 ともかく、脱臼のことについて『異能』の消費の必要は無くなった。

 ならばやることは一つ。九条がここへ来るまで、ここで『異能』の回復に努めることのみだ。

 

 

「んー、ドアノブが外れてるね……ここにいるかな」

 

 

 直後、数メートル先のドアの向こうから……九条の声が響いてきた。

 トントン、と軽いノックのようなものを外側からしているようで、なんとも癇に障るリズムを刻んでいる。

「来たか……!」

 聞こえないようなボリュームで言いながら、竜也はギリリと歯噛みした。未だにほぼ回復が出来ていない状態なのに、来るのが早すぎる。

 だが、脱臼を気にしなくてよくなったおかげで、ほんの少しの『異能』なら発動出来るようになった。

 ならば。

(……九条がこのドアを突破する前に、『異能』の特性であいつの『仝』を最大限に吸収してやる……。それが、今出来る最善だ!)

 竜也は、一応ドアが開かれても一発で姿を見られないように厨房にある大きな冷蔵庫の裏に隠れながら、ドアの向こう側にいるであろう九条をイメージした。

 そこから、その体にあるエネルギーを……吸収する。

 そのイメージが固まった瞬間、竜也の体内に普通の吸収ならば有り得ない程のスピードで『仝』が吸収され始めた。確認する余裕もなかったが、やはり先ほどの九条の『仝』が圧倒的に多いという仮説は間違っていないようだ。

(なら……いっその事、全部満タンぐらいにまでいけるか?)

 欲張って考えてみたものの、やはり早いと言っても吸収できる『仝』には限りがあるようだ。未だに、『膜』を三分展開するのがやっとなぐらいの『仝』しか吸収出来ていない。

 そうしている間に、ドアの向こう側では変化があった。

「あー、君さぁ。結構色んなこと知ってるよね。いや、ネタをっていう意味で」

 そんなどうでも良い言葉の後に、九条はこう続ける。

「黄金の回転とか知ってるんならさぁ……神砂嵐も知ってるでしょ?」

 冗談みたいな言葉と共に。

 

 

 爆音が轟いた。

 厨房へ通じるドアが……手前に置いてあった鍋なども纏めて吹き飛ばされる。

 

 

 もはや暴風のようなその衝撃波は、回復していた竜也に呻き声を上げさせるのは十分なほどだった。

 いや、それどころではない。あまりにも強い風圧で、壁に叩きつけられてしまう。

「あ、ぃいいっ、あああああぁぁぁああああっっっ!!?」

 その衝撃によって折れた肋骨が強烈な痛みを発し、思わず狂気じみた声を上げてしまった。死ぬ、殺されると頭の中が自身に対する警告で一杯になる。

「ぐ、ぅ……なに、が………?」

 冷蔵庫を背に歯を食いしばりながら立ち上がると、そこには確かに九条が立っていた。

 ただし。

「おいおい…………マジかよ、九条。それじゃあ本当に……ワムウみたいになってんぞ」

 その片腕から、竜巻のようなものを発生させている。

 気の抜けるような返事を返しながら、内心竜也は焦りを感じていた。

正直な感想を言えば、どうやったのか見当もつかない。ただ、圧倒されている。

 そんな九条は、いかにも当然というような表情で竜也を見る。

「やあ。一応、君が残した血痕を辿ってみたけれど……何か、罠でもあるのかな?」

「…………さあな」

 言いながら、竜也は九条の片腕の竜巻が消えて霧散するのを目撃した。それを注意深く観察すると、そのメカニズムがだんだんと理解できていく。

(……なるほどな。まあ、すぐ真似出来そうにわねぇけど)

 九条がやったことは、解説してしまえば簡単だ。

 まず、自分の片腕に『膜』を張る。そして、『膜』を張った腕に更に二周りぐらい大きいクラッカーの筒のような『膜』を出現させたのだ。あくまでも『膜』なので、本当のクラッカーの筒のように先端は大きな空洞となっている。そして、手首に進むにつれ小さくなっていくクラッカー状の『膜』の空洞の中に、本当に細い『膜』……『時間の線』とでも言うべきものを螺旋状に生み出し、そこで固定する。要は、中が空洞のドリルが逆向きに突き刺さっているとでも思えば良い。

 そうすれば、その空洞に入ってきた空気はすぐさまクラッカー状の『膜』を避けて違う流れになる。しかし、その流れを阻害するように螺旋状の『線』が固定されており、それを避ける為に空気は更に別の流れになる。すると次は別の『膜』を避け……ということを繰り返し、結果的に螺旋状の空気の流れを生み出しているのだ。

 それが、あの竜巻の正体。

「『時間の螺旋』、ってところかな。緑色じゃないのが残念だけどね」

「誰も天元突破しねぇよ、馬鹿」

 それだけ言うと、九条はすぐさま右腕に『時間の螺旋』を出現させた。視界に入っていないはずの腕にすぐさま生み出せるというのは、並大抵のことではない。本当に、長い時間をかけて編み出した技術なのだろう。

 今度は、竜也目掛けて一直線に竜巻が向かってくる。あれを生身で喰らえば、腕が千切れ足が裂かれるのは明白。避ける以外の行動は無意味だ。

 だから竜也は、敢えて目の前に『障壁』を作った。

「!!」

『膜』を張って一瞬で避ければ済むものを、わざわざ消費の大きい『障壁』を展開したのだ。九条は困惑した顔で、

「……わからないね。ここで君が全身に『膜』を張って向かってくるならまだ理解出来る。けど、その障壁にはなんら意味がないんじゃないのかい?」

 確かにその通りだ。九条と竜也の『仝』の量の差からして、この竜巻が止まるのと展開した『障壁』が消えることのどちらが先かという疑問は既に愚問となっている。子供でも分かる問題だ。

 しかし。

「……いいや。違うぜ、九条」

 竜也は、むしろそれで笑みを浮かべる。

 ちなみに、竜也が展開した『障壁』は少しだけ形が歪んでいた。あくまでほんの少しだけだが、竜也の方へ飛び出る形の半球形となっていたのだ。

 それに台風の如き暴風が直撃し、風を『障壁』が防いでいる。

 当然の如く、それにより辺りへ放たれる余波の風は相当な勢いだ。

 そう、例えば。

「たかだが増築した『だけ』の校舎の厨房だ。……ガス管なんて、とっくの昔にボロボロなんだよ」

「ッ!!」

 その言葉を聞いた瞬間、九条の顔が強張った。同時に、『時間の螺旋』による竜巻も一瞬だけ止む。

 そして、その一瞬に竜也は言葉を挟んだ。

「ストップだ、九条! お前がこれ以上竜巻を起こせば、その風に乗ったガスでこの部屋はあっという間に爆弾になる。校舎の一階が爆発なんてなったら……とんでもないことになるのは分かるだろ?」

 展開していた『障壁』を解除しながら、竜也は九条に語りかける。

「…………ガスの臭いは、しないけどね」

 あくまでも無表情で言う九条の言葉は、しかし僅かに動揺の色を見せていた。

「当たり前だ。俺がガス管に『膜』を張っているからな」

 その瞬間、九条は右腕を再びこちらを向ける。が、それを竜也は冷静に制した。

「俺が『膜』を張ったのは、お前の竜巻でガス管に傷がついた直後だ。だから正直なところを言えば、ガスが漏れているかどうかは分からない。……けどな」

 竜也は言いながらポケットを漁った。そこから取り出したのは、一つのライターだ。ここへ来る最中、途中にあった実験室から拝借したものである。

「お前が次に攻撃をしてきたら、俺は『膜』を解除してライターを点火する。……さあ、どうする? 単純に考えれば二分の一だ。二分の一の確率での死因を爆死にしたくないなら、今すぐここで自殺しろ。それとも、ガス漏れが起きていないことに賭けるか?」

「…………っ、」

 竜也の勢いで言った言葉に本気の意思を感じたのか、僅かながらに九条はたじろぐ。

 そして、顔中に脂汗を浮かせると……やがて、一歩だけ後ろに下がった。

 九条の後ずさり。それは竜也だからこそ、見逃さなかったのかもしれない。

(――――――今だッ!!!)

 竜也は自分の足元に斜めの『柱』を出現させ、弾丸のようなスピードでその『柱』を伸ばしていく。当然、足元に出現した『柱』がそんなスピードで伸びれば竜也の体も高速で空中を移動することになる。流石の九条もこれには反応できなかったようで、前へ突き出していた左腕が九条の胴体を捉えた。

 そのまま押し出すように、九条をドアの外―――飲食用の部屋へと突き出す。

「く、は、放せぇっ……!!」

 九条の呻きを聞きながら、竜也はキッと表情を引き締めた。

(このまま…………壁に、叩きつける! 今、ここで決めなきゃもうチャンスはない!!)

竜也はついさっき優華の音速暴走を体験したがために、相当なスピードにも動体視力はついていけるように順応している。だが、九条は先ほどから長年の経験による技術と運動神経に頼るのみだ。これなら、高速の決着に持ち込んだ方が有利になるのは明白。

風を切る音が鼓膜を叩き、目前に飲食スペースの壁が迫る。

「うぅおおおうぅああああああああああっっっ!!!!」

 竜也は雄叫びを上げながら、もがく九条を必死に抑え付けた。

 もう限界だと思いながらも、本当に壁が目の前に迫ったその瞬間。

 それは、九条の最後の足掻きだったのかもしれない。

「ま、ずっ!?」

 九条の全身に『膜』が張られ、竜也の腕が弾かれたのだ。

 だが。

 九条は、驚愕の絶叫を上げる。

「う、うおおぉぉぉぉぉ!?」

 全身に『膜』を張ろうと何だろうと、九条の壁への飛来は止まらない。

 当然だ。

 竜也から受け取った運動量のエネルギーは、既に全て九条へと注がれている。それに加え、『膜』というのは唯一――圧力には、とことんなまでに弱いのだ。

 そして、直後。

 高速の運動エネルギーを受け取った九条が、飲食用スペースの壁に激突した。

 鈍い、それでいて大きな音が響き渡る。

 壁に激突した九条は、やがて壁から崩れ落ちるように床へ倒れこむ。

「はぁ…………はぁ……………やった、のか…………?」

 九条の『膜』によって弾かれた衝撃で床へ落下していた竜也は、それを見てしばらく息を整えてから呟いた。肋骨の痛みが増しているのか刺すような痛みが胸を襲ったが、特に気にはしない。

 竜也は立ち上がると、九条の方へ一歩近づく。

 大仰なことに、九条が激突した周囲には衝撃で粉塵すら巻き起こっていた。これで校舎が壊れないのが不思議なくらいだ。

 その煙が晴れる。粉塵のカーテンが、消滅する。

 そこには九条が、

 

 

 

 

 

 

 ブチュッ、という音が聞こえた。

 それは、

「ぇ、あ?」

 竜也の視界が片方、消えた音。

 

 

 右目が一気に、潰された音だ。

「いぃぃぃぃぃぃぃいいあぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああっっ!!?」

 

 

 

 

 

 

 ない。

 視界が片方、ない。

 もう九条を確認する余裕なんてない。

「いぅぅぁぁがぁああああああ!!!!」

 赤黒い、何かが右の目蓋から零れ落ちている。

 竜也は思わず左手で右目を覆うようにすると、その場に蹲る。

 すると、突然の飛来物によって竜也の顔面が仰け反る。額に直撃したそれは、よく観察すれば靴底のように見えたかもしれない。

「う、いっ……てぇぇえええっ!!」

 蹴り飛ばされた衝撃で、右目を覆っていた左手の親指が少しだけ右目を抉るように進んでしまったのだ。既に眼球はなかったが、今までの痛みなどどうでもよくなるぐらいの激痛が、猛烈に喰らいついてくる。

(また『巻き戻り』かよ!?)

 慌てて姿勢を立て直すと、一歩、二歩と後ろに下がる。

 そして、左目だけで目の前を見据えた。

 そこには予想通り―――無傷と言って良い状態の九条が、軽々と立っている。

「やーやー、流石に粉塵はやりすぎたかなーって思ったけどさ。案外騙せちゃうもんだねぇ、やっぱり。つか、あれ? 脳まで行ってなかったか、『時間の槍』は。惜しい惜しい」

 どうやら九条は、『時間の槍』を右目ごと脳を刺し貫く形で出現させていたらしい。

 それに口ぶりから察するに、どうやら先ほどの攻撃も全て『敢えて受けた』ような感じだ。確かに最初の時に罠でもあるかと言っていたが、そこから全て予想しての計算だったのだろうか。

 だとしたら。

 目の前の男は……如月竜也以上の、如月竜也。策士の上の、策士。

 最早、それは策士ですらない。予測、預言者の域に達してしまっている。

 竜也は、身体中に張り付くように浮き出てくる汗の感触に不快感を覚えながらも、目の前の男から目が離せなかった。釘付け、というよりも、少しでも目を離したら殺されるという意味でだ。

 九条は、少しだけ竜也の右半身を舐めるように見ると、

「……うーん、その脱臼は対して痛くなくなってるのかな? まあ、時間経過と共に痛みってのは薄れるしね」

「くっ……ぅうううぅっ!!」

 竜也は、そこで九条に何かを言い返すだとか攻撃をするとか、そういったことはしなかった。今戦っても、自分が無惨なる惨殺死体になって終わりだ。ならば、ここでとるべき選択は。

(――――これしか、無い)

 そして竜也は、膝を床につけた。

 自らの意思で、その場へと崩れ落ちる。

 体を折り畳み頭を垂れ、その額に両手を当てるその姿勢は。

「ゆ、る」

 俗に言う、土下座。

「ゆるじで、ぐださい」

 あまりにも情けない声が、竜也の喉から放たれた。

 

 

 


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