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0820 ~パラドックス~  作者: 加藤水城
第五章 青木詩音という後輩女
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第五章 青木詩音という後輩女(4)


 

 青木詩音は、ハッと意識を覚醒させた。

 どうやら自動ドアのガラスを砕き、辺りの樹木に衝突しながら前に入院していた病棟へ強制的に飛んで行く途中、気を失ってしまったらしい。

 いつのまにかそこは、ある病室の壁際だった。

(…………あ、れ?)

 壁際。視点は確かに壁際だ。しかし、足元の感触がない。というか、下半身の感覚が殆ど消えている。

 視点を、下に下げてみた。

 そこで眼に写ったのは。

 床。

 足は、なかった。

(え?)

 よく状況が把握出来ない。

 何か、鏡のようなものがないか探す。

 横を向くと、何故か溶けかかっている窓ガラスが目に入った。ギリギリ溶けていない部分に映った、己の姿を何とか凝視する。

 そこに映った自分は、

両腕と腰から下が、壁に埋もれていた。

「……き、」

(いやぁぁぁぁぁぁっ!?)

 悲鳴を上げた、つもりだった。

 しかし、声が出ない。いや、高速移動の影響か、喉が乾燥し尽している。甲高い悲鳴など上げられるはずもなかった。

「……っ! ……っ! ……~~~~~っ!!」

 身を動かそうとするが、全て無駄だった。

 まず動くのは首と肩、ぐらいだ。あとの全てが埋まっている。

 取り敢えず少しずつ壁に沈むとかはないようなので、辺りの確認をする。

 病室はボロボロだった。

 ベッドは全て妙に綺麗で癖の無い糸となり、壁が先ほどの窓ガラスのように溶けている。

 異常状態は、変わっていない。

 そして、

(…………あれ?)

 何か、違和感を覚えた。

 当たり前だと思っていたことが、当たり前でない。そんな感覚。

 何が、おかしい? いや、そもそもこのおかしな現象だ。しかしそれではなく、もっと前から変だと思っていたことがおかしい、そんな状態に――――、

(そうだ、私……どうして、)

 そこまで考えて、詩音の思考は圧倒的な『何か』に塗り潰された。

 

 

 竜也と紫は、ひとまず精神科の駐車場へと出ると、隣接する総合病院の駐車場へと簡単な仕切りのネットを飛び越えて侵入した。そのまま、真正面にある総合病院の巨大な病棟を目指す。

 走りながらも竜也は、辺りの風景を確認しながら呟く。

「……酷ぇモンだな」

 そこかしこに植えてあった樹林は全て消えて、駐車場にある車は全てのパーツがバラバラになっていた。幸いなのが、ガソリンのタンクまでバラバラではなかったこと。それ以外にも、目に見えて酷い有様だ。総合病院の看板は外れているし、さっき死ぬほど見た溶けた窓ガラスや壁も、外から見えるぐらいの大穴が開いている。

 これら全ての現象は竜也の立てた仮説に沿っているので不安はあまりないのだが、しかしそれで安心という訳でもない。現に詩音と紫が巻き込まれている……どころか、嵐の渦中となっている時点で大問題なのだから。

「先輩。詩音ちゃん、どこ行きましたかね?」

「多分、あそこだ」

 紫に尋ねられ、竜也は総合病院の八階を指差した。

「ありゃ、どうして分かるんです?」

「あれを見てみろ」

 竜也は八階から下へ指をずらす。そして、総合病院の一階、その右端の窓ガラスへとその指をずらし終えた。

「あの軌道が一番酷い。壁がスライム状なのは殆どだけど、大穴まで開いてるのはあの直線上だけだ。つまり、『異能』の暴走でその効力を撒き散らしながら八階へ行った」

「……どうして壁を垂直上りしてるんです?」

「『異能』はそんなモン。昨日は俺、亡霊と会話したし」

「へ?」

 疑問符を浮かべて黙る紫をそのままにし、竜也は入口ではなく、入口の目の前にある小さな段差の階段で立ち止まった。

 その目は、あるものを捉えていた。

 大穴が開いた八階。大穴が開いたからこそ見える、その内部。

 そこでは。

 詩音の半身が、壁に埋まっていた。

「……っ!!」

 ほんの僅かに戦慄にも近い寒気を憶えた竜也に、未だに気付いていない紫は声を掛ける。

「? 先輩、早く行きましょ――」

「ショートカットする! 急いだ方が良さそうだ」

「しょ、ショートカットって、ちょ、どうするんですか?」

「こうする!」

 竜也は右手を八階へと勢い良く伸ばした。こういうのは気分も大事だが、それ以上にイメージが大事だ。本来の用途以外の応用編で『異能』を使用する時は、特に。

 竜也は頭の中で、この場から八階の大穴まで通じる階段をイメージした。

(よし――――)

「――――固まれぇっ!!」

 叫んだ瞬間、それは確かに固体となって現実に姿を現した。

 竜也が『時間の膜』を応用して作った、八階の大穴へと通じる灰色の即席階段が。

「っしゃぁ! 行くぞ!」

「すっご……いですね…………」

 呆然としている紫の二の腕を引っ張りながら、階段を駆け上がる。その間に階段作成で消費した『異能』を計算しておく。

 現在の時間停止限界時間は六秒。および『時間の膜』でのコーティングは十八分。しかしこの十八分はあくまで体表面のコーティングであって、即席の階段で少なくとも九分ぐらい消費した。更に先ほど、紫に自分の『異能』を見せる為に造った円柱で一分の消費。残り八分だけで、応用編の使用は不可能となる。そして、応用編での消費量三分は全体の時間停止の一秒に値する為、約二・六秒間しか時間停止は不可能ということになる。

「先輩」

 階段を上る途中、紫が口を開く。

「やっぱりまだ、よく事情とか飲み込めませんけど……」

 そこで一度、言葉を切ると、

「……それでも絶対、助けましょうね!」

「当然だな!」

 竜也が叫び返すと同時、二人は大穴から八階へと踏み出した。

 

 

 異変。

 そう呼称するしかない現象が、竜也と紫に襲い掛かる。

 八階へと一歩踏み出した瞬間、その足元のタイルとその下のコンクリートが溶け、竜也達を飲み込むように覆いかぶさってきたのだ。

「う、」

「ぁ、」

 二人が僅か一文字を発声する時間すら凌駕して、そのスライム状となった『それ』は迫り来る。

(ま、ず、い…………っ!)

 恐らく、本当に恐らくだが、自分はもしこのまま飲み込まれても、それは半身だけだ。軌道的に、紫の方へと明らかに偏っている。

 そこが、狙い目だ。

(『膜』を、張る――――!)

 瞬間、竜也は異常とも言える反応速度で、紫の上半身に『時間の膜』を出現させた。紫の体感時間ごと全身を止めても良かったが、『異能』の消費は抑えたい。

 ともかく、その判断は決して誤りではなかった。

 床の成れの果てである『それ』は、紫の上半身に接した時点で絶対無敵の『膜』によって弾かれ、その余波が伝わるが如く周りの『それ』を飛散した。

 異変は、消えた。

「あ、ぶなかったです、ね…………」

「…………」

「……どうかしましたか」

「いや」

 竜也は一言だけ告げると、紫の背中をいきなり押す。紫は強制的に詩音がいる病室へと入ることになるのだが、しかし。

 紫は、押されている途中、見てしまった。

 八階の廊下、そこの中で自分たちが踏み込んだのは廊下の真ん中。

 そして、それはつまり。

 両側から何かが来たら挟み撃ちにされる、ということにもなる。

 新たなる異変。

 紫は首の角度的に右の方向を見た。それはほんの一瞬だったが、すぐに理解は出来た。数秒前に襲いかかってきた、スライム状の『それ』が津波のように迫ってくる。

「ど、どうするんです!? これじゃ、」

「…………」

 竜也は少しだけ踏み込んだ病室を眺めると、すぐに視線を前へ戻す。

「ここは、スライムみたいなのが出ないっぽいな」

「へ……?」

 言われてみればその通り、この病室はあちこちが溶けたりしているものの、それが襲いかかってくることはない。

「なら――」

 どうする。

 ここに『時間の障壁』を作って病室を封じ、時間を作ることは可能だ。だが、それからどうする? ただでさえイメージを常に固定する必要がある『異能』を常時発動させながら、詩音をどうにかする?

 あまりに非現実的なプランだ。もともと現実的とも言えないが。

 それならいっその事、この場の時間を丸ごと停止して詩音を壁から引っ張り出し、紫を連れて逃げるか? それをたった二・六秒で、一人で出来るのか。

 様々な思考が頭を駆け巡り、そしてその間にも『それ』は津波となって襲い来る。

(……やれることはある。けど、どれをすれば……っ!?)

 いずれのプランにも欠点がある。

 だからこそ、分からない。

 頭が回らない。

 状況が、どう考えても好転しない。

 世界が、ことごとく竜也と違う意見を提示する。

 こんな時、例えば頭が良い峰崎とかだったらどうするだろうか。

 あっさりと決断して、何かを実行するに決まっている。

 竜也自身、ここで誰も害を被らずに済むプランぐらい浮かんでいる。簡単な話で、目の前の壁に開いた大穴まで行けるルートを『時間の壁』で確保し、今すぐ脱出する。それだけで状況はやり直せるし、いくらでも繰り返せる。

 だが、目と鼻の先に詩音がいるこの状況で引き返すというのは、竜也にとっても紫にとっても、まさに『有り得ない判断』だった。

 峰崎がいたとしたら、真っ先に否定されそうな理屈である。

(そうだ……峰崎)

竜也はそこで、昨日の夜に峰崎から聞いた言葉を思い出した。

確か、こう。

『しっかりしろ如月竜也。そんなんでへこたれてないで、もっと鈍感に生きて楽をしろ』。

(………………)

 頭の中で、そのフレーズが反響する。そして同時に、自分が行っていた思考の愚かさを思い知る。思い知りすぎて、壁に頭を打ち付けたい気分になった。

 否定的になるな。悲観的になるな。項垂れるな。へこたれるな。

 全てを自分がどうこうするなんて、傲慢だ。主人公気取るなと、九条にも言われたばかりだというのに。

 自分が馬鹿で、しょうがなく思えてくる。

(だから、俺は)

 鈍感に生きる。自分だけでは動かない。悪く言えば、楽をする。

「…………けど」

 それは、言い方を良くすれば。

 違う誰かに頼る――――ということだ。

 もう迷う必要性など、皆無に等しかった。

「紫!」

「は、はい!」

「俺が『壁』を造ってここを塞ぐ。けど俺はこれに集中しなくちゃならない!」

 と言っている間に、『それ』が到達した。

 恐怖を必死に我慢し、竜也は病室の端から端まで『壁』を出現させる。

 そこで竜也は、驚くべき発言をした。

「ぐ、ぅ…………ゆか、り! お前が詩音をどうにかしろ!」

 

 

「お前が、詩音をどうにかしろ!」

「ど、どうにかって……」

「なんでもいい。とにかくそいつを揺さ振れ! そして核心が見えてきたら、あとは自分で思ったとおりにしろ! お前、一番の親友なんだろ! そんぐらい出来るよな!」

「………………で、でも」

「頼む!」

「!」

 素直に、紫はここで驚いた。

 竜也は決して今まで、紫に何かを頼むことはしなかった。遊び半分の時は別だが、普段は絶対にせず、自分のことは自分でやっていたのに。

 今、自分は頼まれた。

 一度も頼りにされなかったのに、不満がないと言えば嘘になる。

 だが、それ以上に必死なのだ。竜也も、紫と同じく。

 答えは決まりきっていた。

「…………分かりました」

「!」

「私が、なんとかします」

 竜也はそれ以上言葉を返さず、右手でグッドサインをするだけだった。

 紫もそれ以上何かを言うことはなく、そのまま詩音へと向き直る。

「…………」

 詩音は、想像していたよりも酷い有様だった。

 上半身の肩からお腹、そして顔以外は全て壁に埋まっている。捕らえられた姫を彷彿とさせるが、しかし顔は項垂れており、こちらへ来る途中にヘアゴムが外れたのか髪も垂れ下がっている為表情が伺えない。

「……詩音ちゃん」

「……………………」

「だんまり、ですか。では、こちらからはじめます」

 紫は瞳を閉じ一呼吸すると、覚悟を決めたように口を開いた。

「まずは、一番気になるところから入りましょうか。……あなたは、この『異能』について自分で理解してるんですか?」

「…………」

 相変わらず黙ったままだ。

「竜也先輩から、仮説をお聞きしています。そしてそれは多分、正しい――――ですが、私にはどうも分かりません。それはもう、餡かけ麺の存在意義ぐらい」

「…………ふ、ふふ」

「!」

 そこで詩音は項垂れたまま、僅かに声を発した。

 それは、微笑。

「……相変わらず、だね。紫ちゃん。まだ餡かけは駄目なんだ?」

「そうですね。料理は得意なんですが」

「嘘だぁ。絶対私の方が上手いって」

「醤油ラーメンを醤油オンリーで作ろうとした人が、言える台詞じゃないですね」

「確かにそうかも」

「……詩音ちゃん。『異能』のこと、本当に知らないんですか?」

「知らないよ」

「………………そう、ですか」

 今度は、紫が項垂れる番だった。

 五秒間きっかりの沈黙の後、紫が見せた表情は、

 

 

「ふざけんじゃないですよ」

 憤怒で歪んでいた。

 

 

「へ…………………?」

「甘えたこといつまでも言ってないで、早く『異能』を止めなさい」

 それはいつもの敬語モドキではなく、命令形。

 それを聞いた詩音は、顔面を蒼白に染める。

「…………ゆ、ゆか、り、ちゃん……本当に、わからな、くて…………」

 憤怒の表情は、つまり怒りの象徴。矛先が向けられた印。

 長年の付き合いで、ただの一度も見なかった顔。

「分からないなら教えます。今、先輩が必死で私達を守ってくれています」

 横に視線を向けると、竜也は相変わらず灰色の『膜』を壁のように張って、『それ』の侵入を抑えている。

「ああいう危険な力を、あなたは無意識で暴走させています。意識的に制御してください」

「そ、そんなこと、言われても…………っ、無理だよ…………!」

「私じゃあどうにも出来ません。昔とは、違うんです」

「昔…………そ、そうだよ、また昔みたいに、たつ……先輩が何とか――」

「出来ないから困ってるんです!」

 ピシャリと言い切り、詩音は更に追い詰められる。

「いいですか、よく聞いて下さい。あなたの『異能』はとても危険なんです。特性は仮説通りなら、『周囲の全てを「復元」する』……知ってましたか? 今、この病室のすぐ外は、コンクリートとかタイルの原材料が津波みたいになってるんですよ」

「え……、と」

 つまり、あのスライム状の『それ』はコンクリートやタイルが固体となる前の状態にまで『復元』され過ぎたものだったのだ。ガラスも同様、『復元』され過ぎている。道中目にした多数の赤子も、人が片っ端から『復元』されているのだろう。

 行き過ぎた復元。

 それは、破壊に等しい。

 いや、下手をすれば破壊よりも性質が悪い。破壊はそれを復元すれば済むが、『復元』され過ぎたなんて代物は、またそこへ行き着くまでに長い時間を要する。あの赤子も、十年二十年とこれから経て、ようやく元の姿に戻るのだろう。

「あなたの甘えが力を招き、あなたの甘えが力を狂わせた。だから――私がここで、甘えの連鎖を断ち切ります。あなたは、自分に甘すぎる」

「…………っ、」

 するとそこで、詩音が言葉に詰まる。

 状況についていけない、というのもあるだろうが、何より不意打ちすぎたのだ。紫の、初めてみる怒りの形相というのが。

 どうしよう、と思っているのだろうか。

 どうして私が、と思うのだろうか。

 だが、それらの言い訳を無視してでも、理屈を通さなければならない。

 竜也は怒っているだろうか。怒っているだろう、力を制御出来ない詩音と、異変に気付けなかった親友の紫と、その二人と一番長い付き合いで何も出来なかった自分に。

 だが紫は、それ以上に怒り狂っている。そう、狂っているのだ。

 当の本人すら分からない力の制御など、土台不可能に近いというのは理性では理解している。それでも怒る理由が、ある。

 しかしそれを、詩音にぶつける前に。

詩音の口が、怪しく歪む。

「『……おいおい、普通そこまでグサグサと言うかぁ? ホントに友達かよお前』」

 へらへらとした表情へ、切り替わっていた。

「な……詩音ちゃん! ふざけて――――」

「『ねぇよ。コイツぁ真面目に、考えてる。いやまあガキだし、考えても分かんないだろうけどな』」

「……………………あなた、詩音ちゃんじゃない?」

「『ハジメマシテ、でもねぇか。よくよく考えれば、俺もお前の友達だもんな』」

「残念ですけど、知りませんよ」

「『私ぁ「復元」された青木詩音の片割れ。つーか……なんつーの、「復元」されなかった人格の残りカスというか……。ま、私もコイツの可能性の一つってことだ』」

「……詩音ちゃんが、自分を『復元』した?」

「『あれ、口滑ったか。てっきり気付いてると思ってたけどな――』」

 詩音は、詩音であってそうではないそいつは、こう口にした。

「『コイツな、無自覚だろうが昔に戻りたいらしくてよ。自分の周囲における認識を昔まで「復元」したんだ』」

「…………やっぱり、ですか」

 周囲における認識の『復元』。

 それはつまり、今の自分が昔の自分の境遇に戻り、それを誰も疑問に思わないこと。

 だからこそ紫たちは、詩音が『総合病院に昨日まで入院していた』という理に合わないことを、違和感も無く受け入れていた。

 実際のところ、詩音は精神的な面でしか病院は必要ではない。この世のどこにも、青木詩音が酷い怪我を負ったなどという事実はないのだから。それをずっと『異能』の攻撃を受け続けた為、分からなかった。

 その境遇は、かつて脱線事故に巻き込まれた際、自分も少しだけ入院した時間軸から来ているのだろう。そこにまで自分の境遇を言わば『巻き戻し』た。

「では……そうですね、青木さん、とでも呼びましょうか」

「『一向に構わないぜ。男言葉なのは気にすんな』」

「気にしてないです。……ともかく青木さん、意識的に詩音ちゃんとの人格入れ替えは出来ますか?」

「『入れ替えって……もともと私達は一つだったんだ。五感は全部共有してるし』」

「それでも、詩音ちゃんに言わないと意味がないんです」

「『そうだな……あ、悪い。やっぱ無理だ』」

「へ?」

 思わず間抜けな声を上げてしまうが、しかしそれ以上に疑問が湧いた。

「無理……『嫌だ』とか『やらない』じゃなくて、『無理』……?」

 

 

 

 

 私は精神のどん底。

 私は精神の海底。

 私は精神の地底。

 私は最悪の人間。

 私は友達を信じられない。

 私は裏切った。

 私は自分のことすら分からない。

 ――――本当に?

 紫ちゃんは最高の友達。

 紫ちゃんはいつでも優しい。

 紫ちゃんはいつもお見舞いに来てくれる。

 紫ちゃんは私のお姉さんみたい。

 紫ちゃんは絶対裏切ったりしない。

 ――――だから、本当に?

 …………分かんないよ。

 私は、悪いことをしたの? 誰かに迷惑をかけたの? 私はただ、昔に戻りたかった。

 いつまでも『竜也お兄ちゃん』や紫ちゃんと遊んでいられた、あの頃に。

 もう、私のお父さんとお母さんはいないけど。

 でも、それでも二人がいた。いつも、私が遊びたいって言えば遊んでくれた。

 だけど今は、そうじゃない。

 限定された面会時間しか会えない、『如月先輩』。彼は何となく、変わってしまった。

 だけど、紫ちゃんは。紫ちゃんだけは変わらない。いつまでも同じでいてくれる。

 昔の、優しい思い出の中の紫ちゃんは、いつも目の前にいる。

 時には面会時間を過ぎても、ターザンよろしく窓から入ってきたこともあった。

 …………でもやっぱり、昔の方が幸せだったな。

 人は、変わらないのが普通じゃないの?

 変わらないし、変えれない。だからみんな、変えようと努力してるんじゃないの?

 なのにどうして、私の周りの人は―――――。

 ―――――本当に、友達?

 私、悪い事はしてない。だけど、やっぱりそれは友達を傷つけて。

 でも、裏切られた?

 裏切られたのかな。本当にそうかな。

 これは、向こう側の理想なんだとしたら。

 私は私の、昔への憧れの理想をぶつけても、良いはずだ。

 裏切らないでよ。

 私は、変わらないんだよ。

 みんなも、変わらないでよ。裏切って、変わったりしないでよ。

 裏切られた――――。

 私は、裏切られたんだ。

 許せない、と思っちゃうよね。

 許せない。許せないよ。本当に、許せない。

 昔のままでいない親友が、許せない。

 

 

 

「「無理……『嫌だ』とか『やらない』じゃなくて、『無理』……?」

「『私は片割れっつっても、本当に微弱な残りカスなんだよ。意識的にせよ無意識的にせよ、喋る以外の肉体を操る行動はその……お前が言うところの「詩音ちゃん」に一任される。いまコイツは、お前の前に出ることを拒否……いや、恐怖している』」

「恐怖、って……」

「『ま、当然じゃないか? 長年付き合ってた仲で、唐突に激怒されても――と、』」

 そこで、『青木さん』の表情が焦ったようになる。

「『ヤベェな……お前、今すぐ離れろ!』」

「え、な、どうして!?」

「『殺されるぞ!』」

「!?」

 瞬間、紫は声を聞いた気がした。

 それは幻聴のような、微かな声。

 ―――許せない―――

(詩音ちゃんの、声……?)

 声色はそうなのだが、信じられないほど低く沈んだ声だった。

「『が……早く、逃げろ…………私も、もう、げんか―――』」

 次の瞬間というよりも、次の刹那というレベルの速度で。

『それ』が弾けた。

 詩音を今まで壁に捕らえていた、壁のコンクリートが『それ』となって弾けたのだ。

 速度がある訳ではなく、ただただ圧倒的な量があった。

『それ』は見慣れたスライム状。『それ』は圧倒的な質量で、紫の右肩へと喰いかかる。

「いっ……!?」

 意思があるのではないかというほど正確に、右肩のみに圧力がかかってきた。

「いた、ぃ……っ!!」

 右肩を抑えると、紫は一歩だけ後ずさる。右肩に圧し掛かった『それ』を払おうとしたが、『それ』はコンクリートのように瞬時に固まると、右肩の動きを封じてしまう。

「ぇ、うそ、でしょ……」

 完全に可動域を失った右肩を見て、思わず呆然としてしまう。

 これが、『異能』。

 人間の身に余る、世界に本来あるべきではない能力。

 それの暴走というのを、甘く見ていたのかもしれない。

(…………無理、ですよね……こんなの……)

 思わず弱気になった思考。それを見透かしたかのように、

「騙されんな!」

 如月竜也から、檄が飛んだ。

「それはあるようでない、ただの錯覚だ! 自分を信じて、ないと思え! 詩音を元通りにしたいんだろ!」

「……ないと、思う?」

「そうだ! それは『ない』! 思い込め、自分を騙してみろ!」

「自分を、……」

 そこで、沈黙は許されなかった。

「あぶな……!」

 次の『それ』が飛来する。

 次は左足にかかる。殆どは革靴へかかったが、多少靴下まできてしまった。だが、瞬時に固まったことで、靴下の更に下、地肌まで『それ』が到達しなかったのは幸いだろう。

「…………こぉ、のっ!!」

 左足を引きずるようにして、紫は歩を進める。

 まるで酷い怪我人だ。右肩を抑えながら、足をずるずると引きずって、一歩一歩進んでいく。

 これが錯覚? そんな訳が無かった。

 とても痛いのに。鈍痛がする。刺すような痛みが、広がるのに。

「………………………して、変わるの?」

「!」

 そこで紫は、詩音の口が微弱ながらに動いているのが分かった。

「何が、変わるんですか?」

「…………どうして、みんな変わるの?」

「……何の話ですか」

「裏切った、の――――?」

「裏切ってなんていませんよ。私は…………、」

 そこで、少しだけ考えて。

 あと三歩で肉薄という位置に来ていながら、紫は軽い笑みすら浮かべる。

 自分は、成り行きでここにいる。それは否定しない。今日、こんな偶然が重ならなければ、自分は『異能』など一生知らずに終わったのだろう。

 だが、それでも自分はここにいる。いるべくしている。運命なんてあるんなら、それに沿っているのだろうが逆らっているのだろうが構わない。ただ、自分がここにいるという事実が大事なのだから。

「私は、世話の焼ける妹のお説教に来たんです」

「妹って……緑ちゃん?」

「違います。そっちじゃなくて……あなたです。詩音ちゃん」

「…………あはは。そっかぁ、まあお姉ちゃんみたいって思うしね。でもだったら……」

 詩音は、顔を上げた。

 その顔は、涙が流れていた訳でもない。紅潮もしておらず、青ざめてもいない。ただただ、そこにあるというだけの、

 無。そう表現するしかない、生気の無い顔。

「……だったら、私のことを分かってよ」

「…………分からない、ですよ」

「だったら、私は紫ちゃんの妹じゃない」

「残念ですけど、私はあなたのお姉ちゃんであり続けますよ」

「…………ひどいよ。変わっちゃうなんて。妹の願いも聞かないで」

「……あなたはつまり、昔に戻りたいと?」

「当たり前じゃないの」

 詩音の口調に、少しだけ力が篭った。

「昔は、みんながみんなでいられた。如月先輩もちゃんと『竜也お兄ちゃん』で、紫ちゃんも、変わっちゃう前の紫ちゃんだった」

「確かに、変わる前より後の方が酷い、なんてことは山ほどあります。私だって、昔の私の鬼ごっこなんて始めたら死にますよ。疲労困憊で」

「分かってるんだ。なら、一緒に戻ろう? 昔に、良かったあの頃に。私は、もうそういう力を手に入れた。さっきの間、あいつ――『私の別の可能性』とかいうのがいたでしょ? そいつが出てる間、大体分かったの。この力のことも、全部」

「分かってる上で、更に戻ろうとしてるんですか……。……言った筈です。私は、今からあなたの甘えの連鎖を断ち切ります」

「甘えじゃないよ。願い」

「同じです。それを無理矢理叶えようとすれば、それは駄々を捏ねる赤ん坊と同じ―――それに、知ってました? その『変わる』ことを、世間では『成長』って呼ぶんですよ」

「………………」

「『成長』は、大抵の場合認知出来ません。自分が知らないうちに変わって、知らないうちに大人に近づいていくんですよ。それを巻き戻したところで、一生幸せなんて来ません」

「……成長なんて、心だけすればいいよ。自分は楽なところに身を置こうよ……一緒に、自由気ままに生きていけば良いよ…………」

「それに」

 まさしく断ち切るように、紫は詩音の言葉を遮った。

「そんな強制的な気楽さ、願い下げです」

「……………………………もう、いいよ」

 直後だった。

 轟音が鳴り響き、詩音の目の前に『それ』が降り注いだ。

 今度は先ほどの弾けるそれとは違う、容赦のない攻撃。当たればその部位が砕かれることは目に見えているような、凶悪なる嵐。

 直撃すれば、即死。しかしあの距離ならば、直撃は免れない。

 豪雨のように、まさしく降ってくる『それ』は十秒ほど続いた。

 結果は、日を見るより明らか。

 

 

 紫は、不動のまま立っていた。

 

 

「え…………っ!??」

 予想外の出来事に、困惑を隠せない。動揺、焦り、これからどうするか、様々な要因が頭の中で疾走しては激突する。

 対して、紫の態度は落ち着いていた。

「……これが現実です」

「ッ!?」

「あなたは結局、器じゃなかったんですよ。人を助ける器でも、人を殺める器でも、悲劇のヒロインになる器でもなかった」

「……やめ、て…………」

「あなたは結局、親友一人殺せないお人好しです。それは一生、変わりません」

「………………………やめてよ……っ!」

 思わず詩音は右腕を振るうと、『それ』を矢のようにして飛び掛らせた。

 しかしそれは、紫の皮膚スレスレでルートを変え、次第に霧散していく。

「な……んで…………なんで、どうして当たらないの!?」

「あなただって変わるんですよ。昔は『ただの』親友止まりでしたが……」

 紫は、ここへ来てやっと薄く笑みを浮かべた。

「……今はもう、『あなたの』お姉ちゃんです。家族を、殺せるはずないでしょう?」

「私の、私の家族はっ! もういないんだよ! 電車で潰されて死んだんだよ! お父さんもお母さんも、みんな死んじゃって! そして生首だけ偽者として蘇って……」

 詩音は頭を振って、喚いた。

「紫ちゃん、あんたはっ、家族なんかじゃないよ!! どんなにお題目を口にしても、親友でも家族になんてなれない! そんなの分かってるでしょぉっ!?」

「……昔。そう、あなたの好きな昔に、あなた自身が言ってましたよね? それとも忘れましたか?」

「え―――――、」

 詩音は、そこで何故か自然と思い出せた。

 そう、あれは確か小学生時代。みんなでラーメンを作ったときに――、

『ったく、詩音。本当に醤油入れるってどんな神経してんだ?』

『ご、ごめんねぇ、竜也お兄ちゃん。……醤油ラーメンっていうからてっきり……』

『……なのなあ詩音。いい加減、その「お兄ちゃん」ってのやめないか?』

『え? やだよ?』

『拒否された!?』

『だって紫ちゃんが、「お兄ちゃんって呼ぶとなんでも言うこと聞く」って……』

『……あいつ殴ってくる。それと、お兄ちゃんってのは家族に言うモンだ』

『家族じゃ、ないの?』

『俺とお前は友達。友達は違う』

『なら、紫ちゃんとは?』

『……紫ぃ? あいつもお前の友達だろ?』

『違うよ』

『…………あいつ、とうとう嫌われたな』

『い、いやっ、そうじゃなくて!』

『あん? 別に無理しなくても良いぞ、嫌なときはしっかり嫌と――、』

『紫ちゃんとは、友達じゃなくて親友! これなら、家族でも良いのかな?』

『また屁理屈を……あ、いや。なんでもない。……そうだな。きっと、あいつも喜ぶんじゃないか? 今度言ってみようぜ』

『うん! それに、何かお姉ちゃんっぽいしね!』

『……それは分かんない』

 

 

 全て思い出した。

 そして、全てを思い出した今。

「は、」

 とても、

「は、は」

 とても――――――、

「はは、は」

 脱力した。

「あ、ははは……そういえば、そうだったね。私、紫ちゃんと家族になってた」

「レズな薄い本が出来そうですね。……それに、家族っていうのは『成長』を見守るものなんですよ。どうやったって、家族と成長は縁が切れないんです」

「……紫ちゃんには、屁理屈では敵わないなあ」

「悔しかったら、私を越えてみてくださいよ」

「…………うん。でもその前に、私はまだ諦めてない」

「相変わらず、強情なんですね」

「生憎と、まだ私は昔の方が好きだよ」

「…………私だって」

「?」

「私だって、昔の方が好きですよ。でも、いい加減にしないと、駄目です。昔も今も、自分は自分。けど中身は全然違う。そういう、理不尽さに目を向けなきゃ、駄目なんですよ」

 紫は、肩から手を離した。

 ボロボロと、『それ』が崩れはじめている。

「それに」

 そこで、紫は三歩歩くと、詩音と肉薄するぐらいの位置まで立つ。

 並び立つ。

「私がどうして、ここまで怒ったか分かりますか?」

 そして、詩音の両肩を掴んだ。

「……う、ううん…………わかんない、な………」

「――――――ッ」

 紫は頭を振りかぶると、

「!!!」

 少しだけ加減した、だけど充分痛いであろう頭突きをかました。

「いっ……………ッ、たぁぁぁぁああっい!!」

 詩音が額を抑えて、盛大に呻く。

 しゃがみ込んでしまった彼女をしかし紫は見下ろし、手を貸さずに、

「あなたがこんな、……こんなに面白い『今』より、子供っぽい『昔』を選んだことに怒ってるんですよ!!」

「え?」

 それは詩音としても、予想外の反論だった。

 思わず額を抑えながらも、間抜けな顔で紫を見上げてしまう。

 ただ、自分の願望で力を暴走させたことを怒っているのかと思ったら。

 なんてことはない。ただ紫も、親友に今の自分より昔の自分が選ばれたことが、悔しかっただけだったのだ。

 まるで、子供の駄々。

 しかしそれは、温かくて優しい、包み込むような――――我儘。

 憤慨しているようで、よくよく見るとその表情には哀しみも浮かんでいた。親友に自分を選んでもらえなかった哀しみに、選ばれるような自分じゃなかった情けなさに。

 それでも紫は、口調だけは崩さなかった。

「しっかり現実を見れば良いんです! 辛い事を直視しろだなんて言いません! 私だって辛い事は見ませんよ! 竜也先輩にいくらアタックしても無視される現実は、とっくに無視してますしね!」

 背後から『おい!』という怒声が聞こえた。

 こんな状況にも関らず、二人で苦笑いを浮かべてしまう。

「でも、良いじゃないですか。辛いことから目を背けても、しっかり現実さえ見ていれば」

 紫は両手を広げる。まるで、演劇の一幕のようだった。

「見えていれば、世界はこんなにも…………輝いているじゃないですか」

「―――――――――――――――――――ぁ、」

 瞬間的に、爆発的に。

 詩音の脳内で、今まで輝いているのに見落としてきた、自分が最も望み最も捨ててきた様々な思い出が、蘇る。この病院での生活だって窮屈だけど、ナースさんは面白い人だった。先生はいつも、教訓じみたお話をしてくれた。先輩はいつもツッコミをしてるけど、それでも紫ちゃんと組めば最強のタッグだなとも思った。

 どうでもいい、取るに足らない、しかし喉から手が出るほど欲していた、それ。

「あ、ぁあああ、」

「私だって、悩んでいました。けど、もう悩みません。……いいえ、悩んでいません」

 どうしてか、と聞かれれば、迷わず紫はこう答える。

「ウジウジ悩んでるより、割り切って今を楽しんだほうが百倍お得ですからね」

「……………………………紫ちゃん。紫、お姉ちゃん」

「あ、やっと呼んでくれましたね」

「私は、裏切られてない、の……………?」

「裏切った覚えがありません。というより、裏切るなんて出来ませんよ」

「私は、裏切って、ないの…………?」

「あなたは、間違っただけです。間違った妹の道を正すのも、姉がやりますよ」

「そ、っかぁ…………」

 いつのまにか目尻に涙が浮かんでいた詩音は、最後にこれだけ、と言って、

「私達って、……友達?」

 

 

「違いますよ。私達は姉妹で、家族で、―――――でもやっぱり、親友です」

 

 

 しばしの、沈黙。

 そして数秒後、

「…………………ありがと、ね」

 詩音の意識が、ふっと途切れた。

 静かに、けど確かに。

 紫が抱えるようにして、詩音を抱きかかえた。詩音は紫の胸の中で、安らかな寝息を立てていた。

 同時。

 様々な形状に変化していた壁やタイル、ベッドやシーツ、更にガラスや鉄骨までも、全てのものが文字通り復元……いや、元に戻っていく。急速に硬化し始めているのか、辺りの壁からパキパキという音が絶えず鳴り響く。

 しかしその音は、新たに今を見つめた詩音と紫に対しての、祝福の拍手にも聞こえた。

 

 

 

 ということで、今回の結末。

「ほんっとーにっ、すいませんでした!!」

 二時間後、詩音は如月家のリビングで見事な土下座を決めていた。

 というのも、結局紫の厳しめのお小言によって事態は収束し、詩音も精神科にいる必要がないぐらいには踏ん切りがついた。決意を決めて退院しようかとかそういうことを言っているうちに、なんとびっくり詩音の入院経歴が消えていたのだ。そこで発覚したのが、総合病院だけではく精神科の方も無自覚の『復元の異能』を使用し、周りの境遇を『巻き戻し』ていたということだ。確かに言われるまで気付かなかったが、今の詩音には精神科にいく必要性もないのだ。

 ということで、三人で病院から退散してきたらゴールデンタイムになっていた。

「おいおい、もう良いって。何回目だよそれ」

「そうですよ。私なんて頭突きまでしたんですから、こっちが謝りたいぐらいです」

「あ、でも頭突きは本当に痛かったよ? お姉ちゃん、容赦ないんだから」

「気をつけろ詩音。こいつは最近、見境無く同年代を襲う野獣として……」

「襲ってませんよ! 先輩しか!」

「俺って襲われてたの!?」

「え、………………ホントに?」

「うわマジなリアクションです。紫ちゃん、嘘ですから! 本当は襲われる方が良いです! そしてさっきの病室のあれは新手のSMプレイだったと思います!」

「あ、いやでも、本当に殺しちゃうかもしれないところまで行っちゃって、もう、あの、」

 しどろもどろになっている詩音を見ながら、竜也は少しだけ笑みを浮かべて、

「……よし。そんなに謝るんなら、何か俺達の要求を一つだけ叶えるってのはどうだ?」

「えぇっ!?」

「それ良いですね先輩!」

「紫ちゃんっ! 乗らないでよ!?」

「あっれー殺されかけたんですよねー今日誰かさんにーあれは死ぬ寸前だったなー」

「分かったよっっ!! そ、それで、その……あんまり、その、えっ…ちのはなしで!」

「……え? なに、なんだって?」

「いいですよ、先輩。では要求をはじめましょう! 私の要求は裸エプロンです!」

「いきなりお願い無視!?」

「俺の要求は……そうだな、醤油と角砂糖とカルピスの原油を混ぜたラーメンを食え」

「拷問級ですよそれも! もう良いじゃないですか昔のことは!」

「「…………お前が言うか?」」

「い、いいじゃないですかーっ! もう! やっぱり要求を聞くのはなしです!」

「「えーっ!?」」

「なんでお姉ちゃん以上に先輩が不満そうなんですか!?」

 尚、これは後から聞いたことだが、詩音は紫への『あだ名』を『お姉ちゃん』にしたらしい。柄じゃないことこの上ない、と竜也は思うのだが、なんか本人たちの間であったようだ。深入りはしないし、する気もない。自分の問題という言葉の重さを、竜也はこの数日でよく身に染みた。ちなみに竜也の呼び方が『先輩』のままなのだが、しかしここを下手に『お兄ちゃん』などと変えられると、紫が『お姉ちゃん』と『お兄ちゃん』で近親相姦グヘヘとか言い出しそうなのでありがたくもあった。

「その代わり、二人に私からのお願いがあります」

「「……………………裸エプロン?」」

「しませんよそんな要求! というか、先輩の裸エプロンなんて見たくないです!」

 誰得だよ、と竜也自身もそこは思う。

「私のお願いは…………」

 そこで詩音は、少しだけ恥ずかしそうにモジモジとした。

 頬を軽く染めて、しかし思い切ったように、言う。

「今度、一緒にラーメン作ってください!」

 

 

 

 もう遅い時間となった。

 紫と詩音は二人で如月家を後にし、帰路を自転車で走行中。

 薄暗い為、女子二人で大丈夫かと竜也が提案してくれたが、正直二人で帰りたいというのもあったため(主に詩音が)、二人に妹が乗っていたという自転車を貸してくれた。

 片方はとりわけ普通の自転車だったのだが、もう片方がなんというか、痛チャリではないのだがキャラが描いてある、言うなれば『児童用自転車』とでも呼ぶべき代物で、とてもじゃないが薄暗い午後七時台でなければ走ることは無理だったろう。

 敢えて人通りの少ない道を進み、二人で並走する。夜風が微妙に肌寒い。

「……………………詩音ちゃん」

 そんななか、唐突に紫が口を開いた。

「ん?」

「いえ、私が頭突きしちゃった理由、まだ言ってませんでしたから」

「場ののりじゃないの?」

「そんな軽い女じゃないですから! いえ、別にどうってことないんですけどね。ただその、私も非科学的なことを信じたくなったと言いますか」

「……よく、分かんないけど?」

「まあ、つまりはですね」

 紫は少しだけスピードを上げて、詩音を追い抜いた。

 結果的に、詩音は紫の表情が見ることが叶わない位置となる。

「これは父親の分! これは母親の分! ってーやつですね?」

「……………………へ?」

「あ、通じません? ……ほら、多分ですけど、やっぱり詩音ちゃんの両親だって、あんなことになったら同情より前にきちんと叱るかなーと思ってですね」

「え、えーと。つまり、私の親の気持ちを汲んで、代わって頭突きをしてくれたの?」

「…………………ま、まあ、そうですね。端的に言えば」

「…………」

「…………」

 二人の間に、暫くの沈黙が訪れる。

 アスファルトを滑る、タイヤの滑走音しか音が無い。

 そして数秒後、

「ぷっ、」

「なっ、笑いました!?」

「い、いやぁ、お姉ちゃんってそういう人には見えなかったから」

「……私だって、普段ならこんなことしませんよ。でも、『異能』なんて見せられたら、気が変わります」

 らしくない、というのは本人が一番分かっているだろう。

 証拠に、この薄暗い道でも分かるほどに、後ろから見たその耳は真っ赤だった。

 少しだけ笑いを堪えながら、しかし笑みを浮かべて、詩音は言う。

「……まあでも、嬉しいよ。ありがとう、お姉ちゃん」

「どういたしまして、です」

 

 

 その後、心配なため詩音を家まで送った。一応はガスなども通ってはいるが、それでも詩音以外は誰もいない家だ。基本的に、心細いのは変わらないだろう。しかしそこで紫は、口約束だが自分の家が詩音の生活費をサポートすると約束した。かつて竜也にも持ちかけた話だが、竜也は親戚の援助があったため遠慮すると言った。同じように詩音は遠慮したが、しかしそこで一言、

『家族ですから』

 と言うと、詩音はあっさりと納得し快諾してくれた。

 そんなこんなで、紫は一人で自転車を走らせる。

 無言で漕ぎながら、ふと思考を巡らせる。詩音のこともだが、『異能』などというのも今後無視できないものになっていくだろう。

(そういえば…………)

 と、そこで紫は一つの疑問にぶつかった。

 それは、

 

 

 

 かくして、親の頭部にまつわる『復元』と過去へ戻りたいという二重の『復元』に悩まされた、一人の少女にまつわる物語は終わった。今まで通り『主人公』をしていれば違った結末があったのかもしれないが、しかしこれより良い結末はどこにもないのだろう。そう思わなければ、実はあまりにも報われないのだ、このエピソードは。

 

 

 

 竜也は布団へ潜る。

 時間は、既に深夜と言っていい。

 なんとなく喉が渇いたから、水を飲んでから竜也はしばらく考えていた。

(……そういえば、詩音はどうしてあのタイミングで『異能』が発現したんだ……?)

 それは奇しくも、紫が抱いた疑問と同一のものだった。

 しかしそれ以上と言ってもいいほどに、竜也の思考は別のものが占領している。

「…………………明日、か……」

 明日は、土曜日。

 柊 優華が、『ひまわりパーク』の生き残りと会合する日。

 そして竜也にとっても、明日は節目の日だった。

 

 

 

 

 

 翌日。

 如月竜也は、まさしく運命の五日目を迎える。

 

 

 

 



 ということで、第五章も無事終了。

 ちなみに、次からラストエピソード開始です。

 乞うご期待!

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