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除外なう  作者: 白城 海
第二話 俺と兄妹と脳障害
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第二話 俺と兄妹と脳障害(2)

「兄さん。《忘れ》ちゃったんですか!?美鳥です。妹の美鳥ですよ!」


 少女の叫びが部屋に響く。

 彼女の声は部屋に鳴り響く雑音を突き抜け俺の耳に、そして胸に突き刺さった。

 嘆く様な、訴える様な、すがる様な声。

 だが、彼女の声が俺の記憶を呼び覚ます事はなかった。


 彼女が誰なのか考える暇はない。どうせ考えた所で思い出せる事は無いのだ。

 俺がやらなければならない事はただ一つ。

 携帯電話の電源を落とし、目覚ましを止め、スピーカーから電源を引っこ抜く。そのままベッドから跳ね起き《机の上のノート》を開いた。


「天海美鳥。妹――妹っ!?」

 そんな馬鹿な。俺の兄弟は兄だけのはずだ。

「…ノートを見て思い出さないって事は、《名前を忘れた》と言う訳ではないようですね」

 俺の隣でノートを覗き込んでいた少女が言う。目に浮かぶ涙は今にも溢れ出しそうだった。

 

 ノートには家族や友人の名前。忘れてはいけない《思い出》がびっしりと書かれている。

 ノートの中身は俺の全て。絶対に《忘れ》てはいけない記憶。《忘れ》ても思い出さなければならない記憶だ。

 

「昨日は君の事を覚えてたんだよな?」

「はい。リビングで2時間近く一緒にいたと思います」

 涙を袖で拭う少女。

 見ていられなくなり、机の上に置いてあったティッシュの箱を渡してやる。


「…」

 無反応。何故だろうか。俺が拭いてくれるとでも思っているのだろうか。

 まさか。ありえない。十九にもなって妹の涙を拭き、鼻水をかませる兄なんて恥ずかしすぎだ。


 差し出したまま硬直する俺を見て、少女は無言でティッシュを受け取った。

 落ち着くのを待ち、尋ねる。


「昨日、俺と何を話したか教えてくれないか?」 

「えぇっと。昨日の帰りは遅かったです。警察に行ってきたと」

 その事は覚えている。死体を発見したからだ。

 そして、夜中に兄から自殺では無いと聞いた。


「死体の事なら覚えてる。その話を夜中に兄貴としたんだ」

(ひろ)兄さんの事を覚えてるって事は《家族》の事を忘れたわけではなさそうですね」


 父の事も、母の事もはっきりと覚えている。


「けど妹の事だけすっかり忘れてる、か」

 また俺は、大切なものを《忘れ》てしまったのか。


「それでですね。死体を見つけたって話を聞いた時、わたしはこう言ったんです。『自首してください』って」

「殺してないっ!」

 酷い言い草。俺は彼女にどんな目で見られていたと言うのだ。

「そのセリフも昨日聞きました。同じ事を何度も言うのは面倒なので早く思い出してください」

「俺の妹ってこんな毒舌なのかよ。思い出すのが怖い…」

 頭を抱える俺。未だに思い出せない。他に何か手掛かりはないのだろうか。


「あっ」

「何かあったか?」

「兄さんから貰ったグラスを割っちゃったんですよ。大切にしてたのに…」

 途端に、しゅんと沈む少女。感情の移り変わりが激しい。

「それも忘れちゃったんですね。ディズニーランドのお土産の――《ミッキーのグラス》なんですけど」



 ミッキーの――グラス?



 その言葉を聞いた瞬間。

 

 俺の頭に、疼きが走った。


 頭蓋の中に虫が暴れまわる様な感覚。

 何度も、何度も味わった感覚だ。

 疼きは次第に大きくなり、痺れへと変わる。

 痺れは痛みと変わり、痛みは《記憶》へと変化した。


 ミッキーのグラス。ミッキーマウスのグラス。ディズニー。ディズニーランド。

 山のように積まれていたパズルのピースが自動的に組みたてられていくかのように膨大な《記憶》が俺の頭の芯から溢れ出す。


「そう、だ。そうだった」

 その《パズルのピース》の中に、確かに存在していた。

 彼女が、目の前の少女がグラスを両手で握りしめるその姿が。

 満面の笑顔を俺に向けるその姿が。


「そうだよ!ミッキーのグラスだ!5年くらい前に俺が買ってきた奴だよな。修学旅行で!」

 頭が痛むのもお構いなしにうろたえる少女の手を握る。

 まだ頭の中で大小様々な記憶が暴れまわっているが無視だ。


「はい…。思い出してくれたんですね?」

「あぁ。ケンカして無茶苦茶冷たかった時も、ソレだけは大事にしてくれたんだよな」

「そ、そんな事まで思い出さなくていいんですっ」

 顔を真っ赤にしてうつむく少女を見て俺が笑う。そうだ。このやり取りだ。これが俺達の日常だ。

 記憶が纏まりを帯び、急速に頭痛の波が引いて行くのを感じる。

 完全に収まるのを待ち、俺が口を開く。


「あぁ、そうだ。わすれてた」

「えっ?」


 少女の体が硬直し、身を震わせ、強張るのが見て取れる。

 大丈夫。お前が想像しているような言葉じゃない。


「おはよう。《美鳥》」

 箱からティッシュを取り出し、少女の目に溜まった涙を拭いてやる。

 いや、《少女》では無い。彼女は俺の妹、《美鳥》。


「おはようございます。兄さん」

 ようやく安心したのか緊張を解き、笑顔で返す美鳥。


 


 こうして、俺の一日が始まるのだった。




----------------------------------


少しだけ俺の事を話そうと思う。

長くなるが大事な事だ。聞いて欲しい。


1年ほど前、俺は交通事故にあったらしい。

その事故は、ある人物を庇って起きたと聞いた。

庇ったとされる人物の名前は風間祈衣(きい)

昨日、一緒に事件現場に居た女だ。


《らしい》、《かばったとされる》と言うのは、俺が事故の事を全く覚えていないから。

頭を打ったせいなのか、何なのか。今でもその日の事は思い出す事が出来ない。

そして、その事故の日から俺はある障害に悩まされる事になる。



【高次脳機能障害】。



記憶障害と言い換えた方が分かりやすいか。

《事故や事件をきっかけに、それ以降の記憶をとどめる事が出来ない。》と言う事件や物語が知っているだろうか。


例えば、朝起きたら昨日までの記憶全てを忘れてしまう。

例えば、昼食にカレーを食べたとする。だが、数分後にはカレーを食べた事を忘れてしまう。

例えば、テレビドラマを見たとする。だが、見ている途中で物語の筋がさっぱり分からなくなってしまう。それがどんな単純な物語でも、だ。


どんな喜びも、どんな発見も、どんな感動も、ほんのわずかな時間で忘れてしまう。

患者の世界は事故の日で止まったまま。

まさに悲劇だ。


そして、俺の記憶は、眠りに落ちるたびに失われる。


だけど、俺は少し違う。全ては忘れない。

俺が忘れるのは――


―― 一つの《ことば》と、そのことばに《関連した物事》を忘れる。

《ミッキーのグラス》と一緒に《グラスを大事にしていた妹》の事を忘れたように。


その日一日で目にしたもの、耳にしたものの中から一つの《ことば》と、そのことばに強く関連した《記憶》がごっそりと抜け落ちる。

今まで経験から、《忘れたことば》に法則性は無い。


だが、救いはあった。

《忘れたことば》を文字で見たり、耳で聞いたりすれば思い出せるのだ。


問題は、《忘れたことば》が何なのかが、誰にもさっぱり分からない事。

人間が一日に目にし、耳にし、肌で感じる情報量がどれほどか分かるだろうか?分かる訳がない。


ある日は《マヨネーズ》を忘れていた。誰も全く困らなかった。恐らく《忘れた》事さえ何日も気付いていなかったと思う。

関連して思い出した事と言えばマヨネーズ副長と土方スペシャルとポテトサラダをはじめとするいくつかの料理くらいなものだ。


だが、ある日は―――



―――《友達》を忘れた。



関連して、学校の事、趣味の事も全て抜け落ちてしまった。

幼児になってしまったと言ってもいい。

その恐怖は今でもはっきりと覚えている。


俺は毎日毎日、何を《忘れる》かに脅えて床につく。

明日は俺が俺じゃないかもしれない。

誰も《忘れたことば》を見つけ出せないかもしれない。永久に《忘れた》ままなのかもしれない。

それどころか、障害が悪化し、《忘れたことば》を聞いても思い出せなくなるかもしれない…!


お前らにこの恐怖が分かるか!?


…こんな生活が、もう8カ月以上続いていた。



-----------------------------------



「兄さん?」

 美鳥の声で我に返る。


「震えて…いるんですか?」

 彼女の言う通り、俺は震えていた。

 うずくまり、卵のように丸まり、がたがたと震えていた。

 足が、腕が、肩が、体が、頭が、全身が、《忘れた》事への悔しさと、情けなさと、恐怖で震えていた。


 また、家族の事を忘れてしまった。

 また、大切なものを失う所だった。


「別に、大丈夫だ。すぐ収まる」

 強がり。当然だ。これ以上妹に、家族に心配や迷惑を与えるわけにはいかない。

 この《障害》のせいでどれだけの苦労をさせてきたと思っているんだ。

 美鳥の事を忘れたのも一度や二度では無い。

 それでも、彼女は不平不満も言わずに接してくれる。

 心の中では、《忘れ》られたことに大きなショックを受けているだろうに。

 

 だから、俺には強がることしか出来ない。

 兄に、妹に、両親に、風間に、平気な顔を見せ続けることしか出来ない。

 それでも時々、本当に時々なのだが、このように不安定になってしまう。


「強がらないで下さい。家族なんですから」

 美鳥が、俺の頭の上に手を置くのを感じる。

 ほんのりと温かく、そして涙で少しだけ湿っていた。


「馬鹿。放せって」

「イヤです」

 空いている方の手が俺の背中に回り、きつく抱きしめられる。

 何故か、抵抗を許さない魔力があった。

「家族なんですから。頼ってください。信じてください。私も、大兄さんも、お父さんもお母さんも、それに祈衣姉さんも。みんな兄さんの味方なんですから」

 俺の頭を撫でながら、言う。


 照れ恥ずかしくもあり、くすぐったくもあったが不思議と悪い気はしない。

 美鳥は、俺の震えが収まるまでずっと俺の体を離さなかった。

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