第二話 俺と兄妹と脳障害
「どう言う、事だよ」
予想通り。予想通りの展開だった。
だからこそ声を上げずにはいられなかった。
だってそうだろう?
学校で殺人事件が起きたのだ。
《殺人事件》。つまり、犯人が存在すると言うこと。
それも、俺の学校の中に。
被害者は隣のクラスの生徒。
《隣のクラス》。つまり、俺の日常のすぐ側に殺人犯が居ると言うこと。
恐怖を感じるには十分すぎる理由だった。
「勘違いしないで欲しいんだ。まだ殺人事件って決まった訳じゃないから」
兄の落ち着いた声。
「さっき検視に付き合ったんだ。自殺じゃないけど殺人とも断定できない。それが今日《僕たち》が出した結論だよ」
どう言う意味だろうか。首吊りの死体が殺人でなければ何だと言うのだ。
兄は大学病院の医師だ。それも普通の医者では無い。
《検死医》。
兄はいわゆる、警察に協力する医者。
細かい事は知らないし、彼も話そうとしない。
守秘義務があるし、犯罪にかかわる話を家族にはしたくないのだろう。
「兄貴が担当になったのか」
「うん、この辺の担当はうちの大学だからね。警察から呼ばれて行ってきたんだよ」
兄が言うには、検視には医師の立ち合いが必要らしく、県警から委託された医師と検察が協力して死体――兄が言うには遺体らしいが俺には違いが分からない――を調べるらしい。
解剖せずとも、遺体の体温で死亡推定時刻が分かり、外傷の有無で自殺かそうでないかくらいは簡単に判断できるとの事だ。
「解剖はしていないから断定は出来ないけど、一つだけ確かな事がある」
「確かな事?」
「その前に慶次は《自殺》か《そうでないか》の違いは分かる?」
昼間に自称名探偵の風間が言っていた事を思い出す。
確か、あの時は《衣類の乱れがあるかどうか》と言っていた。
だが、その後《乱れなんて直してしまえば分からない》とも。
役に立たない名探偵だなオイ。
「さっぱり分かんね」
素直に降参する。
「簡単な話だよ。《争ったり抵抗したりした形跡はあるか》」
「抵抗?」
「そう、抵抗。絞殺ならばどうしても被害者は抵抗するよね」
確かにそうだ。
紐を首から離そうともがけば手の痕が残るだろうし、犯人と揉み合って血液だって飛び散るかもしれない。
他には、《首吊りと絞殺では首にかかる負荷が違いすぎる》とのこと。
言われてみれば納得できる。全体重が首にのしかかる力の方が、紐か何かで力いっぱい締めつける力よりはるかに強い。
そして何より決定的なのが、《首を絞めた痕跡》と《首をつった痕跡》の両方が残ると言うこと。
科学捜査万歳。現代日本に名探偵は必要ない。
「今回は抵抗などの形跡はなかったんだ。だから絞殺したのを偽装するために首を吊らせた可能性はない」
「じゃあ、自殺じゃないのか?」
首吊り死体が他殺じゃなかったら、自殺の他に何だと言うのだ。俺が当然の疑問を口にする。
すると、兄は困ったような顔をして。
「いや、自殺と言うには余りにも不可解な事があってさ」と、言った。
「不可解な事?」
「《首への負荷》が大きすぎるんだ」
「どう言う意味だよ?」
話をもったいぶるのは兄の悪い癖だ。俺は早く答えを聞きたいと言うのに。
「まるで、首を縄にかけたまま高所から突き落とされたような感じでね。首がヘシ折れてたんだよ」
昼間の死体の姿を思い出す。
確かに、首が異様な角度に曲がっていた。
「ヘシ…ってどういう意味…だよ」
「分からない。まだ捜査中だからね。今は鑑識さんがあらゆる証拠を集めている所。その辺に関してはあっちの方が専門家だよ。彼らは衣類に付着した髪の毛一本見逃さない。彼らが何かを見つけ出すのを信じるしかないって所」
「…」
「それで、話は戻るけど…さっき言った《確実なこと》。それはね――」
兄の表情が変わる。
泣きそうな、申し訳なさそうな、苦しそうな、心配で堪らないような顔。
「《彼が音楽室で首を吊ったと言うことは、考えられない》」
再び、沈黙。
俺は何を言えば良いのか分からず
兄は俺にどのような言葉をかければ良いのか分からないのだろう。
「…マジで殺人事件?」
沈黙に耐えられなくなり、俺が口を開いた。
「殺人かもしれないし、事故を隠蔽しようとしたのかもしれない。だけど、どちらにしても…」
言葉尻が小さくなっていく。
表情だけで言い辛い言葉だと言うことが見てとれた。
だけど。言わなくても、もう分かっている。
だからこそ喉が渇く。違う。喉だけではなく、舌までがカラカラだ。
冗談だろ?まるでマンガやドラマの世界の話だ。
足が震えている気がする、気のせいだと思いたい。
だけど、兄貴には心配をかけたくなくて…。
これ以上、家族に迷惑をかけたくなくて…。
「俺の学校に犯人がいるって事だろ?大丈夫だって。気をつけるから」
俺は、強がる事にした。兄に続きを言わせず、俺が続きを言ったのだ。
俺の強がりに気づいてか気づかずか、兄の顔に少しだけ明るさが戻る。
「あ、そうだ。普通は医者には詳しい捜査情報は滅多なことじゃ回って来ないんだけど、発見者が僕の弟だし、何かあったら大変だからって事で特別に色々教えてもらえる事になったんだ」
兄の無理矢理に捻り出したような明るい話題に思わず苦笑してしまう。
「心配しすぎだっての。何で死体を発見しただけで俺達に危険があるんだよ」
笑い飛ばしはしたが、本心を言うと殺人犯が同じ学校にいると言う事実は恐ろしいを通り越した物があるのだが、それは口にしない。
「だって、ホラ!ほら、お前が実は決定的瞬間を目撃していて、しかもソレを《忘れた》なんて言う事だったら!」
笑われた事がショックだったのか兄が反論する。
「それはない。今日は球技大会で基本的に誰かと一緒に行動してたしな。1人だった時間なんて15分もない」
今の言葉は事実。担任や風間、クラスメイトから証言が取れている。
だからこそ俺が被疑者扱いされることなく帰宅できたのだ。
「じ、じゃあ実は犯人が偏執的な殺人狂だったら!」
「だったら、とっくに誰か殺されてるだろ…」
「慶次は兄の僕から見ても惚れ惚れするくらいの美形だから狙われてもおかしくないよね!」
「『おかしくないよね!』じゃねぇよっ。気持ち悪いわ!早く弟離れしろ!このブラコン!」
実はこの兄。過保護である。
両親が不在がちの我が家において、絶対の権力を持つ長男。
彼はその権力の全てを俺達を甘やかす事に注いだ。
お陰で美鳥はいまだに甘え癖が抜けず、俺は俺で弟・妹離れできない兄に辟易している。
「失礼な。僕はブラコンじゃない」
「じゃあ何なんだよ」
ブラコンでシスコンなんて言ったら殴ろう。そう心に誓う。
「ブラコンでシスコぶべらっ!」
殴った。力一杯。
大げさにきりもみ回転しながら部屋の外まで吹き飛んでいくが気にしない。
医者だから大丈夫だろう。根拠はないが。
「三十路のオッサンが堂々とワケの分からん発言をするなっ!…ともかく、俺も風間も大丈夫だから」
兄も美鳥も風間祈衣の存在は知っている。と言うより家族ぐるみの付き合いらしい。俺はよく知らないが。
「それでも…心配なんだよ。そう、心配な事が《多すぎる》」
いつの間にか部屋に舞い戻った兄が言った。シューティングゲームの残機かお前は。
「多すぎ…る?」
他にもまだあるのだろうか。今以上に心配な事が。
俺の不安を感じ取ったのか、今までになく深刻な表情で兄が口を開く。
「仕事がまだ残ってるのに抜けてきた。怒られちゃう」
俺の不安を返せ。
「『怒られちゃう』じゃねぇよっ!お前は女子中学生かっ!いくら童顔でもオッサンが言っていい事と悪い事があるぞッ!」
「オッサンって…酷いよ慶次」
「全然!欠片も!1ミリたりとも酷くないっ!事実だよ!いくら20代前半にしか見えなくともオッサンはオッサンだ!このモー娘世代!」
畳みかける様に言葉を叩きこむ。放っておくとすぐに調子に乗るので性質が悪い。
さすがに堪えたのか、急に真顔になる兄。
「どうしたんだよ。急に真剣な顔して」
「…事実と言うのは時に幻想よりも残酷な物だね」
「やかましい。何か名言っぽく言ってもオッサンはオッサンだからな。もうツッコんでられるか。俺は寝る」
ぴしゃり、と言い切り布団を被る。
しばらく兄は俺の方を見ていたようだったが、やがて部屋の電気が消え
「おやすみ。気をつけなよ。父さんも母さんも心配すると思うしさ」
とだけ言ってドアを閉めた。
足音も遠くなり、後に残るのは暗闇と静寂。
「…全く。馬鹿なことばっかり言いやがって」
だけど、その馬鹿のお陰で助かった。少しだけ、明るい気持ちになれた。
いつも思う。
良いモンだよな。家族って、と。
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■6月5日 午前6時40分 天海慶次 自室
携帯電話に設定されたデフォルトのアラーム。
強烈な目ざまし時計のベル。
ステレオスピーカーから吐き出される大音量のロック・ミュージック。
全てが同時に俺の耳と脳に襲い、蹂躙し、俺は目を覚ました。
朝日が目に差し込み、思わず再び目を閉じる。
目もとが涙で薄っすらと濡れていた。何か悪い夢でも見たらしい。
「悪夢の方がまだマシだったんだけどな」
俺は今、悪夢より厄介な《現実》にいる。
殺人犯が近くにいる学校に行かなければならないという現実に。
昨晩、10時を回った頃に我が家に学校からの電話が届いた。
内容は《学校で事故があったので気をつけて登校するように》との事。
「馬鹿馬鹿しい。何でこんな日に学校に行かなきゃならないんだよ。ダリぃ」
轟音が部屋を支配する中、ため息をつく。
が、何を言った所で現実が変わる訳でも無い。2度と留年は御免だ。
俺は起き上がろうと目を開いた。
まず目に入ってくるのは、天井にまるで封印の呪符のように貼られた《単語》の羅列。
B5の印刷用紙に記された《日本語》《ひらがな》《カタカナ》《漢字》《ことば》《天海慶二》《あまみけいじ》その他様々な手書きの文字。
単語それぞれに繋がりはなく、子供にでも分かる言葉ばかりだ。
不気味な事この上ないが、別に俺の趣味ではない。必要だから貼ってあるのだ。
「全部。意味は分かる。今日は問題無し」
全てに目を通し、確認を終えてから起き上がる。
起き上がって最初に見える物は壁。いや、《壁に張られた紙に書かれた文字》。
《机の上のノートを見ろ》
天井の文字の次は机のノートに目を通すのが俺の日課。いや、義務だ。
この義務を果たさないと大変な事になる。なぜなら――
「兄さん!寝坊しちゃだめですよ…って、あれ。起きてたんですか」
目覚ましを止め忘れていたせいで、俺を起こしに来たのだろうか。部屋のドアが乱暴に開けられた。アラームやベル、音楽はいまだに部屋中を叩き、殴っている。
ドアを開けたのは黒髪の少女。中学生くらいだろうか。小柄で、艶やかな黒髪と小動物のような仕草が特徴的な少女だった。
少女と、目が合う。
「もう。起きてたんなら目ざましを止めてください。ご飯ですよ?」
拗ねる様に、責める様に、だが親しげに声をかけてくれる少女。
だが、俺には。
「ど、どうしたんですか?そんなに見つめて」
俺には。
「なぁ。アンタ――」
俺には――
「一体――」
俺には!!
「――誰、なんだ?」
少女の顔に――全く、そう。
全く、見覚えが無かったのだ。