第三話 俺と眼鏡とロクデナシな交友関係(4)
突然だった。
《奴》は気配も感じさせず俺の背後に立っていた。
華奢で小柄な体格に、雪のように白い肌。
悪戯っぽい微笑みを浮かべ、眼鏡の下のブラウンの瞳で俺を上目遣いで見つめていた。
背中までの三つ編みをゆらゆらと揺らしながら眼鏡女――黒川絢葉が口を開く。
「ふふっ。僕の事を探していたんだね」
「で、出ましたね。ストーカー!」
美鳥が敵意を露わにし、眼鏡女を威嚇する。
誰だって得体のしれない物には警戒するだろう。
だが、眼鏡女はあっさりと無視。
「こんな所で出会うなんて偶然だね。やっぱり運命を感じるよ」
…どうしよう。予想以上に変人だ。どう対応すればいいか分からない。
「ちょっと。無視しないで下さい!何で兄さんがあなたの事を探しているのを知ってるんですか!」
「僕は、天海先輩の事なら何でも知っている」
今にも掴みかからんばかりの美鳥を腕で遮り、制す。
体は美鳥を制止したが、頭は全く別の事を考えていた。
いや、考えるなんて高度なものではない。
俺は、完全に混乱していた。
意味が分からない。
眼鏡女は俺の何を知っていると言うのだろうか。
スト―キング?後輩?
なら、どうして朝、俺に何も告げることなく煙のように消えた。
なら、どうして風間が学校に来ない事も知っている。
想像する。想像し続ける。だが、答えは全く出ない。
「不思議そうな顔をしているね。だったら教えてあげる」
眼鏡女が間を置く。
ほんの一拍。
「分かりやすく言えば、そうだね」
だが、今の俺にはその一拍すら数十秒の長さに感じられた。
「周囲の人に隠した恋人同士、ってところかな?」
眼鏡女が俺の腕に抱きつく。慌てて美鳥が引き離す。
俺は抵抗しない。抵抗どころでは無い。
訳が、分からなかった。
目まいが、した。
俺がこんな変人と恋人同士だと。
ありえない。ありえるわけがない。
だが――
今朝の事がフラッシュバックする。
美鳥を《忘れ》た事。思いだす為の手掛かりがまったくつかめなかった事。
そして、《忘れ》たことを知った時の、妹の涙。
《妹の事を忘れる俺が、恋人の事を忘れていないと断言できるのか》
頭の中を様々な思いが駆け巡る。
《狼狽》
《恐怖》
《疑念》
《罪悪感》
嘘と思いたい自分。嘘と言い切れる確証を持つ自分。彼女の言葉を信じてしまっている自分。
昼休みの教室だと言うのに周囲は静まり返っていた。
俺達の出す異様な雰囲気を感じ取ったのだろう。
静寂、ただそれだけが教室を覆っている。
「嘘ですっ!」
静寂を突き破ったのは美鳥の叫び声だった。
「兄さんには恋人はいません!私はそんな事を聞いていません!」
「フフッ。周囲に隠した、と僕は言ったよ。君が知らないのも無理はないかな」
眼鏡女の反論。筋は通っている。
もし俺が彼女と付き合っていたなら美鳥には言わないだろう。
兄離れ出来ない妹だから。きっと彼女の事も良く思わないに違いない。
「いいえ。ありえません。兄さんも何か言って上げてください。だって兄さんは――」
語尾が少しずつ曖昧になっていく。
「兄…さん……は」
完全に、口ごもってしまう美鳥。
妹が何を口にしたいのか。俺には分かる。
そのお陰で、僅かだが迷いが払われた。
「――何故なら」
美鳥の代わりに俺が続ける。
「俺は《記憶障害》だからだ」
「…!」
睨みつける様に見据え、口にする。
俺の言葉に眼鏡女が目を逸らす。同じ部活だ。知らないわけが無い。
「俺は家族の事も《忘れ》るんだ。恋人を作っても、いつ相手の事を忘れるか分からない」
感情が高ぶった。気持ちを落ち着かせるため顔を伏せる。
美鳥の持っている手鏡が目に入る。
そこには、どうしようも無く惨めに歪んだ情けない男の顔が映っていた。
「そんな奴が恋人なんか作って良いわけが無いだろ!ただ、傷つけるだけだ」
「…やっぱり、駄目か」
眼鏡女が呟く。
拗ねたような、残念そうな、顔。
そこに敵意や悪意、悲しみは感じられない。
「今なら、天海先輩を騙して彼女になれると思ったんだけどな」
…。
…え。
ちょっと待て。
「すると何だ?もしかして」
非常に馬鹿馬鹿しい想像が頭に浮かぶ。
考えうる限り、何よりもくだらなく、
何よりも肩透かしで、
何よりも残念な結末が。
「君は――君は《俺に恋人と思いこますためにウソをついた》って事か?」
「そうだけど?」
いけしゃあしゃあと言い放つ眼鏡女。
一気に俺の体の力が抜けるのを感じた。
美鳥がコンパスを強く握っているのが見える。止めろ。気持ちは分かるが止めろ。
「ひ、卑怯と思わないんですか?兄さんの記憶障害を盾に取り、ウソを教え恋人関係になろうだなんて!」
「そうでもしないとこれ以上距離を縮めれないと思ったから。気を悪くしたよね。謝るよ…」
俺達の刺すような視線に気づいたのだろう。申し訳なさそうな顔で眼鏡女がぺこり、と頭を下げる。
…俺の不安と疑念は何だったのだろうか。少しでも怯えていた自分が恥ずかしくなる。
「それで恋人関係になった後に記憶が戻ったらどうするんですか。嘘がバレて兄さんに嫌われちゃいますよ?」
「うっ」
眼鏡女が口ごもる。後先を考えていなかったのか。
意外と抜けているのかもしれない。むしろアホだ。
「兄さんの事が好きなら正々堂々としてください!」
「正々堂々としたら認めてくれる?」
「認めません。絶対っ、絶対っ、絶対に!認めないと世界が滅ぶとしても認めません!」
謎のガールズトークを続ける二人を眺めながら、俺は全く別の事を考えていた。
眼鏡女の奇行の理由は分かった。
だが、風間が失踪した理由は未だに不明のまま。
そもそも当初の目的は、黒川絢葉から風間の情報を聞き出す事。
ようやくスタート地点に立てそうだった。
「うふふふふ。やっぱり、黒川さんにはコンパスの餌食になって貰うしか――」
「そこまでにしとけ」
壮絶な笑顔でコンパスを振り上げた美鳥の腕を掴む。当然の事だが目的は眼鏡女を倒すことではない。
「風間が学校を休むって、君が連絡を受けたんだよな?」
「そうだよ。部活も休みになるからって」
当然だろう。人が死んでいるのだ。
昨日の今日で音楽室が利用できるわけが無い。
「でも、本当だとは思わなかったかな。まさか殺人事件だなんて」
「殺人事件?」
兄は《殺人事件か事故の隠蔽か分からない》と言っていたはずだ。なのに、どうして?
「風間先輩が言ってたんだ。殺人事件が起きたからしばらく部活は休みだって」
どうやらあの探偵モドキがいい加減な事を吹き込んだらしい。
「まだ殺人かどうかは不明って話だ。憶測でモノを言うもんじゃない」
「ですけど、学校中は殺人事件が起きたと言う話で広まってますよ」
大衆が喰いつくような大きな話題。
図書館で俺が言った言葉が脳裏に浮かび、深く嘆息。
どいつもこいつも浮ついている。自分は関係無いとでも思っているのだろうか。
「まぁいい。で、風間がどうして学校に来ていないのかは聞いてるか?」
「うん。それなら、殺人事件の捜査をするって言ってたかな」
「そうか。なら…って、え?」
何か不吉な言葉を聞いた気がする。
不安になり、美鳥の顔を見る。聞き違いであってほしい。
だが俺の妹も、鳩が豆鉄砲を機銃掃射されたかのような顔をしていた。
「今、何て言った?」
「正確に言うと、『殺人事件の捜査をするから学校はサボるね。あ、ケージには黙っておいて』って」
どうやら俺の身近にも浮ついた馬鹿がいたようだ。
「『言わないで』って、言ってますよね」
「…あ」
しまった、と言う風に口をふさぐ眼鏡女。もう手遅れだ。
「今のはナシに…」
「なりませんね」
「なるワケ無いだろ…」
いくつか疑問は解決した。
謎の少女の正体。死んだ梶原の人隣り。
しかし、肝心の眼鏡女の記憶は取り戻せないまま。
その上、新たに頭痛の種を抱える事になってしまった。
風間祈衣が事件の捜査を行っている。
「心配…かけやがって」
死ね。あの馬鹿。
いや、やっぱり死ぬな。
神にでも仏にでも祈ってやる。
だから、何も起こらないでいてくれ。
無情にも昼休みの終了を告げるチャイムを全身に受け、俺は天井を仰ぐ。
まだ、眼鏡女に聞きたい事は山ほどあると言うのに。
俺はただ、焦りを募らせるだけだった。
第三話 俺と眼鏡とロクデナシな交友関係 終
次回予告
失踪した祈衣は独自に事件の調査を行っていた。
未だに戻らない絢葉の記憶、増え続ける謎。
その日の夜、全ての謎は一応の終息を迎える。
だが、事件の終わりは《本当の始まり》でしかなかった。
次回、籠の中の記憶探偵第四話/日常編最終回
《事件の終わり、そして本当の始まり》に続く!