第一話 俺と死体と女子高生探偵
■ [六月四日。十六時三十分。 私立平坂高校 音楽室]
唐突だが聞いてほしい。
『音楽室の扉を開いたら人が死んでいた』。
目の前の出来事に俺――天海慶次は心の奥底から恐怖し、絶句していた。
六月初旬とは思えないほどの暑さ。
吐きそうなほどの熱気。体中に張り付く湿気。
体の至る所から汗が噴き出すのを感じる。
暑さからの汗では無い。氷のように冷たい汗――恐怖からの、汗。
手が震える。寒気が全身を覆う。
「夢、だ。夢を見てるんだよ。俺は」
ゆっくりと目を閉じ、そして開く。
目に映るのは天井から延びたロープ。そしてだらしなく垂れ下がった男の四肢。もちろん足は宙に浮いている。
首の骨が折れているのだろうか。死体は奇妙な角度で首を垂れ、上目づかいとも言えるような顔を俺の方に向けていた。
はっきりと分かった。コイツは夢じゃない。間違いなく現実だ。
「はは、は」
現実から逃れようと乾いた笑いが口から洩れた。だが、そんな笑いは死体と目が合った瞬間に止まってしまう。
今にも眼窩からはみ出しそうに飛び出た、それでいて暗く光の無い瞳。
その瞳が俺をじっと見つめているかのように見えた。
――足が、動かない。
――首が、動かない。
このまま死体に魂を引きずられ俺も死んでしまうのではないだろうか。
混乱が妄想を呼び、妄想が錯乱を引き出し、意識が遠くなる。
――その時だった。
「どうしたの、ケージ?」
聞きなれた女の声が引き金となり、ようやく俺の体が硬直から解き放たれた。
ただし抜け出せたのは首だけ。後ろを振り返ると見慣れた女の顔。
《風間祈衣》だ。
小顔で化粧気が薄く、色白で整った顔立ち。快活さを象徴するかのようにぴんと外側に跳ねたミディアムロングの癖っ毛。猫を思わせるやや釣り上った大きな瞳。
彼女の瞳が俺の顔をじっと覗き込んでいた。
「人が……死んでるんだよ」
教室の死体を指差し、伝える。手が震えているのが自分でも分かった。
俺が指を向けた方向を風間が見る。一瞬、目を見開き絶句。常識的な反応だ。
だが、彼女が続けた言葉は常識的とは正反対のものだった。
「困ったわね。このままじゃ練習できないわ」
「そう言う問題か!?」
思わず叫ぶ。変わり者だと言う事には気付いていたがここまでとは思わなかった。
「文化祭まで後3カ月。部員もわずか3人なのにどうしよっか…」
「いや、どうしよっか…じゃねぇだろっ!」
「しかも、もう一人の部員なんてまだ来てないし…」
「まぁ、黒川は遅刻常習犯だからな。ってそうじゃない!死体だよ!死体!」
2学年下の後輩の顔が一瞬、目に浮かぶ。だがそんな事は今はどうでもいい。
問題は俺達の目の前に死体がある、と言うことだ。
「冗談冗談。分かってるわよ。高校生探偵の出番って言いたいんでしょ?」
叫ぶ俺に対し、風間が現実離れした奇妙な発言をした。
高校生探偵。風間祈衣と言う女はミステリやサスペンスものが大好きで、ことあるごとに探偵を自称している。
事実、校内の出来事に限って言えば定期テストの順位から同級生の三角関係の内部事情まで完璧に把握しているらしい。俺に言わせれば探偵と言うよりはワイドショーだが。
「あたしのカンが言ってるの。この事件は殺人の可能性があるって」
とんでもない発言だった。
それも真顔で、真剣に。俺の瞳を真っ直ぐに見据えて。
風間は思いつきをそのままノリと勢いで口に出す女だが、今回ばかりは冗談ではなさそうだった。
「可能性って事は、自殺じゃないかもって事か?」
「そう、これは音楽部創立以来の天才ボーカリストであり、高校生探偵であるあたしの出番に違いないわ。推理漫画の王道よ」
首吊り死体を指差し、風間が嬉しそうに声を弾ませる。死ねばいいのに。
「はぁ、仕方ないな。期待してやるよ。お前の実力って奴に」
「任せて!あたしの歌で世界を変えてみせるわ!アタシの歌を聞けぇっ!」
「そっちは欠片も期待して無ぇよバカ!探偵の方だ、探偵の方!」
思い付きをそのまま口に出しただけだった。コイツは俺の想像を裏切る事が趣味なのか。
「仕方ないわねー。じゃあ、まずさしあたってする事、それは」
風間がおもむろにポケットから携帯電話を取り出し、キーを操作する。現場を画像に残すつもりなのだろうか。
慎重な操作。そばで見ている俺にでさえ緊張感が伝わってくる。
一体何をすると言うのだ。
長いようで短い時間。
俺の視線を気にしてかせずか、風間はおもむろに携帯電話を耳にあてた。
「あ、もしもし。警察ですか?高校に死体があるんですけど…はい、場所は――」
「通報かよ!?高校生探偵はどこに行った!常識すぎて予想外だよチクショウ!」
「市民の義務じゃない。何を言ってんの?」
「探偵だったら推理しろ!」
「警察に任せた方が確実だし?通報は趣味みたいなものだし」
「ウサ美ちゃんかお前は!!」
名探偵じゃなかったのかお前は!?
「別に推理しなくても死ぬわけでもないし」
「いっそ死ねよ」
「それに、電話中なんだから邪魔しないでよ。警察の人困ってるじゃない」
「俺のせいか!?俺のせいなのか!?」
理不尽だ。あまりにも理不尽だ。
「……ったく。いつもいつもバカみたいなことばかり言いやがって。少しは俺のストレスを」
「でもさ――」
ぶつぶつと呟く俺の愚痴を、通報を終えた風間が遮った。
「震え、止まったわよね?」
風間がにこり、と笑い俺の顔を覗きこんだ。
彼女の言われて初めて気付く。いつの間にか俺の体の震えは収まっていた。
「はぁ」と嘆息し諸手を挙げての降参する俺。
――敵わねぇなぁ。
こうして、俺たちが遭遇する《最悪の事件》の幕が上がったのだった。