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悪役令嬢になったのは……

悪役令嬢になったのは、ずっと豆乳扱いされていたから

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/04/29

 王立学院の食堂には、三つの派閥があった。


 白い皿で静かに食べる貴族派。


 大皿に山のように盛る騎士科派。


 そして、何にでもカレーをかける者たちである。


 最後の派閥は、派閥というより災害だった。


 豆も入れる。


 芋も入れる。


 硬い肉も入れる。


 昨日の根菜も入れる。


 余った乳清も入れる。


 異論があれば、それも入れる。


 カレーにしたら、だいたいうまい。


 その単純で暴力的な真理の前では、貴族の格式も、聖女の祈りも、騎士の筋肉も、文官の理屈も、一度は匙を持って沈黙する。


 メリナ・ソイベル子爵令嬢は、その沈黙が好きだった。


 うまいものを食べた時、人は余計なことを言わなくなる。


 つまり、食事には治安維持効果がある。


 食糧政策とは、突き詰めれば黙らせる技術である。


「メリナ・ソイベル!」


 その治安が、昼食時に破られた。


 王立学院の食堂中央。


 第六王子アルフォンスが、無駄によく通る声でメリナの名を呼んだ。


 彼の隣には、聖女候補リリアナがいた。


 白い制服。


 淡い金髪。


 祈るように伏せられた長い睫毛。


 そして、胸元に過剰な説得力。


 彼女は聖女候補だった。


 だが、学院の男子学生の一部は、彼女の聖性をもう少し低い位置で理解していた。


 豊かだった。


 かなり豊かだった。


 祈り、慈愛、祝福、母性。


 そういう美しい言葉を全部まとめて布地の内側に詰めたような存在だった。


 その横でメリナは、カレー皿を持ったまま立っていた。


 胸元は、静かだった。


 とても静かだった。


 起伏がない。


 主張がない。


 争いがない。


 胸部に関してだけ言えば、メリナの身体には恒久平和条約が結ばれていた。


 社交界は、そういう静けさを見逃さない。


 ソイベル子爵家は豆で財を成した家である。


 そしてメリナの胸元は、豆のように慎ましい。


 だから誰かが言った。


 豆乳令嬢、と。


 豆の家の令嬢。


 豆ほどの乳の令嬢。


 悪意は笑いに包まれ、笑いは社交の潤滑油と呼ばれ、潤滑油にされた本人だけが少しずつ削られていく。


 メリナは、それを知っていた。


 知ったうえで、カレーを食べていた。


 なぜなら腹が減るからだ。


「メリナ・ソイベル! 貴様との婚約を破棄する!」


 食堂がざわめいた。


 まず前提として、メリナとアルフォンスは婚約していない。


 婚約していない相手から婚約破棄されるのは、なかなか珍しい。


 もはや破棄というより、想像上の書類整理である。


「殿下」


 メリナは穏やかに言った。


「私は殿下と婚約しておりません」


「細かいことを言うな!」


「婚約破棄において、婚約の有無は細かくないと思います」


「ならば、婚約していた可能性を破棄する!」


「可能性」


「そうだ!」


「では、可能性がなくなったということで」


「勝手に終わらせるな!」


 アルフォンスは顔を赤くした。


 その後ろでリリアナが、困ったように微笑んでいる。


 困っている顔だった。


 だが、止める顔ではなかった。


 人は本当に止めたい時、もっと前に出る。


 困ったように微笑むだけの者は、たいてい状況を眺めている。


「貴様は悪役令嬢だ!」


「婚約していない相手から婚約破棄され、さらに悪役令嬢にされるのですね」


「そうだ!」


「制度が追いついておりません」


「貴様の罪は三つある!」


 メリナは、持っていたカレー皿を近くの卓に置いた。


 これは長くなる。


 カレーが冷める。


 それだけが残念だった。


「一つ!」


 アルフォンスは指を立てた。


「貴様は社交界で豆乳令嬢と呼ばれている!」


 食堂が死んだ。


 完全に死んだ。


 誰も匙を動かさない。


 騎士科の大男すら、肉を噛むのをやめた。


 本人の前で言う種類のあだ名ではない。


 陰で言うのもたいがいだが、本人の前で王子が宣言するのは、もはや事故ではなく公開処刑だった。


 メリナは瞬きをした。


「それは、私の罪ですか」


「当然だ!」


「名付けた方の罪ではなく?」


「貴様がそう呼ばれるような存在だからだ!」


 食堂の温度が少し下がった。


 リリアナが、そっとアルフォンスの袖を引く。


「殿下、その言い方は」


「リリアナは優しいな。だが真実は真実だ」


 真実。


 便利な言葉である。


 人を殴る時、真実という札を貼ると、少し正義に見える。


 メリナはゆっくりと頷いた。


「承知しました。では、真実について話しましょう」


「ほう。ようやく認める気になったか」


「はい。私は胸がありません」


 食堂が二度目の死を迎えた。


 さっきより深く死んだ。


 文官科の学生が、持っていたペンを落とした。


 騎士科の一人が咳き込んだ。


 料理長が厨房の入口で額を押さえた。


 メリナだけが平然としていた。


「正確には、あります。ただし社会的な夢や希望を背負えるほどの体積はありません。かなり控えめです。分類上は慎ましい。市場価値でいえば希少性はありますが、社交界では評価されにくい部位です」


「やめろ!」


 アルフォンスが叫んだ。


「なぜ自分で言う!」


「先に言われたので、定義しました」


「定義するな!」


「曖昧なまま笑われるより、定義した方がましです」


 メリナはリリアナを見た。


「一方で、リリアナ様は豊かです」


 リリアナの頬が淡く染まった。


 照れか。


 怒りか。


 優越か。


 その全部か。


「聖女候補として、見た目に説得力があります。人は分かりやすい象徴に弱い。豊かさを慈愛と呼び、丸みを母性と呼び、目に見えるものに祈りを乗せる。理解できます」


「メリナ様……?」


「ですが、それはリリアナ様の徳ではありません」


 リリアナの笑みが、そこで止まった。


「持って生まれたものです。祝福ではあるでしょう。けれど、制度ではありません。備蓄でもありません。冬を越す仕組みでもありません」


「何を」


「夢と希望は大切です」


 メリナは言った。


「ただし、夢と希望は倉に積めません」


 食堂の空気が変わった。


 笑えない方向に、話がずれた。


 アルフォンスは苛立ったように手を振った。


「二つ目だ! 貴様は豆を肉と偽った!」


「偽っておりません」


「豆は豆だ!」


「畑の肉です」


「肉ではない!」


「畑の肉です」


「なぜ言い張る!」


「事実だからです」


 メリナは静かに続けた。


「肉はすばらしい食材です。否定しません。ですが、肉だけで学院全員、兵舎全員、孤児院全員、冬の備蓄、災害時の炊き出しを支えられますか」


「それは」


「牛は祈れば増えますか。豚は詩で太りますか。鶏は舞踏会の招待状で卵を産みますか」


 誰も答えなかった。


「豆は地味です。華やかではありません。皿の中心に置いても褒められにくい。肉のように歓声は上がらない。ですが、保存できる。増やせる。乾かせる。運べる。すり潰せる。煮込める。腹を支えられる」


 メリナは、自分の胸元に手を当てた。


「私には夢と希望が少ないそうです」


 それから、まっすぐリリアナを見た。


「その代わり、我が家の倉には豆があります」


 誰かが息を呑んだ。


 それは馬鹿げた宣言だった。


 胸と豆を同じ土俵に乗せるなど、正気ではない。


 だが、妙に筋が通っていた。


 夢と希望で飾る聖女。


 豆で冬を越す子爵令嬢。


 どちらが人を救うのか。


 その問いを、食堂全体が一瞬だけ考えてしまった。


「三つ目!」


 アルフォンスは声を荒げた。


「貴様は給食のカレーに豆を混ぜた!」


 食堂中の視線が、茶色い鍋へ向いた。


 カレーは湯気を立てていた。


 何も知らない顔をしていた。


 いや、鍋なので顔はない。


 だが、あるような気がした。


「混ぜました」


「認めたな!」


「はい」


「貴様は肉を望む学生たちを裏切った!」


「いいえ」


「では何だ!」


「肉を全員に行き渡らせました」


 アルフォンスが止まった。


 メリナは続ける。


「肉だけを増やすことはできません。けれど、豆を混ぜれば、同じ量の肉でも満足感を増やせます。根菜を入れれば腹持ちがよくなります。乳清を加えれば無駄が減ります。硬い肉も煮込めば食べられます。香辛料を使えば、匂いの癖も整えられます」


「理屈ばかりだ!」


「食事は理屈です」


「食卓には心が必要だ!」


「心だけでは午後の訓練で倒れます」


 騎士科の何人かが、ものすごく納得した顔をした。


 アルフォンスがそちらを睨む。


 騎士科は目を逸らした。


「リリアナ様」


 メリナは、聖女候補に向き直った。


「リリアナ様は以前、おっしゃいましたね。乳とは夢と希望の象徴である、と」


 リリアナは少しだけ顎を上げた。


「ええ。人は、豊かさに安心するものです」


「その通りです」


 メリナは頷いた。


「では、鍋も同じです」


「鍋?」


「はい。人は、湯気の立つ鍋にも安心します」


 食堂の誰もが、思わず鍋を見た。


「皿に盛られた分だけではありません。後ろにまだある。並べばもらえる。明日も出る。そう思えることが、安心です。豊かさとは、見せるものだけではありません。続くものです」


 リリアナの手が、胸元で止まった。


 いつもなら、彼女の仕草は絵になる。


 だが今は、少しだけ頼りなく見えた。


「私には、リリアナ様のような象徴はありません」


 メリナは言った。


「だから、鍋を作りました」


 その言葉に、料理長が目を伏せた。


 厨房の者たちは、もう笑っていなかった。


 大量に作る。


 焦がさない。


 足りなくしない。


 安く、温かく、なるべくうまく。


 それは美談ではない。


 毎日の仕事である。


 毎日の仕事は、祈りより地味で、奇跡より強い。


「食べてください」


 メリナは、料理人から皿を受け取り、リリアナに差し出した。


「豆入りカレーです」


 リリアナは動かなかった。


「毒ではありません」


「分かっています」


「夢と希望は少ないかもしれません」


「……」


「ですが、腹は満ちます」


 リリアナは、しばらく皿を見つめた。


 それから匙を取った。


 一口。


 食堂が見守る。


 二口。


 誰も話さない。


 三口。


 リリアナの眉が、悔しそうに寄った。


「……豆が」


「はい」


「います」


「はい」


「でも、邪魔ではありません」


「ありがとうございます」


「褒めてはいません」


「食べています」


「確認です」


 リリアナはもう一口食べた。


 確認が長い。


 メリナは何も言わなかった。


 人は、負けた時に言い訳をする。


 食べ物に負けた時は、おかわりをする。


「殿下」


 リリアナは小さく言った。


「これは、危険です」


「毒か」


「違います」


「では何だ」


「おかわりしたくなります」


 食堂に、低い笑いが広がった。


 アルフォンスの顔がさらに赤くなる。


「私は食べん!」


「殿下」


 メリナは、今度はアルフォンスに皿を差し出した。


「確認だけでも」


「食べんと言った!」


「王族として、民の食を知ることは大切です」


「急に正論を出すな!」


「冷めます」


「くっ」


 アルフォンスは匙を取った。


「これは敗北ではない」


「はい」


「王族としての確認だ」


「はい」


「豆が肉などという戯言を暴くための」


「はい」


 彼は食べた。


 そして黙った。


 完全に黙った。


 二口目を食べた。


 三口目を食べた。


 皿の底が見えた。


「肉は」


 アルフォンスが低く言った。


「少しです」


「少しなのに、いる」


「はい」


「豆か」


「豆です」


「肉ではない」


「畑の肉です」


「……肉の気配がする」


「概念として」


「概念を食わせるな」


「食べています」


 アルフォンスは皿を握りしめた。


「おかわりは」


「あります」


「ならば、もう一度確認する」


 食堂が沸いた。


 断罪は終わった。


 正確には、カレーに溶けた。


 婚約していない婚約破棄も、悪役令嬢認定も、豆乳令嬢という侮蔑も、乳は夢と希望であるという謎の聖句も、全部、茶色い鍋の中で煮崩れた。


 食堂の隅で、文官科の学生が震える手で記録していた。


 食糧政策における象徴性と実用性の衝突。


 乳の聖性と豆の備蓄性。


 カレーによる階級横断的黙殺効果。


 題名だけで退学になりそうな報告書だった。


 翌週、王宮に正式な報告が上がった。


 第六王子が、婚約していない子爵令嬢に婚約破棄を宣言。


 聖女候補が乳を夢と希望と定義。


 子爵令嬢が自ら胸部の不足を認めたうえで、豆の備蓄性を主張。


 給食カレーによって場が鎮圧。


 報告を読んだ王は、しばらく天井を見た。


 王妃は扇で顔を隠した。


 笑っていた。


 かなり笑っていた。


 だが、添付された試算表を見た瞬間、二人とも真顔になった。


 肉の使用量削減。


 満足度維持。


 豆の消費拡大。


 孤児院、兵舎、学院食堂、災害時炊き出しへの応用可能。


 保存食との相性良好。


 香辛料の流通振興。


 食べ残し減少。


 数字は笑わない。


 数字は下品なあだ名も言わない。


 数字はただ、使えるかどうかを示す。


 王は試食用のカレーを食べた。


 黙った。


 王妃も食べた。


 黙った。


「肉は少ないな」


「豆です」


「豆か」


「豆です」


「……肉だな」


「畑の肉です」


 その月のうちに、王国の集団給食指針が改定された。


 豆類は、肉類を補完する重要食材として扱う。


 学院、兵舎、孤児院、救貧院における豆料理の導入を推奨する。


 ただし、豆であることは隠さない。


 食材を偽らず、うまく食わせること。


 それが新しい方針になった。


 王立学院には、別の校則も加わった。


 他人の身体的特徴を食材にたとえてはならない。


 乳を夢と希望の象徴として語る場合は、相手を見てからにすること。


 食堂で断罪を始める場合は、昼食後にすること。


 異論は認める。


 ただし、カレーが冷める前に長く語ってはならない。


 メリナ・ソイベルは、悪役令嬢にはならなかった。


 豆乳令嬢とも、次第に呼ばれなくなった。


 ただし別の名はついた。


 鍋の令嬢。


 畑の肉女神。


 給食の悪魔。


 どれも令嬢としては微妙だった。


 けれどメリナは、訂正しなかった。


 豆乳令嬢よりはましである。


 それに、名誉は腹を満たさない。


 今日も王立学院の食堂には、茶色い鍋がある。


 騎士科が列を作る。


 文官科が原価を計算する。


 聖職者見習いが祈る。


 料理長が不本意そうに味を整える。


 リリアナは時々、何でもない顔で豆入りカレーを食べに来る。


 アルフォンスは毎回「確認だ」と言っておかわりする。


 一年生の誰かが、皿の中を見て尋ねた。


「今日の肉、何?」


 配膳係は答えた。


「豆です」


「豆かあ」


「豆です」


「肉じゃん」


「肉です」


 少し離れた席で、メリナは静かに頷いた。


 真実はいつも、は、ひとつ。


 乳は夢と希望かもしれない。


 豆は肉かもしれない。


 胸に備蓄がなくても、倉に備蓄があれば冬は越せる。


 そして、カレーにしたら、だいたいうまい。

夜勤明けに書くものは、だいたいこうなります。


豆、乳、肉、カレー、プロテイン、カタツムリ。


並べただけで正気ではありませんが、前にも夜勤明けの謎メモから何か生まれた気がするので、たぶん今回もその系統です。


真面目に考えると、豆は保存できるし、増やせるし、腹も支えるのでかなり強い食材です。


ただ、そこに「カレーにしたらだいたいうまい」という雑すぎる真理を足した結果、こんな話になりました。


夜勤明けはこんなもんです。


読んでくださり、ありがとうございました。

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