とある物書きの歪み
私の自己肯定法は歪んでいる。
手を動かし、原稿用紙に綴った物語を愛でることで、間接的に自分を愛している。それ以外に、私が私を肯定する術はないらしい。
だが最近、その「愛でる」という行為の不純さに、私は薄々気づき始めていた。
書き上げた文章を読み返すたび、胸の奥に湧き上がるのは誇りではない。むしろ、安堵に近い何かだ。──ああ、まだ書ける。まだ壊れてはいない。まだ、自分には価値がある。
その安心は、到底「愛」なんてものではない。強迫的な確認に近いかもしれない。生きていることの証明を、ただ文字に委ねているだけの日々。その綱渡りを本能的に恐れているのだろう。
……もしも、私が書けなくなったらどうなるんだろう。そう考えると首元が冷える。画面に映る原稿用紙の白が、底の見えない穴のように思えてくる。視線を動かすことすら躊躇われる瞬間がある。だが同時に、その白さに縋りつくように、私はまた言葉を探し始めるのだ。
書かねばならない。
書き続けなければならない。
そうしなければ、私は私でいられなくなる。
──いや、違うか。
私は最初からどこにもいないのかもしれない。物語の中にだけ、断片的に存在しているのかもしれない。書いた分だけ、そこに私がいる。逆に言えば、書かれていない私は、意味のない空白と同じだ。
だから私は削ることができないのだろう。推敲のたびに文章を整えながら、どこかで恐れている。余計な一文を消すことが、自分の一部を削ぎ落とすことに等しいのではないか、と。
……滑稽な話だ。
こんなにも拙い文章に、自分の存在価値を預けているのだから。
それでもやめられない。今日も私は急かされるようにノートパソコンへ向かう。コーヒーの匂いを吸い込みながら、ゆっくりとペンを走らせる。震える手を押さえつけるようにして、無理やり言葉を絞り出す。
──ほら、書け。
頭の奥で誰かが囁く。優しくもなく、厳しくもないトーンで。ただ当然のことのように、そっと背中を押してくる。そこにはどこか、怒りを堪えているような手加減がある。
その声が、自分のものなのかどうか、私にはもう分からない。




