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英雄は前に出たくない  作者: 氷雨


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2/3

1-1

目を開けると、天井は低かった。

白い梁が規則正しく走り、朝の光が薄く差し込んでいる。川の音も鉄の匂いもなく、代わりにあるのは乾いた布と屋敷の空気だった。

体が軽い、と感じてから、それが小さいのだと気づく。

指を動かすと細く、力が足りない。上半身を起こせば寝台がわずかに軋み、その音さえ戦場とは無縁だった。

胸に手を当て、脇腹に触れる。

傷はない。血もない。

あの橋の上で受けたはずの刃は、どこにも残っていなかった。

橋の上で最後まで立っていた記憶は、曖昧でも夢でもない。敵を斬り、退路を守り、退かなかった。そこまでを確かに覚えている。

それなのに、今はここにいる。

視線を巡らせれば、見慣れた部屋がある。壁に掛けられた家紋、机の上の木剣、窓の外に整えられた庭。戦場ではないが、知らない場所でもない。

記憶は二つあった。

橋の上の記憶と、この屋敷で育った記憶。どちらも途切れておらず、無理に繋ぎ合わせる必要もない。

混乱はない。ただ事実として、自分の中に並んでいる。

立ち上がると視線が低い。鍛え上げた肉体ではなく、成長途中の身体だと理解する。

窓に映る姿を見て、静かに確信する。

貴族の家に生まれた、次男。

名も家も思い出せる。

そして、自分の名も。

ベルンハルト。

それが今の自分だ。

寝台から足を下ろすと、床板がひやりとした。

立ち上がる。思ったよりも重心が不安定で、わずかに揺れる。この体はまだ出来上がっていない。筋肉の付き方、関節の柔らかさ、呼吸の浅さ。戦場で酷使した肉体とは、まるで別物だった。

窓辺まで歩く。足取りは軽いが、頼りない。

窓を開けると、朝の空気が流れ込む。庭では庭師が静かに枝を払っていた。

平和だ。

その一言で済ませるには、あまりに静かだった。

記憶を辿る。

父は穏やかだが、決断の遅い当主。

母はよく笑い、屋敷の空気を和らげる人。

長女は家の誇り。

長男は人が良い。

次女は奔放。

そして、自分はベルンハルト。

前世では常に最前線だった。今世では二番目。

家督は継がない。家を背負う立場でもない。だが、無関係でもない。

鏡に映る幼い顔を見つめる。

この身体で剣を振るえば、まだ遅い。重い。未熟だ。

橋の上の感覚と比べれば、あまりに頼りない。

だが、焦りはない。

一度死んだ身だ。急ぐ理由もない。

窓の外をもう一度見る。庭は整い、空は穏やかで、誰も死んでいない。

それだけで十分だった。

窓を閉める。

足音が廊下から近づいてくる。軽い。慌ただしくはない。

「坊ちゃま、起きておられますか」

柔らかな声だった。

「起きている」

自分の声が思ったより高く、幼い。

扉が開く。

「おはようございます。奥様が朝食をご一緒したいと」

母は今日も元気らしい。

「分かった。すぐ行く」

侍女が下がる。

服を整え、廊下へ出る。磨かれた床、差し込む陽光、遠くで誰かが笑う声。

橋の上とは、別の世界。

角を曲がった先から明るい声が響いた。

「遅いぞ、ベルンハルト」

長男だ。

その声に、わずかに口元が緩む。

静かな朝が、始まる。

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