1-1
目を開けると、天井は低かった。
白い梁が規則正しく走り、朝の光が薄く差し込んでいる。川の音も鉄の匂いもなく、代わりにあるのは乾いた布と屋敷の空気だった。
体が軽い、と感じてから、それが小さいのだと気づく。
指を動かすと細く、力が足りない。上半身を起こせば寝台がわずかに軋み、その音さえ戦場とは無縁だった。
胸に手を当て、脇腹に触れる。
傷はない。血もない。
あの橋の上で受けたはずの刃は、どこにも残っていなかった。
橋の上で最後まで立っていた記憶は、曖昧でも夢でもない。敵を斬り、退路を守り、退かなかった。そこまでを確かに覚えている。
それなのに、今はここにいる。
視線を巡らせれば、見慣れた部屋がある。壁に掛けられた家紋、机の上の木剣、窓の外に整えられた庭。戦場ではないが、知らない場所でもない。
記憶は二つあった。
橋の上の記憶と、この屋敷で育った記憶。どちらも途切れておらず、無理に繋ぎ合わせる必要もない。
混乱はない。ただ事実として、自分の中に並んでいる。
立ち上がると視線が低い。鍛え上げた肉体ではなく、成長途中の身体だと理解する。
窓に映る姿を見て、静かに確信する。
貴族の家に生まれた、次男。
名も家も思い出せる。
そして、自分の名も。
ベルンハルト。
それが今の自分だ。
寝台から足を下ろすと、床板がひやりとした。
立ち上がる。思ったよりも重心が不安定で、わずかに揺れる。この体はまだ出来上がっていない。筋肉の付き方、関節の柔らかさ、呼吸の浅さ。戦場で酷使した肉体とは、まるで別物だった。
窓辺まで歩く。足取りは軽いが、頼りない。
窓を開けると、朝の空気が流れ込む。庭では庭師が静かに枝を払っていた。
平和だ。
その一言で済ませるには、あまりに静かだった。
記憶を辿る。
父は穏やかだが、決断の遅い当主。
母はよく笑い、屋敷の空気を和らげる人。
長女は家の誇り。
長男は人が良い。
次女は奔放。
そして、自分はベルンハルト。
前世では常に最前線だった。今世では二番目。
家督は継がない。家を背負う立場でもない。だが、無関係でもない。
鏡に映る幼い顔を見つめる。
この身体で剣を振るえば、まだ遅い。重い。未熟だ。
橋の上の感覚と比べれば、あまりに頼りない。
だが、焦りはない。
一度死んだ身だ。急ぐ理由もない。
窓の外をもう一度見る。庭は整い、空は穏やかで、誰も死んでいない。
それだけで十分だった。
窓を閉める。
足音が廊下から近づいてくる。軽い。慌ただしくはない。
「坊ちゃま、起きておられますか」
柔らかな声だった。
「起きている」
自分の声が思ったより高く、幼い。
扉が開く。
「おはようございます。奥様が朝食をご一緒したいと」
母は今日も元気らしい。
「分かった。すぐ行く」
侍女が下がる。
服を整え、廊下へ出る。磨かれた床、差し込む陽光、遠くで誰かが笑う声。
橋の上とは、別の世界。
角を曲がった先から明るい声が響いた。
「遅いぞ、ベルンハルト」
長男だ。
その声に、わずかに口元が緩む。
静かな朝が、始まる。




