四 名前
彼は鮭おにぎりと昆布おにぎりを購入してきた。
飲み物は麦茶。俺は麦茶が大好き。
三食麦茶でもいいくらいに麦茶が大好き。
しかし、高校の頃「好きな食べ物は麦茶ですよ」と自己紹介したらハチャメチャに面白くないウケ狙いだと思われクラス全人分の真顔を拝見してから誰にも言ってない。
「ありがとう、姫神くん。君はとても優しいな」
「どういたしまして。ほら、食いなよ」
「ありがとう」
二つのおにぎりと麦茶を腹に収めると、腹一杯になった。
「もう暫く何も食えない」
「君は胃が小さいのかな」
「どうだろう。俺はあんまり飯を食ったことがないからわからないね。でも考えてみれば、友人たちとご飯を食うと、いつも『残すだろ』と言われていたね」
「君がご飯を残すってわかってたんだ」
「当時はエスパーか何かだと思ったよ」
俺は友人たちのことを思い出した。京都に行ったのが一人。東京に行ったのが五人。大阪で芸人をやろうというのが二人。
彼らは元気だろうか。
「さて。体力もついた。そろそろ仕事に行くよ」
「ちょっと物部さん、今日休みなよ」
「それはいけないよ。俺のようなのは働いていないと気が済まないんだ。行かせてくれるかい? …………少年」
「俺の名前忘れたんですか。名乗ったでしょ、ずいぶん前に」
「すまないねぇ。俺は頭が悪いんだね」
俺の事を好いてくれない人間などと関わるつもりもないし憶えたところで──というのもある。それを言ってはオシマイなので、言うことはなく、ただ笑顔を浮かべるばかりである。
「壗下躑躅です。さあ、おぼえて」
「記憶しておくよ。じゃあ、行ってもいいかい?」
「駄目に決まってんでしょ」
俺は彼らの手から逃れられなかった。
育ち盛りの中学三年生と、フィジカルおばけに捕らえられては、俺のような蚊蜻蛉などというのは、敵ですらない。
「たまには仕事休んでも誰も文句言わないよ」と姫神くんは言って、俺の携帯電話を取ると、「魚屋」と登録してある店長の番号を入れると、プルルと音を鳴らした。
それから暫くすると、魚屋の店長の娘さんまでやって来て、俺の部屋の鍵を取ると、三人がかりで俺を家に閉じ込めた。
「姫神くんにお仕事はないのかい? 俺に付き合わせては悪いよ」
「夜からなんだ」
「君は?」
「君って誰のことですか」
「君だよ」
弟くんが「俺の名前は」と言う。何だったか。つつみだったか。
「本当に憶えるつもりがないんですね」
「椿もよく『天獄は人の名前を憶えないからたいへんだ』と言っていたね。君は物覚えの言い方だと思っているのだけれど」
「勉強はすべて暗記だと思っているくらいには」
「人のみなのか?」
「一応、分別はつけているよ。ただ、その分別のせいで君たちからは『人の名前を憶えない奴』だと思われてしまうのかもしれない。済まないね。悪気だけはないんだ」
椿というのは。
椿というのは、つまり、つ……ま、壗下くんの兄で、俺がこの間列車に乗っていくのを見送った「友人」の事である。
「壗下くん」
「ようやく憶えましたか」
「お兄さんと同じ名前だからね。君が彼の弟で良かった」
「…………」