三 失調
アパートに帰ると、俺は冷蔵庫の中から麦茶を出してコップに注いで飲んだ。築四十年・八畳の和室。便所あり、風呂なし、シャワーのみ。
窓の外を見ると、並木があり、その奥には国立の観測所がある。ここ蝗州市・水澤区には国立天文台がある。
コップに口をつけながらその方向を眺める。
そうして二時間が過ぎた。
たまには何も考えずにこうして時間を使うのもいいだろう。夕飯という時間でもないので、その日はシャワーを浴びて眠ることにした。
翌日目を覚ますと八時で、朝飯という時間でもないので何も食わずに麦茶を腹に入れて部屋を出た。
そして、また魚屋に行き、働く。
働いていると、飯を買い忘れていたので昼飯を抜く。
帰宅するとボケッとしていて夕飯を食い忘れた。夕飯という時間でもないので麦茶を飲んでシャワーを浴びて寝る。
起きると八時で朝飯を食わずに家を出る。
昼飯を食うのも惜しいくらい今日は忙しくて食い忘れた。昼飯という時間でもないのでオバサンから貰った飴を舐める。
夕飯を買おうと思ったら財布を忘れて部屋を出た事が分かり、夕飯は諦めて部屋に帰りシャワーも浴びずに寝る。
翌朝六時、シャワーを浴びてボケーっとしていたら部屋を出る時間。朝飯も食わずに部屋を出る。
そして、倒れた。
目を覚ますと、水澤公園のベンチで、起き上がると弟くんの顔があったので、笑顔を作って「おはよう」と言う。
俺は彼に嫌われているので、これ以上のコミュニケーションは彼を不快にさせてしまう恐れがある。
「倒れたところを介抱してくれたのだろう。ありがとう。君はとても優しいね。ほんとうに優しい少年だね。ほんとうに、ほんとうに」
とだけ言って、歩こうとしたが、歩けないのだから不思議。
「栄養失調っすよ。あんた、飯食ってないのか」
「昨日飴を舐めたよ」
「飴は飯に含まれねぇよ。……今、姫神さんがコンビニに行ってなんか買ってくるって」
「姫神くんがいるのかい? これはこれは。嬉しいね」
弟くんは細目で俺を見る。俺の目のほうが細い。
「俺、ずっとあんたの事を不思議な人だと思ってたんすよ。兄ちゃんと仲いいけど、普段なにをしている人なのか全くわかんないし。中学生の時も、高校時代も、マジでずっと鍛えてるなぁとは分かってたけど、なんでかわかんないし。鍛えてる癖に身体は細いし」
「そうかい」
俺は力を振り絞って上体を起こす。
「姫神さんはあんたの事を信用してるらしいけど、俺はわかんないっすよ。どういう共通点があるのかとか。あんたがあの人に取り入ったんじゃないかとか、そういう事を考えちゃう」
「本人に言うかい」
「姫神さんがあんたを信用してるなら、俺も信用していいのかな」
たかだか中学生くらいの少年はそう言う。
「明言はできないが、俺は善人ではないよ。善人にはなれない。子供の頃は英雄に憧れてたけど、そういう力は俺にやって来ないって分かってね。鍛えていたのも諦めきれなかったからで。英雄になるには『善人』でなくちゃならない。だけど、俺は善人じゃなかったね。それは君も分かるだろう」
なんと言えばいいのだろう。会話の締め方がわからない。
「誰かを救う人間になって、ただ誰かに愛されたかったけど、それが無理なのだとわかったから、それも諦めた。今はちょうど何も持っていない時期だ。君が迷うのも無理ないね」
微笑みを弟くんに向ける。
「俺の話はそれでおしまい。ただ、年上としてひとつ余計なお世話の説教をさせていただく。いいかい。……姫神くんは神じゃない。彼を他人の善悪を判断する道具にしないでやってほしい」
地図アプリとにらめっこ