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トマリギの水

2人のスプモーニ

作者: 松本遊心

5杯め

 きっかけはたまたまだ。女はここひと月ほどで急速に行きつけとなった店の扉を引いた。オープンの時間から5分ほどしか経っていない。すぐに空調が効きバー特有の空間に染みついた匂いが全身を包んだ。ほの暗い間接照明と静かに流れるジャズがひととき現実社会を切り離し、束の間の異世界を体感できる。だが本当の来店理由はそこではない。

「いらっしゃい」女と同年代のバーテンダーが、カウンター内でフルーツの仕込みをしていた手をとめ、笑顔を向けた。

 コの字型のカウンターだけの7坪の店で、まもなく30という歳のオーナーバーテンダーがひとり店を切り盛りしている。

「外めちゃアツだよ。もう7時過ぎてるのに」女ははずむ足取りで中央のスツールに腰かけケータイだけカウンターへ置くと、ハンドバッグはひざ元のフックへ掛けた。


 バーでは基本的に小物を除いて手荷物をカウンターや隣のシートへ置くのはタブー。その店にフックや椅子の下にカゴのような物置がなければ、店で預かってもらうしかないわけだが・・・。


「みたいだね。年々最高気温を更新してるってラジオでいってた」冷たいおしぼりを広げて差し出し、「スプモーニでいい?」飲みものを訊いた。

「うん。あたし他のカクテルわかんないし」

 バーテンダーは、あははと笑って細長いグラスを取り出し氷を詰めた。

「スプモーニってさ、このカンパリってのがベースなんだけど、これを・・・このくらい入れて・・・次に、グレープフルーツジュースを・・・このくらい。・・・で、これをトニックウォーターで・・・アップして・・・っと。でもってくるりと混ぜて・・・はい、完成。どうぞ」

 バーテンダーがコースターを女の前に滑らせた。

「やったー、ありがとー。ナオくんも一緒に乾杯しよ」

 女は今日もその台詞をいったが、バーテンダーは苦笑すると両手を広げて前にのばした。

「いや、今日は気持ちだけ。だって今週はもう4日もきてくれてるじゃない。もうほんとお店として感謝してるし、あんまりここで散財したらほかのことで困るんじゃない」

「気にしないでよ。ほら、3回に一回は隣のおじさんの話相手になるだけで全部おごってもらってるし。ササキさんなんかいっつも全持ちしてくれてる。あの人から見たらあたしなんて孫だよ」

「・・・じゃあ、お言葉にあまえてビールをいただきます」

「うん、いいよ」


 20時も半ばになったころ、客がぽつりぽつりとやってきて、21時を過ぎたころにはほぼ満席になった。おのずとバーテンダーは先の女だけを相手する余裕もなくなりオーダーに追われた。またこのバーは、ガーリックトーストやレーズンバター、チーズにフルーツの盛り合わせなど20種類ほど簡単なおつまみも出していたので、傍から見ていても話しかけるのがためらわれるほど彼は忙しく動きまわっていた。

 束の間、オーダーが落ち着いたところで、女の隣でウィスキーのロックを飲んでいた男が空になったグラスをバーテンダーに振った。「いいかな」

「はい。同じものでよろしいですか」

「いや、次はアウォナドゥをもらおうか。トワイスアップで」

 バーテンダーはしばし固まると、男の視線を追ってバックバーのボトルを見渡した。女は隣で聞いていて、この初見の男が何をいっているのかさっぱりわからなかったが、バーテンダーが困惑していることだけはわかった。そうこうしてる間にも、他の客からおかわりの声が飛んでいる。

 バーテンダーは意を決したように振り返って、男の前で頭を下げた。

「すみません。ぼくの勉強不足です。どのウィスキーのことをおっしゃってるんでしょうか」

 あれほど賑やかだった店内がしんとなった。ジャズの音色だけが変わらず流れている。

 男は自身が考えていたより場が白けてしまったことに何を思ったのか、ちいさく舌打ちすると頭をぼりぼりとかき、懐から長財布をだすと千円札を2枚抜いてカウンターへ置いて席を立った。そしてバーテンダーを正面に見据えた。

「ほれ、そこのグレンフィディックのとなり、アベラワー」顎をしゃくり、それだけいって店を後にした。

 それからしばらくはバーテンダーは気を落としていたが、常連客のフォローや励ましで少しずつ笑顔を取り戻していった。


 スコッチウィスキーには大別するとシングルモルトとブレンデッドがある。焼酎で例えるなら前者がパッケージに本格焼酎と書かれた乙類で、後者は梅酒などをつくるときに使う甲類と複数の乙類を合わせたものになる。そのシングルモルトの代表格のウィスキーがグレンフィディックで、同じエリアでつくられているものにアベラワーというブランドがある。

 男がいっていたアウォナドゥとは、スコットランドやアイルランドの古語で、≪起源≫という意味で、アベラワーのボトル表記の下にそれよりちいさな文字で書かれてある。いわばアベラワーが映画でいう主題で、もう一方は副題ということになる。その副題だけを聞いて、あぁあの役者が主演のあの映画だね、と理解できる人はかなりの通というわけだが。


 閉店時間の3時を10分ほど過ぎて、女以外の客はいなくなった。バーテンダーはグラスと皿を洗っている。

「よかったら、あたし手伝おうか?」

 女は開店から閉店までいて、スプモーニを4杯飲んだあとはずっと水を飲んでいた。

 バーテンダーは手を休めず顔だけ女に向けた。「ありがとう。でも大丈夫だよ」そういうと、なにかを思い出したかのように蛇口の水を止め、体ごと彼女へ向き直った。

「おれさ、この店開いてまだ1年ちょっとでしょ。・・・じつはついさっきまで、すげーイラついてたんだ、あのお客さんに。ほかにお客さんがいっぱいいるときにはずかしめを受けてって。だけど、時間が経って冷静になってみたら、やっぱりそうじゃないって思いなおした。じぶんの勉強不足を棚に上げて、ほんと自覚がたりないというか、プロとして失格。・・・ごめん、お客さんにこんな口の利き方するのもバーテンダーとしてダメってのも分かってるんだけど・・・甘えてるね」

「あたし、まったく気にしてないよ。ナオくんはそのままでいいよ」

「そうだ、なにか飲む?お店からのおごりで」

 女は視線を天井に向けた。「そういえばあの男の人、なんとかのなんとかアップっていってなかった?あれなに」

 バーテンダーも釣られて天井に視線を送ると少し考えて、「あぁ、トワイスアップのこと?」

「そうそう、それ」

「トワイスアップは常温のお酒と水を1対1で割る飲み方のことだよ。主にウィスキーのことを指すけど」

「ふ~ん。・・・じゃあ・・・、お店のおごりで炭酸水とお水をトワイスアップでもらっちゃおうかな」

「え、いいのそれで」

「うん、今日はもうお酒はギブ」

 BGMが消えた店内に二人の笑い声が広がった。

 


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