9
社の中は外から見るよりは広かった。
奥の部屋には小さな囲炉裏が切ってあって、隅の棚の中には質素な器の類がいくつか収められてある。
そこには確かに、誰かの暮らしの気配があった。
けれど、囲炉裏の中に火の気はなく、その真ん中あたりには、小さな鍋らしきものが転がって灰をかぶっていた。
「代々の水守姫はここでお暮らしになったのです。
たった一人、ここでひたすらに竜神様に祈りを捧げつつ、ただそのお姿を望める日を待って。」
蛍は黙って鍋を取り上げると着物の袖でぐいぐいとこすった。
鋳物の鍋はすっかりさび付いてぽろぽろと壊れて零れ落ちる。
蛍は磨くのは諦めて、そっともとの位置に戻した。
「もう長い間使っておりませんから。
わたしには、その、必要はなかったので…」
淡海はすまなさそうに言うと、すっと手を囲炉裏にかざした。
燃やすものなど何も入っていなかった囲炉裏に、ぽっと明るい火が灯った。
「せめて火を灯しましょう。
外は寒かったでしょう。
どうぞ、温まってください。」
淡海に促されて蛍と瑞穂は火の側に座った。
ゆらゆらと揺れる不思議な火は、少しも熱くはなく、手をかざすとふうわりと温かかった。
「このくらいしか、して差し上げられることはないのですけれど。」
淡海は申し訳なさそうに言って、自分も火の側に座る。
誰も口を開くものはなく、三人ともただ黙ってしばらくその火を見つめていた。
「この山の竜神は、狂っておられるのか?」
ぼそり、と蛍がそう尋ねた。
びくりと瑞穂が身を硬くする。
淡海は小さく息をついてから、いいえ、と首を振った。
「狂ってなどいません。
ただ、その力がもはや失われつつあるのは事実です。
それゆえ、あの暗い風を阻みきることができなくなってしまったのです。」
淡海は火を見つめたまま悲しそうに言った。
「竜神とはいえ、この世界の理の中に存在するものであるのなら、いずれその力の衰えるときがくるのは必定。
けれど、それに変わる新しい力が、今ここにはありません。」
「竜神に替わる神がいない?」
「ええ、そうです。
封印を守るわたしの力ももう限界です。
このまま雪が降らなければ、この冬は、きっとあの暗い風から都を守ることはもうできないでしょう。」
淡海は悲しそうにうつむいた。
「雪輪紋の封印、か。」
蛍は山に初めて入ったときに見た封印の紋章を思い出した。
「ええ、そうです。
竜神様をお助けするためにあの封印はわたしが描きました。
けれど雪輪の紋章はその名の通り、雪にその力の源があります。
冬に雪が降らなければ、紋章の力は弱まるばかり。
わたしがいくら力を送っても、この山のすべての紋章を守りきることなど、とうてい適いません。」
淡海は大きくため息をついた。
その姿は小さく縮んでしまったようだった。
「雪…
でも、それこそ神様でもなければ、雪を降らせたりすることなど、できませんわね。」
瑞穂がぽつりと言った。
その言葉にますます淡海は小さくなってしまったようだった。
蛍もただうなるだけで、何を言うこともできなかった。
「あの、では新しい紋章を描くというのはどうかしら?
雪が降らないなら、花とか紅葉とか。
紅葉なんてほら、今年はなかなかの美しさでしたわ。」
何とか打開策を見つけようとしぼりだした瑞穂の案は、淡海と蛍の苦笑に消されてしまった。
瑞穂はしょんぼりと下をむいた。
「ごめんなさい。わけも分からずにこんなことを言って。」
「いや、ほかの紋章というのは考えないでもない。
でも、今ここで使えそうなものは、ちょっと思い付かないかな。」
蛍がとりなすように言う。
淡海もうんうんと力強くうなずいた。
蛍は淡海のほうをむいて再び尋ねた。
「暗い風。それが、あの王子の言っていた都に病を撒き散らすものなんだな。」
「ええそうです。」
「その元は分かっているのか?」
「はい。」
うなずいたものの、淡海は悲しそうに目をそらせてしばらくそのまま黙っていた。
やがて、開きたくない口を開くようにして淡海は言った。
「竜神様に守られたこの土地はとても豊かな地です。
けれど、その豊かさはまた、外の世界から、妬みや嫉みを呼ぶ元ともなる。
一人一人の人は意識もしていないほどの小さな妬みが、いつか積もり積もって大きな憎しみともなるのです。
けれど、その思いを抱いてしまう人々に罪はありません。
誰も、そんな豊かな都など滅んでしまえとまでは、思ってはいないのですから。」
「…なるほど。」
淡海の言葉に蛍はため息をついた。
「つまり、その風そのものを防ぐほかに都を守る術はないと。」
「ずっと、竜神様は暗い風から都を守ってこられました。
けれど、それはまた竜神様のお力を著しく削いできたのです。」
「そんなに前から?」
「はい。」
淡海は悲しそうにうなずいた。
瑞穂が大きなため息をついた。
「まさか、そんなことがあったなんて、思いもしませんでした。」
「…その暗い風が怪のような形をもつことができれば…」
蛍は誰にともなくそうつぶやくとじっと自分の手を見つめた。
「この身に封じられないかな。」
「無理です。やめてください!」
はじかれたように淡海が叫んだ。
「山に施した封印ですら防ぎきれぬもの、竜神様ですらそのお力を削がれるほどのものです。
ただ一人の人の身に支えきれるものではありません。」
きっぱりと淡海は言ってじっと蛍を見つめた。
それに蛍はやわらかい視線を返した。
「大丈夫。人にはときとしてそのくらいの力はある。」
「命と引き換えにすれば、でしょう?」
淡海は悲しそうに首を振った。
「いけません。
それはだめです。
絶対に絶対にだめです。
そんな考えは今すぐ捨ててください。
さもないと…」
「さもないと?」
口ごもった淡海の言葉を引き取って蛍が問い返す。
淡海はじっと唇をかむようにして恨めしそうに蛍を見上げた。
その瞳からぼろぼろと涙の珠が零れ落ちる。
それはうっすらと青い色がついていた。
「いいえ、だめです。
やっぱりだめです。
それだけはだめです。
このわたしが認めません。
たとえ、天地神明のすべてが認めたとしても、わたしは絶対に認めません。
蛍さん。お願いですから、そんなことはなさらないと、どうかそうおっしゃってください。
…それに、暗い風はこれで終わりではありません…
たとえ一度防いだとしても、また必ず吹くのです。だから!」
「やらなければならないのはそんなことじゃない、か。」
蛍の言葉に淡海は強くうなずいた。
瑞穂もうんうんとうなずいている。
「でも、じゃあ、どうすればいいんだ…」
三人は再び火を見つめたままじっとそれぞれの考えに沈みこんでいった。
日の暮れる前に蛍と瑞穂は山を下りた。
今度も淡海は山の麓まで二人を見送ってくれた。
妙案など結局誰の頭からも出てきはしなかったけれど、少なくとも、竜神が王子の言っていたような狂った竜ではないことは分かって、瑞穂はそれだけでもよかったと思っていた。
王宮の蛍の部屋に、瑞穂いわく、こっそりと、二人は忍び込んだ。
部屋に明かりはなくて、今日の脱出は誰にも見つからなかったと瑞穂が喜びの声を上げた途端、突然まぶしいほどの灯りが灯って、黒い人影がその中に二つ浮かんだ。
「おかえり、わが妃どの。それで、今日はどちらへお出かけか?」
「まったく、あなた方はどうしてそうじっとしていてくださらないのです?」
「俺もそう毎日毎日遠駆けばかりしているわけにはいかないんだぞ。」
まぶしさに目がくらんでいる二人のところに次々と小言が降ってくる。
ひゃあ、と瑞穂は妙な声を上げて、頭を抱えてしゃがみこんだ。
「ごめんなさい、殿下。ごめんなさい。」
「…千秋?お前、千秋なのか?」
瑞穂の横で蛍は呆然と人影のひとつを見つめていた。
王子に負けず劣らず背だけは高いほっそりとした少年が蛍を見て涼しく笑った。
「お初にお目にかかります。蛍さま。」
「え?千秋?千秋ですって?」
蛍の言葉に瑞穂は弾かれたように立ち上がると、少年のほうへと駆け寄って、いきなりその胸元をつかんでぐいと顔を引き寄せた。
「あなた、本当に千秋なの?
病に倒れたというのは、では、嘘だったの?
それとももう治ったのかしら?
ねえ、もっとちゃんと顔を見せてちょうだい。」
「苦しいです、姉上。」
千秋は静かにそう言うと、腰をかがめて瑞穂の前に顔を出した。
「あなた本当に千秋なの?
まあまあ、あなた、またどうして、こんなにすくすくと育っちゃって…
こーんなにちっちゃくて可愛かったのに…。」
瑞穂は自分の膝の辺りでぐりぐりと頭をなでるようなまねをした。
千秋が少しいやな顔をする。
「十年も経てば、僕も成長しますからね。」
「ああ、そうよ、その小憎たらしい口のきき方、それにこの小憎たらしい目。
やっぱりこれは千秋だわ。間違いないわ。」
拍手をして喜ぶ瑞穂に千秋はますます憮然とした表情になった。
「そんなところで分かっていただくのも今ひとつ納得いきませんが。
まあ、でも、分かっていただけて嬉しいですよ。」
「まあまあ、あなたそんな憎まれ口ばかりきいて、わたくしがあなたのことをどれだけ心配していたか分かる?
ねえ、ちょっと、分かっていらっしゃるの?」
くってかかる瑞穂に千秋はうるさそうに手を振ってみせた。
「はいはい。
禁を破ってお城を抜け出し、水守山に入り込んで、水守姫とこちらの蛍さまに助けていただいたのですよね?
蛍さまがいらっしゃらなければあなたは今頃怪の腹の中だし、殿下がいらっしゃらなければ今頃城の牢屋の中にいた御身の上だ。
まったく、どうしてそういつもいつも考えなしに行動なさるのか、僕には理解できません。」
瑞穂に負けず劣らず滔々と、千秋は言った。
そういうところは姉弟して、そっくりなようだ。
「あ、あなたねえ、ちょっと、どうして、そう…」
怒りのあまりか反論の言葉が出てこずに、口をぱくぱくさせる瑞穂の前に、いきなり千秋はひざまずいてその手をとった。
「ごめんなさい、姉上。ご心配をおかけしました。
でも、この通りもう大丈夫です。
病も癒えたのでこうして殿下のお召しにお応えして都に参りました。
十年ぶりに姉上にもお会いできて、姉上の健やかそうなご様子に心から嬉しく思っております。」
「まあ、あなた、まあ、まあ。」
千秋の一人前な態度に瑞穂は今度はみるみる目をうるませて、まあまあを連発した。
「あなたがこんなふうにご立派なご挨拶をなさるときが来るとは思いませんでしたわ。
この立派なお姿を、お父上お母上にもお見せできればどんなによいか…」
「父上母上もきっと見ていてくださいますよ。
お二方が見守ってくださるからこそ、姉上もこのようにご健勝でいられるのでしょうから。」
千秋の言葉に瑞穂は感極まったというように両手で口元を抑えた。
「まあ、まあ、そうですわね、きっと、そうですわ。
わたくし、わたくし、もう本当に嬉しくてよ。」
千秋がそっぽをむいてそっと肩をすくめたのに、ただ蛍だけが気づいていた。
蛍と目が合って、千秋はいたずらを見つけられた子どものように、小さく首をすくめてみせた。
「ところで姉上、姉弟の再会はこのくらいにして、蛍さまにもご挨拶をさせてください。」
「蛍さま?そういえばあなたと蛍さまはお知り合いでしたの?」
瑞穂の問いかけには答えず、千秋はいったん姿勢を直すと蛍の前に姿勢を正して膝をついた。
それはシキの民の最高の礼をとる姿だった。
「遠路はるばるこの地まで、よくおいでくださいました、蛍さま。
古えのシキの血をひく姫君様。」
「そんなに丁寧にしていただく必要はない。
わたしの一族はもう滅んでいるのだから。
たった一人生き残って姫だなどと、片腹痛い。」
「姫君?ではやっぱり、蛍さまは姫君でしたの?」
目を丸くする瑞穂に蛍は苦笑した。
「だから、そんなご大層なものではないんだ。
ほかにもう誰もいないんだから。」
「いいえ。姉上、よくお聞きください。
この方は古いときに、わが一族と袂を分かった一族の姫君なのです。
我らは後にひとところに住むことを選び、それゆえに多くシキとしての力を失ってしまいました。
けれども、この方は古えからのシキの習いの通りに旅の中に生き、そして古えからのシキの力を今に引き継いでいらっしゃるのです。」
「こっちだって失われたものは多い。同じことだ。」
そっけなく言って蛍は千秋の前に膝を着くと、複雑な仕草で空中に何かを描いてから両手をじっと胸の前で合わせて、千秋を拝むように頭を下げた。
シキの民ではない王子にも、部屋のなかに清浄な気のようなものが満ちたのを感じられた。
場を清め、相手の行方を祝福する。
それはシキの姫としての正式な答礼だった。
飾り気もなく少年のような身なりをしていても、蛍の仕草はこの上なく優美で、はっとするほどに美しかった。
王子ですら息を呑んで蛍のすることをただ見守っていた。
答礼をすませると蛍はさっさと立って千秋の手をとって引き起こした。
「さあ、もうこんなことはおしまい。
王子と瑞穂が困るだろう。」
千秋ははっと我に返ったような目をして蛍を見上げた。
「まったく、うちの姉に爪の垢でも頂きたいほどです。
同じ姫でこうも違うかと思うと。」
「瑞穂姫は立派な姫さんだ。
わたしのほうがよほど山猿だな。」
蛍はそう言うと珍しく微笑んで千秋の頭をぽんぽんと軽くたたいた。
千秋はうっすらと頬を染めてむっとしたように口をとがらせた。
「僕を子ども扱いなさるのは、いい加減、やめていただきたいですね。」
「悪い悪い。」
蛍がくすくす笑いをもらしたところへ、忘れ去られていた王子がぬっと顔をだした。
「ところで、今日はどちらへお出かけかな。妃殿。」
「水守姫のところへ。」
蛍はすっと笑顔をひっこめると王子を見て答えた。
蛍の目をまっすぐに受け止めて、王子は深々とため息をついた。
「やっぱりね。まあ、そんなところだろうとは思っていた。
何をしに、なんてのは愚問だな。」
「殿下、やはり竜神様は殿下の思っていらっしゃるような方ではありませんわ。」
瑞穂が思いつめたような目をして水守姫と話してきたことを王子に伝えた。
王子の瞳はただ冷静に瑞穂を見た。
「何を聞いてきたのかは知らないが、俺はそんなたわ言をあっさり信じるわけにはいかないな。」
すべてを聞き終えた王子は冷たくそう言い放った。
「いいえ、殿下、どうかお聞きください。
水守姫はこの都を暗い風から守るために…」
「お前たちが会ったその相手がどうして本物の水守姫だと分かる?」
「そのような嘘をつくことはないと思う。」
加勢をするように言った蛍をも王子は冷ややかに見返した。
「なるほど。しかし、その方が自分を水守姫だと思い込んでいる、という可能性は?」
「ま、まさか、あの方が本当の水守姫でないなどということは…」
瑞穂は言いかけて呆然とする。
蛍の表情が憮然となった。
王子はそれ見たことか、という表情をして言った。
「本当の水守姫を見分けることなど誰にもできない。
その相手が自ら水守姫と名乗ったにすぎない。」
王子に言われて瑞穂ははっと目を丸くした。
そしてゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、あの方は自らそう名乗ってもいらっしゃいませんわ。
わたくしがそうお呼びしたというだけ。
では、あの方は…?」
「水守姫を名乗る、あるいは自分が水守姫だと思い込んでいる別人だという可能性もなくはない。」
蛍は黙ってただ王子と瑞穂を見ていた。
その瞳には何の感情も伺えなかった。
その蛍をじっと見つめる瞳があった。
千秋だった。
そして、千秋の瞳にも何の表情も映らなかった。
「でも、そんなことをしても、あの方には何にもいいことはありませんわ。」
瑞穂が呆然と反論した言葉も王子には通じなかった。
「どんな得があるのか、それが分からないとしても、それがその相手を本物と見極める証拠にはならない。」
蛍が今にも何か言おうとして口を開くその直前に、千秋が口を開いた。
「けれど、その方が雪輪紋の封印を描いたのならば、少なくともその方はシキの民と同じほどには精霊の束縛を受けていらっしゃるはずです。
ならば、意図的に嘘をつくということはとても難しいはず。
もっとも、さらに大きな存在、たとえば、神と呼ばれるほどのものに嘘をつかされているのだとすれば別ですが…。」
蛍は言いかけていた言葉を飲み込んでじっと千秋を見上げた。
瑞穂も助けを求めるように千秋を見ている。
ふたつの視線を十分に意識しつつ千秋は言った。
「もっとも、雪輪紋ですらその方が描いたと言っているだけで、本当のところは誰が描いたものかは分からないのでしたっけ。」
それを聞いた瑞穂はあからさまに落胆した表情になった。
蛍も誰にも分からないほどに小さく唇をかんだ。
ただ、千晶だけが、その蛍に気づいていた。