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ばたん、という音がして、いきなりまぶしい朝の光が冷たい風とともに入ってきた。
蛍は腕で目をかばいながらうーんとひとつうなってから、驚いたように飛び起きた。
瑞穂の丸い顔がにこにこと目の前で笑っていた。
「あ、あ、…」
いきなりで言葉の出ない蛍の鼻を、瑞穂は楽しそうにつまんだ。
「おはようございます、蛍さま。
さあ、朝ですわ、お出かけしましょう。
今日はどこから参りましょうか?
ここはまず、いきなり水守姫のところに伺うというのはいかがでしょう?
それとも王宮の書庫に埋まるというのも一手ではありますわ。
わたくし、あそこはあまり得意ではありませんけれど、殿下のお考えの根拠はあの書物の山の中から発掘されたのですから、見ておいても損はないかもしれません。
もっとも、そんなかび臭いお仕事は、それがお得意な方に任しておくのにこしたことはありませんけれど。」
立て板に水のように話す瑞穂を、蛍はただ呆然と見守ってしまっていたが、ふと我に返ると頭を振って何とか思考を取り戻した。
「今日は水守姫に会いに行こうと思っていた。」
「やっぱり、そうですわよねえ!
わたくしたち、気が合いますわ!!」
嬉しげに瑞穂に手を握られて、蛍はどうしたものかと目をさまよわせる。
どうにも、瑞穂にはいつも調子を狂わされるような気がする。
「やっぱりこういうことは足を動かして、体を動かして、あたって砕けて、そこから何かを得ていくものですもの。
さあ、お支度をいたしましょう。お手伝いいたしますわ。」
「自分でできる。」
ぼそりとそう言って、起きたそのままの姿で顔だけ洗って出ようとする蛍を、瑞穂はぐいと捕まえた。
「まあた、そんな寝間着のままで。
いけませんわ、王子妃たるものが、そのようなだらしないことでは。」
うんざりした顔で振り返る蛍の前に、瑞穂はほら、と何やら新しい着物を一式取り出して見せた。
「何だ、それは?」
「このために、わたくし、徹夜いたしましたのよ。
でも、おかげで会心の作になりましたわ。さあ、どうぞお召しくださいまし。」
話しながらもさっさと蛍の寝間着を脱がしにかかっている。
瑞穂にされるままに会心の作とやらを身にまとった蛍は、不満どころかみるみる嬉しそうな顔になった。
「ほおら、いかが?
なかなかなものでしょう?
蛍さまが以前に着ていらしたものよりも、まださらに動きやすいと思いますわ。」
丈の短い上衣に細身の袴。
寸法もほっそりとした蛍の体にぴったりとあっている。
どこか下働きの少年のように見えなくもないが、生地は上等のもので風も通さなかった。
「あなたのお着物は申し訳のないことに誰かが捨ててしまったのですわ。
あの術のかかった布もです。
あれがないとお困りになるのでしょう?
本当にどうお詫びしたらいいのか。」
困ったように詫びる瑞穂に、蛍は笑って首を振って見せた。
「大丈夫、布があれば、あんなのはまた作れる。
それよりも、いいのだろうか、こんないいものをもらってしまっても?」
「もちろん、ですわ。
あなたはわたくしの命の恩人ですもの。
こんなことくらいではとても足りません。
ご恩は一生かけて返してまいりますから。」
「恩なんて、もう十分だから。」
蛍は瑞穂に笑いかけてから、もう一度、心底嬉しそうに、しげしげと新しい着物を眺めた。
「それより、これはあなたがわざわざ作ってくれたんだ。
徹夜までして、すまない。」
「いいえ、わたくし、こう見えましてもお裁縫は得意なほうですの。
着物などちょちょいのちょい、で、仕上げてしまいましてよ。
一晩もかかったのは、もう一枚作っていたからですわ。」
ほら、と瑞穂はもう一枚取り出すと、今度はそそくさと自分が着物を脱ぎ始めた。
「こんなひらひらした格好では、またあなたの足手まといになってしまいますわ。
脱出するには変装するのが基本ですし。
ですからね、ほおら、わたくしも。」
瑞穂の着物のほうは、蛍のものよりも少し上衣の丈が長く、袴もゆったりしている。
色合いも微妙に明るめで、飾り紐もついていた。
二人並ぶと、お仕着せを着た下働きの少年少女、風である。
「こちらのほうがよろしければ、替えてさしあげましてよ。
でも、蛍さまは余計なものがついていると、邪魔だ、動きにくい、破りそうだ、とおっしゃるから。」
瑞穂は昨夜の蛍の大騒ぎを思い出したのか一人でくすくすと笑った。
瑞穂など着たこともないほど何の装飾もないただの着物なのに、薄物を羽織らせただけでも蛍はぶうぶう文句を言い通しだったのである。
「きれいなものや、可愛いものは、たとえ少しくらい邪魔になっても必要だと思うのですけれど。」
瑞穂はすねたように口をとがらせてみせたけれど、すぐにまた笑い出して、背中に隠していたものを、嬉しげにとりだした。
「ですから、あなたにはこれで仕上げです。これなら邪魔にはなりませんでしょう?」
それは美しい色で織られた細い帯だった。
帯には紐がついていて、そこにぴったりとあの蛍の大きな剣を収めることができた。
帯の色目は着物の色とよく合っていて、たすきにかけると、美貌の少年剣士の一丁上がりだった。
「折角ですから髪もきれいに結びましょう。
いいえ、かえって邪魔にならないくらいですから、どうぞここはわたくしに任せて、おとなしくしていらっしゃいまし。」
瑞穂は手早く蛍の髪をまとめて帯とそろいの紐で小さく結い上げてしまった。
仕上がった蛍を見て、満足そうにうなずく。
「さて、では脱出ですわ。いざ、まいりましょう、蛍さま。」
瑞穂にすっかり主導権を握られて、蛍はおとなしくついていった。
市場の屋台であれこれ買ってそれで朝食をすませると、二人はすぐに水守山へとむかった。
山はとりつくしまもないように、どこからも入るのによさそうな口は見つからなかったけれど、蛍は昨日山から下りた場所を正確に覚えていて、そこから二人は山へと踏み込んだ。
大木の枝の陰の小さな通り道を潜り抜けると、辺りの空気にぴりぴりとした違和感がある。
入ってはいけない場所だと本能が告げるのを押さえ込んで、二人は山に入っていった。
木の根や草が生い茂り、とても歩けたものではない道を、蛍が先に立って進む。
と、十歩ほども進んだ辺りでいきなり蛍が立ち止まったので、すぐ後についてきていた瑞穂はその背中にぶつかってしりもちをついてしまった。
「蛍さま?」
問いたげに見上げる瑞穂を振り返って、蛍はしーっと指を唇に当ててみせた。
瑞穂が口をつぐむと、そのままその指で道の先のほうを示してみせる。
瑞穂が目をむけると、白い小さな人影が木の足元のところに膝を抱えて座るようにしてうずくまっていた。
「水守姫?」
聞こえるほどの声ではなかったはずなのに、いきなり淡海は顔を上げると眠そうな瞳を蛍と瑞穂のほうにむけた。
「あ。蛍さん。」
蛍を見つけた淡海は瞳をぱっちりと開いて嬉しそうに輝かせた。
蛍の背中から瑞穂が顔をだすと、あ、瑞穂さんもいらしたんですか、と嬉しそうに微笑んだ。
それにきまり悪そうに瑞穂は言った。
「山には入るな、とおっしゃられましたけれど…」
「ええ、本当は、入ってはいけません、と言うのがわたしのお役目なんですけれど。」
淡海はゆっくりと立ち上がるとにこにこと瑞穂のほうへ歩み寄ってきた。
「蛍さんと一緒にいらしたんですね?
なら仕方ありません。
山の方々も今のところは怒ってはいらっしゃらないようですし。
山の方々のお咎めがないのならば、わたしに咎める理由もありませんよ。」
「よかった。」
淡海の笑顔に瑞穂もほっとしたように笑い返した。
淡海はその視線を蛍のほうに移すと、まるで長い間別れていた肉親に出会ったように懐かしそうにじっと見つめた。
その瞳はきらきらと輝いて、光る雫がぽとぽとと頬から転がり落ちた。
「あの、水守姫?どうなさったの?」
急に泣き出した淡海に驚いて瑞穂が声をかける。
淡海は恥ずかしそうに手で涙をぬぐってから笑った。
「あ、ごめんなさい。
おかしいですね、こんなの。
でも、もうお会いできないのではと不安に思っていましたから、こうしてお会いできて本当に嬉しいんです。」
「もう会えないって、まだたったの一日ですわ。」
「ええ、でもそのたったの一日が、わたしには百の冬より長く感じました。」
淡海の瞳が一瞬凍りついた冬の湖のような色に染まる。
ただ黙って見ている蛍の胸がどきりとなる。
けれど、瑞穂はそれには気づかなかったように、そのまま続けた。
「それで、ずっとここで待っていらしたの?
まさか、あのままずっとここにいたというわけではありませんよね?」
瑞穂の問いに淡海は恥ずかしそうにうつむいて小さく笑った。
瑞穂の目が丸くなって、まあ、と言ったきり、ぽっかりと口を開いてただじっと淡海を見つめた。
仕方なしに言い訳をするように淡海は言った。
「蛍さんはまた戻っていらっしゃると思っておりましたから、ここでお待ちしていたんです。
山に入られたらすぐにお会いできるように。
蛍さんはもちろん、山の方々のお怒りに触れるようなことはなさいませんけれど、それでも、わたしと一緒のほうが歩きやすいでしょうし。」
「けれど、ただじっと一所で待っているには少し長い時間でしたでしょう?」
「わたしは、眠る必要もありませんし、取り立ててしなければならないこともありませんから、どこにい
てもそう変わりません。」
「でも、疲れているんじゃないのか?」
蛍が心配そうな目をすると淡海は嬉しそうな顔になった。
「さっきはなぜかうとうとしてしまいました。
こんなことはこの山に入ってから初めてのことです。
眠りがとても心地よいものだと、本当に久方ぶりに思い出しました。
…とても、いい夢をみて…とてもいい気持ちで目を覚ましたら…、そこに蛍さんがいらっしゃいました。
夢の中よりもいいことが待っていました。」
「どんないい夢をごらんになったの?」
「秘密です。」
瑞穂の問いにくすくす笑いを返しながら淡海は踊るように歩き始めた。
しゃらりしゃらりと鈴が鳴る。
蛍と瑞穂には辺りのぴりぴりした空気がすっと和らぐように感じられた。
「さて、立ち話もなんですから、わたしの庵においでくださいませんか?
何のお構いもできませんけれど、足を休めることくらいはできましょう。」
淡海の招きに応じて、蛍と瑞穂は付いていった。
淡海の側にいるだけで、山の空気ががらりと変わる。
刺すように冷たい冬の風もふうわりと優しく涼やかで、足をとるように盛り上がっていた木の根や草むらも、心なしか歩きやすく平らになっている。
どこか恐ろしげな山のすべてが優しく温かく包み込んでくれるような気がした。
「あなたはこの山に愛されているんだなあ。」
蛍がしみじみとそうつぶやくと淡海は嬉しそうに振り返って見た。
「本当にいい方ばかりですから、ここは。
わたしもこのような方々にお仕えできて本当によかったと、そう思っております。」
淡海の笑顔が零れる。
しゃらしゃらと鈴が鳴る。
きらきらとした綺麗なものがあたりに振りまかれる。
「何よりも、あなたがそんな方だから山の方々も大切にしてくださるのだと思いますわ。」
淡海を見て瑞穂はしみじみとつぶやいた。
蛍も隣でうなずいている。
それに淡海はまた嬉しそうに微笑んだ。
「そんなふうにお二人にほめていただけるなんて、もうわたしはどうしたらいいか分からないくらい嬉しいです。
本当に本当に。
あなた方にお会いできたことを感謝します。」
あふれる思いを受け止めるように淡海はそっと瞳を閉じて胸の前に腕を差し出した。
あたたかい色の光がそこに現れて、ひとかかえほどもある大きな光の珠になる。
珠の光が最高潮に達したとき、淡海はぱっと目を開くとそれを空にむかって投げ上げた。
「あなた方がいらっしゃれば雪のないこの年も越せるかもしれません。
喜びの光は何より山の方々のお力になります。
そして、わたしはあなた方にお会いしているだけで、こんなに嬉しくて嬉しくて仕方ないんです。」
まあ、と言った瑞穂の顔が心なしか曇る。
蛍は眉をひそめて淡海を見ていたが、何かを決めたようにぐっと口を結んだ。
そんな二人の様子に気づいて、淡海は途端に不安そうな目になって、あの、どうかしましたか?と恐る恐る尋ねた。
それにあわてて瑞穂は笑顔をむけた。
「あ、いいえ、なんでもありませんの。
ただ、わたくしたち、ちょっとあなたにいろいろとお聞きしたことがありまして、それで今日うかがったのですけれど…、でも、お聞きするまでもないかもしれませんわ。」
「どんなことでもお答えいたしますよ、瑞穂さん。
冴風王子のご心配のことはわたしも分かっていますから。」
淡海はふっと寂しそうな目になってそう言った。
「けれど、そのお話は庵の中でいたしましょう。
ほら、もう着きました。」
淡海のさし示すその先に小さな白木造りの社が立っていた。
「狭いですけれど、床を作ってありますから履物を解いて休んでいただけます。
さあ、どうぞ。」
淡海に招かれるままに、二人はその中に入っていった。