7
王子の部屋から戻る途中、蛍は隣を歩く瑞穂に話しかけた。
「水守姫というのは何だ?」
瑞穂が振り返る。
蛍はじっとその瞳を見つめた。
瑞穂は少し考えるようにしてから言葉を続けた。
「竜神様にお仕えする巫女姫のことです。
特に、最後に捧げられた巫女姫をそうお呼びするのですわ。」
「何故、山を守っているのに、水を守る姫、なのだろう?」
「さあ。それは、わたくしも存じません。
ずっと、あの方のお名前だと思っておりました。」
しかし、淡海は蛍に、自ら、淡海、という名を名乗っている。
だとすれば、水守姫、というのは称号だ。
「百年前に捧げられた生贄というのは?」
「…あの、山で出会った方、だと思います。」
瑞穂の返答に蛍はしばらく何かを考え込んだ。
その横顔を見つめて今度は瑞穂から言った。
「まさか、あのようなお姿で今も山にいらっしゃるとは思いませんでしたわ。」
「あの方は百年前からずっとあそこにいるのか?」
「おそらく。」
「しかし、なら、何故、あの方はずっと山を守っているんだ?」
淡海は生身の人ではなく、霊魂に近い存在だと蛍も最初から感じていた。
しかし、もしも生贄にされ恨み悲しみながら竜に喰われたのならば、今もその山を守っているというのが理解できない。
何より、淡海の様子に恨みだとか憎しみだとかいうものの影は感じられなかった。
「いや、違う。何か、違う。」
蛍のつぶやきを瑞穂はただ見守っていた。
「王子は何かを間違っている。」
「けれど、では、あの十年前の病の風はいったいどういう…?」
瑞穂のつぶやきに蛍は目を上げた。
瑞穂のそむけた顔に深い悲しみが刻み付けられている。
蛍はそれ以上の言葉を飲み込んで、やわらかい瞳で瑞穂を見つめた。
その瞳に気づいて、瑞穂は目を上げると静かに微笑んだ。
「申し訳ございません。
あのことになると、いまだにわたくしも心を乱されてしまうのです。
もう十年も経つというのに。
少しも忘れることなどできないものですね。
こんな、こんな、みっともない、そう思うのですけれど、それでも、どうしても…」
蛍が黙って首を横に振ると、瑞穂の瞳にじんわりと涙が浮かんできた。
「わたくし、七つのときにこの都に参ったのです。
王子妃というのは体のいい言い訳。
本当のところはただの人質ですわ。
そんな身の上は幼い心にも察せられるもので、わたくしは毎日が不安で、ただただ両親が恋しくてなりませんでした。
そんなときに両親が共に病に倒れたと、そんな知らせが届いたのですわ。
わたくし、もちろんお城を抜け出して、夜の山を走りました。
ただただひたすらに。
けれど、わたくしが山だと思っていたのは、お城の裏庭にすぎず、わたくしはこの都の外にすら出ることはできないままに、ただ両親の死の知らせのみを受け取ったのです。
お弔いにすら、わたくしは行くことを許されませんでした。」
こらえきれずに嗚咽をもらす瑞穂を、蛍は慰めるように抱きかかえた。
「蛍さま、これは内緒のことですわ。
誰にも言わないでくださいまし。
わたくしが、このわたくしが、人前で涙を見せるなど、ありえないことなのですの。
ええ、ええ、ただ一人の方を除いて、涙など見せたことはございませんわ。
その方ももうここにはいらっしゃいませんし。」
言い訳を続けながら瑞穂は蛍の肩に顔を伏せた。
蛍はそれを受け止めてただ黙って背中をなでていた。
「蛍さま、あなたはあの方と同じ匂いがします。
シキの血なんでしょうか。
月澄さま、あの方はお祖父さまがシキの民でした。
月澄さまもそんなふうにぎこちなく、わたくしの髪をなでてくださいましたわ。
ずっと、わたくしがここに来たときから、わたくしの寂しさも不安も、みんなあの方が包み込んで守っていてくださったのです。
なのに、月澄さまはわたくしも殿下も何もかも捨てて去ってしまわれました。
竜を倒す手がかりを探すのだとおっしゃって。
シキの秘術があれば山の封印も越えてみせるとおっしゃいましたけれど、ええ、そんなことはやはりおできにはなりませんわ。
あの方もきっとあの大百足のような山の怪に…」
泣き崩れる瑞穂を蛍は瞳を閉じてただじっと支えていた。
しばらくして泣き止んだ瑞穂は、恥じたように蛍を見るとにっこりと微笑んだ。
「取り乱してしまいました。
ごめんなさい、蛍さま。
わたくし、蛍さまのお仕事のお手伝いになることならば何でもいたしますわ。
いいえ、どうか、お手伝いさせてくださいませ。
それがあの方のお心にも適い、殿下のお気持ちにも適うことだと思います。」
蛍は少し困ったような、けれど穏やかな笑顔を浮かべて瑞穂にうなずき返した。
その夜。
蛍は霧の中にいた。
ああ、なんだか久しぶりだな、と思った。
ここは、このひと月の間、ほとんど毎晩のように見続けた夢だ。
昨夜ただ一晩眠らなかっただけなのに、それでもこの霧の中の感覚が妙に懐かしかった。
霧はひんやりとやわらかく蛍を包み込んでいた。
誰かがむこうから駆けてくる。
白い神官の装束。
ぱたぱたと地をける軽い草履の音。
人というものは夢の中に現れるときでも、とことん人なのだなあとふと思う。
ならば、淡海は…?
あれは夢ではなかったけれど…。
ふと、囚われかけた心は、目の前の少年にぐいと引き戻された。
蛍の前にたどり着いて膝に手を当ててはあはあと息を切らせているのは、蛍よりも二つ三つ幼い少年の姿だった。
「大丈夫か?」
蛍がそう言って少年の背中に手を伸ばすと、少年はついと顔を上げて蛍を見た。
清んだ切れ長の瞳と目が合って、蛍は自分でも意識しないままに微笑んでいた。
「やあ、千秋。」
そう声をかけると、少年はじっと蛍を見つめたまま感情を押し殺した声で言った。
「どこに行ってらっしたんです、蛍さま。」
「近道をしようと思って…。」
それだけで千秋は悟ったようだった。
「山に入られたのですね?
あの山を越えることはできません、と申し上げたはずですよ、蛍さま。
山を迂回して、街道をおいでください、と。」
「ごめん。」
短く言って頭を下げる蛍に、千秋は小さくため息をついた。
まっすぐに体を起こすとひょろひょろと背だけは蛍よりも頭一つ分ほど高い。
「僕がどれほど心配したか分かりますか?」
わざと見下ろすようにして、静かな声でそう尋ねる。
それに蛍はもう一度ごめんと言って頭を下げた。
「蛍さま、少しでも早く里に来てくださろうという蛍さまのお気持ちは有難く存じます。」
千秋はそう言いながら、少し背をかがめて蛍と視線を合わせた。
「けれど、もう少し僕を信頼して言うことを聞いてくださってもいいのではありませんか?」
「それについては言い訳する言葉もない。本当にごめん。」
千秋の瞳を正面から見据えて蛍がそう言うと、今度は千秋のほうから目をそらせて盛大なため息をついた。
「ごめんなさい。蛍さま。
僕があなたにこんなことを申し上げていいはずなどないのです。
ただ、あまりにも心配だったものですから。
あなたの気配を見失うことなど、このひと月の間、まったくありませんでしたから。」
「千秋の術でもあの結界は越えられないのか。」
「ええ、そうです。
あの山の結界は特別製ですからね。
僕ごとき力ではとても破れるものではありません。」
千秋はそうつぶやいて、もう一度蛍の瞳を覗きこんだ。
「けれど、蛍さま、あなたがご無事で本当にようございました。
あの山に入って無事に出てこられる者はなかなかいないのです。」
「山の巫女に助けてもらった。」
「巫女?…まさか水守姫にお会いになったのですか?!」
蛍の一言に千秋は驚いて思わず蛍の両腕をつかんでいた。
蛍があっさりうなずくと千秋は額を抱えてうーんとうなった。
「まさか…、水守姫に…、あなたはお会いになったとおっしゃるのですか…」
呆然とそうつぶやいたきりじっと何か考えに沈み込んでしまった千秋を、蛍はじっと待っていた。
どのくらいの時間がそうして過ぎたのか、ふと気づくと霧のむこうにうっすらと明かりがさし始めていた。
千秋もその光に気づいて小さく舌打ちをした。
「時間切れのようです。蛍さま。
僕はもうこれ以上ここにはいられません。」
千秋はしばらくうつむいてから、ふと顔を上げて蛍の瞳を捕らえた。
「お願いです蛍さま。
里には街道をおいでください。
どうかもう二度とあの山にはお入りにならないよう。」
「…実は、里には、すぐに行けそうにない…」
蛍はきまり悪そうにそう言ってまた頭を下げた。
「頼みごとをされてしまった。
どうしても断れない。」
「頼みごと?
蛍さま、人助けもほどほどになさらないと、ご自身のお体を損ないますと、僕はもう何度もそう申し上げて…」
そこで言葉を切って、千秋はまた小さくため息をついた。
「と、そもそも、助けてください、とお願いしている僕が、こんなことを申し上げるのもおかしいのですが…。」
「ごめん、千秋。」
「いいえ、あなたに謝ることなど何もありません。蛍さま。
あなたのその優しさに、僕らや他の方々がつけこんでいるだけなんですから。
むしろ謝らなければならないのはこの僕のほうです。」
千秋は辛そうに目をそらせて言うとじっと唇をかんだ。
どこか子供のようなその仕草に、蛍はそっと千秋の頭に手をおいた。
「千秋の力になる。約束は守る。
なるべく早く着くようにするから、少しだけ待ってほしい。」
「蛍さま、どうか、ご無理だけはなさいませんよう。」
千秋はすがるようにそう言った。
千秋の背中のほうからくっきりとした一筋の光が届き始めた。
千秋の瞳に少しあせりが浮かぶ。
「どうか、あと、これだけはお教えください。
あなたは今どこにいらっしゃるのです?」
「山の結界に守られた幻の都の王宮に。
瑞穂姫という方と一緒にいる。」
「瑞穂?瑞穂といるのですか?」
千秋はまた驚いたように目を上げた。
けれど今度は少し笑って続けた。
「それはまた奇遇な。
これが縁、というものなのでしょうか。
もしかして、あなたに厄介事を押し付けているのも瑞穂なんですね?」
「え?あ、いや、それはちょっと違うけど…」
千秋は今度ははっきりと笑顔になった。
「そうですか。
いえ、そこなら僕も安心です。
蛍さま、それならばしばらくはその都にいらしてください。
そこならば僕の力も十分に届きます。
なるほど、夢がつなげたのもそこにいらっしゃったからなんですね。」
光の筋はどんどん太くなり、やがて辺りは光に満たされていく。
「僕はもう行かなくてはなりません、蛍さま。
でも、もうこんな不安な思いは二度としたくない…、蛍さま…。」
千秋の声が遠くなる。
蛍はゆっくりと気を失うように眠りに落ちていった。