6
蛍と瑞穂が訪れると、王子は嬉しそうに自ら扉を開けて二人を迎え入れた。
「こんな夜中に乙女二人のお越しとは、嬉しいかぎりだな。」
「嬉しいことなど何もない。」
きっぱりかわされて、王子は少し寂しそうに蛍の横顔を見た。
「お前、そんなに俺が嫌いか?」
「好きか嫌いかは関係ない。
早く用件を話せ。」
これ以上はないくらいにそっけなく言うと、戸口のところに立ったままでさっさと話を進めようとする蛍を、王子は苦笑いしながらせめて部屋の中に入るように促した。
瑞穂が先に部屋に入っていったので、蛍も仕方ないというようにおとなしくついて入った。
王子の部屋は広いには広かったが、中の調度は意外なほどに質素だった。
広い部屋に生活に必要な家具だけが、ぽつんぽつんと置いてある。
そのどれも、質はそれなりにいいものだが、およそ贅沢とはかけ離れた実用的なものばかりだった。
「殺風景な部屋で悪いな。」
質素な家具の中でもとりわけ座り心地がよくなさそうな椅子にごくごく浅く腰掛けた蛍を、王子はおかしそうに見た。
いつでも逃げ出せるように身構えているようにも見える。
王子は軽い調子で蛍に笑いかけた。
「しかし、この俺もついぞ、姫君方の衣にそんな着方があるとは知らなかった。
なかなかいいじゃないか。流石、わが后だ。」
艶を含ませる王子の瞳を蛍はただにらみつけた。
「そんなことが用だというのならもう帰る。」
怒ったように席を立つ蛍を、まあまあと瑞穂がなだめる。
瑞穂にとりなされてとりあえずは椅子に座ったものの、蛍は早く出て行きたくて仕方ないようにそわそわと落ち着かない様子だった。
「それで、シキだと見込んで頼みたいことというのは何だ。」
「まあ、飲み物でもどうだ?
うまい酒なら取り揃えてあるぞ。」
王子はわざとのんびりと、部屋の中でそこだけ鮮やかな色の並ぶ酒棚に近づきながらそう尋ねた。
もちろん、蛍はむっつりと首を振った。
王子は肩をすくめると適当に三人分の飲み物を作って持ってきた。
王子の差し出した杯を蛍はぐいと押しやって無愛想に言った。
「酒は飲まない。」
「心配するな。お前たちの分には入っていない。」
蛍に王子は杯を無理やり持たせると、むかいの長椅子にゆったりと座った。
瑞穂は二人の間に腰掛けて困ったような笑みを浮かべている。
瑞穂と蛍の顔をしばらく眺めてから王子はひとつため息をついて、それからすっと真面目な顔をした。
「怪を退治するのに力を貸してほしい。」
「怪?」
蛍の顔つきがその一言ですっと変わった。
じっと王子の次の言葉を待つように見つめる。
王子は心を決めるように言葉をきってから、意外に静かな声で言った。
「この山に棲む竜だ。」
「竜ですって?…ま、まさか、竜神様を倒そうとおっしゃるのですか?!
いけませんわ、殿下、あれはこの都の守り神ではありませんか!」
蛍が何か言う前に、瑞穂が驚いたように叫んだ。
けれど王子は手を振って瑞穂を黙らせると、ただその返事だけを待つようにじっと蛍を見つめた。
蛍はしばらく何かを考えるように下をむいていたが、顔を上げて王子を見ると、無表情な目をしてあっさりと首をふった。
「そんな力はない。」
王子はいきなり蛍の腕をとって袖をまくりあげた。
あのぼろ布はとうに処分されてしまって、そこには無数の傷跡が痛々しくむき出しになっていた。
思わず瑞穂が小さな悲鳴を上げた。
「じゃあ、この傷はなんだ?」
蛍が黙っていると王子はぐいとその手を引いて灯りの元によく見えるようにした。
瑞穂があわてて王子の手にとりすがるようにして引きとめる。
瑞穂の訴えるような目に王子は手の力をゆるめると、ぷいとそっぽをむいてから、もう一度蛍を見据えた。
「自らの体に怪を封印するシキがいると聞いたことがある。
お前、そうなのだろう?」
王子の怒りの前に、けれど蛍はどこまでも冷静だった。
「封印の技は知っている。
けれど、竜の力はとても強い。
わたしの力では多分封じきれない。」
淡々と蛍は答えた。
王子の瞳に苛立ちが浮かんだ。
「ならばあの剣はどうだ。
お前が後生大事に抱えていたのは破魔の剣だろう?」
「…あの剣はわたしには使いこなせない。
あれはわたしのものではない。」
蛍の淡々とした答えは王子の苛立ちに油を注いだ。
「ならば、俺にあの剣を貸せ。
俺が使う。」
けれど蛍は横にひとつ首を振った。
「やめたほうがいい。
破魔の剣を使いこなすのはとても難しい。」
「シキの民でなきゃ無理だってことか?」
「シキであっても使える者は限られている。
そうでない者であれば、なおさら。」
「やってみなければ分からないだろう?」
「下手をするとあなたの命にかかわることになる。」
「俺の命ぐらいくれてやる。」
蛍は無言で王子の目を見据えた。
王子も負けずに睨み返す。
けれど先に目をそらせたのは王子のほうだった。
悔しそうにそっぽをむいた王子の様子に、蛍の瞳が初めてわずかに揺れた。
「怪といえど封じるのは酷いことだ。
人にとっては怪でも、世界にとっては人も怪も等しく同じものだ。
だから無理やり封じるようなことはなるべくなら避けたい。」
王子はうつむいたままで深いため息をもらした。
蛍の瞳がまた少し揺れた。
「それはどうしても必要なことなのか?」
蛍の問いかけに王子はぐいと顔を上げた。
それはいつもの余裕と自信にあふれた顔ではなく、真剣で必死な表情だった。
「どうしても必要なんだ。
お前、この都をおかしいとは思わないか?
この都はあの山に住む竜に封じ込められている。
山の外の世界からまったく隔離されているんだ。
百年もの間、この都に外から入ってきたものはいない。
都のものが外に出ることもできない。
その上、あいつは、竜は狂っている。
ちょうど十年前、あの竜は暗い病の風を都に吹き降ろした。
風に当たった都の民はばたばたと病に倒れた。
大勢の人間がその病のせいで死んだ。瑞穂の親もだ。」
蛍はそっと瑞穂を振りむいた。
瑞穂は静かにうつむいていた。
ただ、その瞳の辺りからぽとりと光る雫が落ちた。
「俺が思うに、あいつは人の恨みの念が何よりの好物なんだ。
恨み悲しみ死んだ人間の魂をやつは喰らう。」
「どうしてそんなことが分かるんだ。」
蛍の問いかけに王子は一瞬ためらってから思い切ったように言った。
「あいつにその味を覚えさせたのが俺たちだからだ。
百年前、まだやつがこの都を封じてはいなかった頃、俺たちはやつに生贄を捧げた。
それからだ、やつがおかしくなったのは。
やつはそれで苦しむ人間の魂の味を覚えてしまった。
そのすぐ後、やつはこの都を外との行き来ができないように封じ込めた。
そして俺たちが嘆き苦しむのをじっと待っていた。
けれど、この豊かな地ではなかなかそうもいかない。
それでやつは病の風を吹かせることにしたんだ。
この百年の間に何度か、同じことは起きている。
俺たちが苦しみ、やつを深く恨むほど、やつが味わう魂の味はよくなる。
だからやつはそれを待っているんだ。」
「…まさか…」
「俺だって、まさかと思うさ。
でも事実だ。
ずっとずっと長い間、俺はそのことだけを調べてきた。そうだな、瑞穂?」
王子に目をむけられた瑞穂はうつむいたまま、けれどはっきりとうなずいた。
蛍はひとつ深い息をついた。
「そんなことがあるなんて…」
「あるんだ。
だけどそれをそのままになんて俺はしておかない。
いいか、竜だろうと神だろうと、民に仇をなすものはこの俺が退治してやる。」
王子の決意を込めた瞳を、蛍は冷めた目で見た。
蛍の目に気づいて、王子はぐいと瞳に力を込めてじっとにらんだ。
「今年、またあの十年前と同じ状況が来ている。
竜の山はいつも冬になるかならないかのうちに雪に閉ざされる。
その雪で竜は長い冬の眠りにつくんだ。
けれど、十年前のあの悪夢のような年、山に雪は降らなかった。
そして今年も、もう冬至祭りも過ぎたというのに、まったく雪が降らない。
雪に眠らされないあいつは、えさの何もなくなった冬の山でまた狂う。
そして病の風を吹き降ろす。
都の民の魂を喰らうために。
それだけはなんとしてもやめさせなければならない。」
王子は蛍の腕をぐいと握ると自分のほうへと引き寄せた。
「この手を貸せ、蛍。
力を貸してくれ。
お前は外から来たんだろう?
あの竜の封印を破り、山を越えたお前ならば、あの竜に対抗する力もきっとある。
俺を助けてくれ。」
王子の必死の懇願に蛍の瞳が揺れた。
その瞳を王子の瞳がしっかりと捉えた。
「お前は狼の目をしている。
簡単には心を許さない野生の狼だ。
けれど、狼はいったん心を許した相手のためになら命をもかけて戦うという。
俺のために戦ってくれないか。
俺は決してお前を裏切るような真似はしない。」
「…わたしが狼ならば、お前は忠実な猟犬。
お前とわたしが相容れることは決してない。」
蛍は冷たくそう言い放った。
王子は心底驚いたように息をのんだ。
おそらくは、ここまでして断られたことなど、これまでの王子の人生にはなかったことなのだろう。
蛍はそんな王子を気の毒そうに見ていた。
それから、少し目を伏せて、そして続けた。
「わたしにできることがあるのなら、力は貸す。
できるだけのことはする。」
蛍の言葉を聞いて、王子はふうーっとひとつ息を吐いて椅子に深くもたれた。
「お前はどうしてそんなに心を許さない?」
ぽつりと王子はそうつぶやいた。
それに蛍は少し苦笑して、さあ、とだけ答えると、そそくさと椅子から立った。
その背に王子の声が追いかけてきた。
「なあ、蛍。」
蛍は振りむくこともせず、ただ少しだけ足を止めた。
「俺はお前のその目を俺だけのものにしたい。
お前なら、どんな状況でも、どんな世界でも、俺と一緒に歩いてくれるだろう?
お前だけは絶対に俺を裏切ることもなく、俺の背中を預かってくれるだろう?」
「その話は断る。」
蛍はきっぱりとそう言うと、そのまま黙って部屋を出て行った。
瑞穂は慌ててその蛍の背を追いかけていった。
二人の去った扉をにらみつけて王子はぐいと杯を空けると、大きくひとつため息をついた。