5
ひらひらした裳裾をつまみながら、蛍は困惑しきった顔を上げた。
「どうしてもこんな格好をしないといけないのか?」
「よくお似合いですわ。」
瑞穂が自信たっぷりに返す。
蛍はますます情けない顔になった。
「動きにくいんだけどな。」
「動かなくてもよろしいのですもの。
必要なことは女官がいたしますわ。」
「自分のことくらい、自分でする。」
ぶすっとしてそう言うとさっさと着物を脱ごうとする。
それを瑞穂と女官が二人がかりでおさえこんだ。
「いけません。」
「勘弁してほしい…」
自由を奪われて蛍は天井を見上げた。
そこへもう一人女官が現れて、ちょうど上をむいていた蛍の顔に、ぱふぱふとなにやら白い粉を塗りつけた。
「う、うわ、何、何をする…う、うわっ。」
叫び声をあげるのにかまわず女官は慣れた手つきでさっさと蛍の顔に化粧を施してしまう。
「まあ。やはりわたくしの目に狂いはありませんでしたわ。
蛍さんって本当にお美しいのですね。」
何が嬉しいのか瑞穂は、まあ、まあを連発している。
「くそっ、化粧なんて…」
袖でこすろうとしたのを今度は三人がかりでおさえこまれた。
そこにもう一人女官が現れた。
「今度は何をする気だ。」
蛍の悲鳴が轟いた。
一筋二筋のほつれ毛をついとまとめ直されて、鏡の中の蛍は完璧な貴婦人に仕上げられていた。
頬の傷もいつものようには目立たない。
むしろそれは、憂いを含む瞳の流した涙の筋のようにも見えて、完璧な美貌にちょっとしたアクセントになっていた。
蛍はもう抵抗するのにも疲れ果てて、されるがままになっていた。
今夜暗くなったらきっときっとここから逃げ出そうと心に誓いながら。
飾りたてられた蛍と、こちらは自分から美しく装った瑞穂は、大広間へと連れて行かれた。
大広間ではなにやら宴の支度が整っていた。
入口近くの隅の席にふたりが着くと、どこからともなく楽団の演奏が聞こえてきた。
「ほお、今宵はなかなか美しい姫君がおられるではありませんか。
初めてお会いしますね。
あなたはどちらの花園からおいでになった胡蝶でしょう?」
隣の貴公子に声をかけられてぎょっとして蛍は振り返った。
背ばかり高い色白のひょろりとした青年が、ふやけた笑顔をはりつけて、蛍の手をとらんばかりにして顔を覗き込んでいた。
蛍の背筋にぞぞーっと寒気が走った。
「な、何をする!」
あわてて引っ込めようとした蛍の手を、生白い手はすばやく捉えた。
「まあ、まあ、そうおっしゃらず。」
振り払おうとしても、意外に相手は力がある。
蛍が思わず手刀を相手の手首に打ちかけたそのとき、大きな手がそっとその蛍の手をつかまえた。
「あ、あんたは…」
「これはこれは王子殿下。
今宵もご機嫌うるわしゅう…」
王子は目の合った蛍に、任せておけ、というように片目をつぶってみせた。
それから、一転、冷ややかな表情を浮かべると、慌てて挨拶しようとするふやけ貴族を、さらりと一瞥した。
「お楽しみいただいているのなら結構。
ところで、貴殿は席を間違っておられるようだ。
この席はわたしのものだ。」
「は?しかし王子殿下がこのような末席に、…あ、いえ、ははははは。」
一見穏やかそうでいて、その実棘を含んだ王子の瞳に、ふやけ貴族はひきつったような笑いを浮かべて、ぺこぺこと頭を下げた。
「あ、はははは、そうでございますか。
あ、いや、すみません。
そ、それでは、わたくしめはこれにて…」
腰から先に逃げ出すように、大急ぎで退散する。
王子はふやけ貴族を追い出した席にそのまま座りこむと、取り返した手首を気味悪そうにさすっている蛍を面白そうに見た。
「ほお、なかなかなものじゃないか。」
王子は湯浴みをすませゆったりとした衣に着替えていた。
まだ少し濡れた髪を背中でゆるく束ねている。
流石に生まれながらの王子だけあって、着崩した格好をしていてもどこか気品があった。
王子は蛍を見て満足そうにうなずいた。
新たに現れた難敵に蛍は警戒するような目を返した。
「これほどの美しさならば、俺の正妃としても十分。」
「その話なら断ったはずだ。」
きっぱりと言い切られたのを王子は余裕で受け流した。
「一国の王子が求愛しているというのに、本当にお前は実にあっさり断る。
見事なものだ。
思わず感心してしまうぞ。」
「からかうのはいい加減にしろ。」
「からかってなどいないさ、もちろん。
いくら俺でもこんなことを冗談にはしない。」
見つめる瞳に真剣な色を浮かべてみせる王子を蛍はまっすぐににらみ返した。
「本気だとは思えない。」
「本気だとも。なんならここでみなの前に誓言しようか。」
王子はそう言うといきなり蛍を抱え上げて立ち上がった。
突然なことに驚いて抵抗しようとする蛍を抑え込んで、王子は大声で広間の全員に高らかに告げた。
「水守国の王子冴風、その名に誓って誓言する。
この姫を我が正妃にする。」
「お、おい!」
流石に焦った様子の蛍が暴れるけれど、王子の力にはかなわない。
声をあげて否定しようとするのを王子は強く胸に押し付けて何も言えないようにした。
見ようによってはそれは王子が愛する姫を熱烈に抱きしめているようにも見える。
一座の者は呆然としてその光景を見守っていたが、一瞬の沈黙の後、割れるような拍手が巻き起こった。
「有難う、有難う。」
王子は頬を紅潮させて手をふりながら拍手に答えている。
力ではとうていかなわない蛍は身の置き所がなくて消えてしまいたいと思いつつも、身動きもとれなかった。
その蛍の耳に瑞穂の声が届いた。
「お任せなさいまし。
殿下の言葉は真心からのものですわ。
決して蛍さまに悪いようにはなさいません。」
隙間からちらりと蛍が目をむけると、瑞穂は蛍を安心させるようにうなずいて見せた。
蛍の目尻に涙が浮かんでいるのを少し気の毒そうにしながらも、瑞穂は優しげに微笑んで見せる。
蛍はただじっと唇をかんでいた。
「どうだ、これで納得したか。」
騒ぎが一通りおさまったところで、王子は威張るように言うと、ようやく蛍を解放した。
自由になった蛍はむっと口をつぐんでいたが、なんとか息を整えるといきなり王子の胸元をつかんで迫った。
「おい、どういうつもりだ。」
「言ったとおりだ。
心配せずともお前はこれでもう俺の正妃だ。
婚礼の儀はごく質素なものにしよう。
お前、華美なことは苦手だろう?」
王子は眉一つ動かさず、しれっと答える。
蛍はむきになって迫ろうとしたが、ふっとこれ以上何をしても効果はないと悟って、王子から手を離した。
「もう、いい。」
「心配するな。お前のことは幸せにする。」
「幸せは誰かにしてもらうもんじゃない。」
ぶすっとして蛍が言うと、王子はにやっと笑って席を立った。
真面目なのか不真面目なのかよく分からないその目が、ふっと真剣になった。
「シキの姫よ、あなたのお力をお貸し頂きたい。
この呪われた都を救うために。」
はっとして目を上げた蛍に、王子はにやりと笑って見せた。
「後で俺の部屋に来て頂きたい。
なに、不安なら瑞穂についてきてもらえばいい。
俺は二人きりのほうが嬉しいがな。」
王子の台詞に蛍の表情は再びしぶいものになる。
それに苦笑をもらして王子は颯爽と席を立つと、そこここにたまっている人の群の中へと入っていった。
王子の入った群からは楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
王子はどこの群に入っても人気者だった。
祝福の乾杯があちこちで交わされた。
王子の愛を独り占めにした姫のことをあれこれと尋ねる声も聞こえてきたが、王子はのらりくらりとはぐらかしている。
それでも王子の人望のゆえか、それとも蛍の美しさは人々にも納得させるものがあったのか、おおむね聞こえてくる人々の言葉は、王子に好意的なものばかりだった。
「大丈夫ですわ、蛍さま。
ああ見えて殿下は本当にいい方ですから。
何もご心配になることなどありません。
面倒なことはみんな殿下にお任せしてしまえばいいんです。
それよりも今宵は本当に素晴らしいお料理ばかりですわ。
さあ、どうぞたんと召し上がれ。」
食べることなどすっかり忘れている蛍に瑞穂はせっせと料理を勧める。
あれこれと世話をやく瑞穂に、蛍はされるままになりつつも、知らず知らず恨みがましい目をむけてしまう。
それに瑞穂は苦笑しつつ、ただ安心させるように微笑みを返していた。
王子のことなど本当は心の底から無視してしまいたいが、シキの名を出してまで頼みたいことがあると言われれば簡単に無視はできない。
むっとした顔のままでそれでも行ったものかどうか蛍が迷っていると、部屋の戸が控えめに叩かれた。
蛍が顔を上げるとそろそろと入ってきた瑞穂と目が合った。
瑞穂はにっこりと笑うとわざと責めるような目をして蛍を見た。
「まあまあ、灯りもおつけにならないで。
まさかもう殿下に恋患いだなどどおっしゃらないでくださいましね。」
蛍の目が思い切り憮然とする。
それに瑞穂はころころと声を立てて笑った。
「ごめんなさい、蛍さま。
あなたのお顔は本当によくお心を映しておいでなので、ついついからかってしまいたくなるんですわ。
本当にかわいらしい方ね。」
蛍は、豪華な敷物を敷いてあるとはいえ、床の上に直に胡坐をかいてむっつりと腕を組んでいた。
着物も、こんなひらひらしたものはさっさと着替えてしまいたいらしいが、蛍の着ていたものは女官たちがどこへやったものか、どこにも見当たらない。
仕方がないので、裾や袖の余分なところは紐でくくりあげて、それなりに動きやすくはしてあった。
綺麗に結いあげてあった髪は指を突っ込んでかきまわしたように元のぼさぼさに戻り、化粧は必死に落とそうとこすったらしく、あちこちに色が流れてかえってすごいことになっていた。
そんな格好ですねたようにむっつりとしていると、いつもの蛍とは違って、どこか幼くかわいらしく見えた。
にこにこと瑞穂は近づいてくると、自分も蛍の前に膝をついて渋い顔を覗き込んだ。
「殿下がお待ちですわ、蛍さま。
さあ、ご一緒にまいりましょう。」
複雑な表情で見上げる蛍に瑞穂は笑ってみせる。
「殿下のお話を聞くだけでも聞いてさしあげてくださいまし。
わざわざ、シキと見込んで、などとおっしゃるからには、よほどのことだと思いますの。」
瑞穂の瞳がふと真剣になった。
蛍は瑞穂の瞳の中を覗き込むようにした。
蛍の視線は、まるで心の奥底まで見通すかのようだった。
「瑞穂姫、あなたはあの王子のことを信じるか?」
蛍の問いに瑞穂は微塵のためらいもなくうなずいた。
「信じます。
大丈夫、あの方はそれに値する方です。
ただ、ちょっと、その、冗談は過ぎるほうですけど…。」
すると、蛍は心を決めたように立ち上がった。
「分かった。」
短く言って、あとはさっさと部屋を出る。
瑞穂は慌てて追いかけた。
「ほ、蛍さま。
せめて、せめてそのお顔だけは洗っていかれたほうがよろしいわ。
あの、蛍さま、ちょっと待ってくださいまし!」
蛍はただ歩いているようなのに、瑞穂は全力で走っても追いつけなかった。