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瑞穂の姿が見えなくなると、淡海は蛍の横に跪いてそっと傷の様子をうかがった。
蛍の腕につけられた傷跡はひとつひとつが怪を封じた痕だった。
封じられることの無念さや苦しみは蛍の傷を膿ませ、治らなくしていた。
怪たちの苦しみは、淡海にははっきりと見えていた。
そしてそれがどれほど厳しく蛍自身を苛んでいるのかもまた淡海にはよく見えた。
蛍のほうに差し伸べた淡海の両手からやわらかい光があふれ出す。
さらさらと淡海の力を受けた鈴が音を立てる。
光は蛍を包んで淡く輝く繭になった。
その中で蛍は眠り続けていた。
せめて少しでも蛍を休ませようと、淡海が蛍にもたらせた眠りはとても安らかなものだった。
どれほどの苦難を背負っていても、今の蛍の寝顔はとても安らかで、あどけなかった。
眠っている蛍は、いつも誰かが一緒にいた幼い頃の表情に戻っていた。
淡海はそのままの姿でずっと蛍に力を送り続けていたが、やがてもうこれ以上は淡海にもどうすることもできなくなって、そっと光の繭を解いた。
蛍の傷を完全に治すことは、淡海にも不可能だった。
淡海は蛍の顔を覗き込んで、その名を小さく唱えた。
淡海の大きな瞳に涙があふれてきて、頬を伝ってぽとりと落ちた。
淡海の身を離れた涙は光る珠となって蛍の上にこぼれた。
その気配に気づいて蛍は目を開けた。
蛍と目が合った淡海はあわてたように涙をぬぐって笑顔を作った。
「す、すみません、起こしてしまいましたか。」
「…あの、娘は…?」
蛍がまず聞いたのは瑞穂のことだった。
淡海はやわらかい微笑みをうかべてうなずいた。
「大丈夫です。今頃は無事にお家に帰ったころでしょう。
供をつけておきましたから、もう道に迷うことも山の方々に襲われることもありません。」
「そうか。よかった。」
ほっとしたような蛍を淡海は悲しそうに見つめた。
蛍はふと腕のぼろ布がほどけているのに気づくと、さっき大百足につけられたばかりの傷を淡海のほうへと差し出して見せた。
「あなたには悪いことをしてしまった。
この山の方だったのだろう?」
淡海はじっとその傷を見つめた。
その瞳に再び涙が浮かんできた。
「ええ。そうです。
ええ、でも、あなたには、こうするしかなかったのでしょう?」
言葉につまる蛍を見つめる淡海の瞳はそれでも蛍を決して責めてはいなかった。
「あなたが封じなければ、おそらくあの方は殺されていたでしょう。
それがこの山の方々に課せられたお役目ですから。」
「ならば、あなたはわたしを殺さなければならないのではないのか?」
蛍の短い言葉に淡海ははっと傷ついたような目を返した。
「どうしてそんなことをおっしゃるのでしょう。
あなたに咎のないことなど山の方々にもわたしにもよく分かっております。
あなたがあの方のお命をお助けになったことを責めるものはここにはおりません。」
淡海は悲しそうに首を振ると蛍の傷を見つめて言った。
「都の民を守るためのこの山の掟です。
けれど、その掟を守るために、山の方々は掟を破った都の民を殺さなければなりません。
悲しいことです。
けれど、山の方々は都の民を敵だと思っているわけではありません。
むしろ守ろうとしていらっしゃるのです。」
淡海は深くため息をつくと寂しそうに蛍を見上げた。
「あの方とて、酔狂で山に踏み込んだわけでもありません。
どうしてもやむをえない事情がおありで、それはわたしにも分かっているのです。
それでも、あの方を通して差し上げるわけにはまいりません。
どうすることもできないのです。」
うつむいた淡海の頬からぽつり、と光る雫がこぼれおちた。
その光の珠が傷跡の上に落ちたとき、突然、消えていた封印の紋章が輝きだした。
蛍にとってこんなことは初めてだった。
祖母や母からも一度消えた紋章が再び輝くという話は聞いたことがない。
けれど、痛みや苦しみはまったくなくて、不思議なほどに穏やかな気持ちだった。
息をひそめて見守る二人の前で、紋章はみるみるまに大きくなり、その中からすっかり落ち着いた様子の怪が姿を現した。
封印は自然に風に溶けるように消え去り、自由になった怪は静かに二人に背をむけて山の中へと姿を消した。
そして、大百足につけられた蛍の腕の傷はきれいに治っていた。
「まあ、なんてこと!」
最初に声をあげたのは淡海でも蛍でもなかった。
蛍は小さくため息をつくと振り返りもせずに声だけ投げた。
「まだいたのか。」
「だってあまりにも心配で。」
瑞穂はきまり悪そうに姿を現した。
ふわふわとついてくる光の珠もなんとなくきまり悪そうに見える。
「ごめんなさい。」
「仕方ないなあ。」
蛍が苦笑を浮かべると、瑞穂はここぞとばかりに駆け寄ってきて蛍の手をとった。
「でも、ご無事で何よりですわ。
本当にわたくしあなたに申し訳なくて。」
いきなり手を取られた蛍が思わずびくっと手を引っ込めると、瑞穂は心配そうに蛍の顔を覗き込んだ。
「あ、ごめんなさい。痛かったですわね。
でも、こんなにひどいお怪我、どこでなさったの?」
「いろんなところで。」
ぼそり、と言って蛍がまたぼろ布を巻きつけようとするのを、瑞穂は手を出して引き止めた。
「いけませんわ。そのような汚れた布を巻いたりしては。
もう少しきちんと手当てをなさらないと。」
「…」
手をつかまえられた蛍が困ったように見上げると、瑞穂はきっぱりとひとつうなずいて言った。
「こんなところではろくなお薬もございませんわ。
わたくしの家まで来てくださいまし。
せめてお手当てさせてください。」
「いや、それは、いい。」
蛍が断ろうとすると、瑞穂は強引に蛍の手を引いて立たせた。
「いいえ、よくありません。
さあ、まいりましょう。
ねえ、水守姫、あなたからもおっしゃってくださいまし。」
いきなり話をむけられた淡海は、あ、はい、と思わずつられてうなずいてしまった。
「ほら、水守姫もそうおっしゃっておられます。ね、ね、お願いですから。」
瑞穂の手を無碍に振り払うこともできず、ずるずると蛍はひっぱられて歩き出す。
それをあわてて淡海は引き止めた。
「あ、あの、いけません、その方の行くのはそちらではありません。」
けれど瑞穂はうんうんとうなずいて手を振ってみせる。
「ええ、光る珠を追っていけば都までは無事に行けるのでしたわね?
ええ、もう大丈夫ですわ。
この方もこうして一緒にいてくだされば、とても心強いですわ。」
「いえ、だから、その方は都に行くことはできないと…。」
「ええっ!!!」
瑞穂の驚いた声に、蛍も淡海も思わずぎょっとした。
「どうしてですの?
そんな、困りますわ。
わたくし、こう見えましても、ずいぶんそそっかしいんですの。
一緒に来てくださらなければ、光る珠も見失って、また道に迷うかもしれませんわ。
そうしたら、また恐ろしい大百足に追いかけられて…」
しくしくと瑞穂はしゃくりあげる真似をする。
どう見てもうそ泣きにしか見えなかったが、それでも蛍はおとなしくうなずいた。
「分かった。なら都まで一緒に行く。」
蛍は困った表情で自分を見ている淡海のほうへむくと、片膝と手のこぶしをついて頭を下げた。
それはシキの戦士の最高の礼を尽くす姿だった。
「この人を送り届けるだけだから。
それがすめばすぐにここに戻ってきて、そうしてここを出て行く。
それだけでも許してもらえないか?」
淡海は小さくため息をついた。
「仕方ありません。
瑞穂さんにまた騒動を起こされるのも困りますし。
あなたならば山の方々もお咎めにはならないでしょう。」
「そう、よかった。じゃあ、早く行きましょう。」
淡海の返答を聞くなり、瑞穂はけろりとして、また蛍の手を取ってひっぱり起こすと、さっさと歩き出した。
「あ、あの、わたしもご一緒します。」
あわててそう付け加えた淡海に瑞穂はにこにことうなずいた。
「まあ、それは助かりますわ。
水守姫ご本人がいらっしゃればこれほど心強いことはありませんもの。
これでどんな怪でも出てらっしゃい、ですわ。
さあ、では善は急げ。まいりましょう。」
「いえ、あの、怪にご登場願うのはわたしもいろいろとその、困ることも…
あ、あの、瑞穂さん?
ちょっと、ちょっと待ってください!」
すっかり瑞穂の調子に乗せられて、淡海と蛍は歩き出していた。