21
王子を乗せた大蛇は再び竜の側まで迫っていた。
竜はもはや何かを意識することも考えることもできないらしく、ただひたすらに手の届く限りを破壊し尽くしていた。
王子が目をこらすと、竜の爪の中にはまだ蛍の姿があった。
これほどに荒れ狂いながらも蛍をにぎりつぶすことはしない竜に、王子は少しだけ感心した。
けれど、王子にはもとより、竜を容赦する気持ちなどなかった。
大剣を構えると、王子は気合と共に正面から竜に戦いを挑んだ。
素の状態の竜であったなら、王子に勝ち目はなかったのかもしれない。
それほどに竜の力はすさまじかった。
竜の口からほとばしる黒い炎を避けて、王子はその背にまわりこむと、角をつかむようにして首の真後ろに飛び移った。
振り落とされるまいとしがみつきながら、竜の腕のほうを伺う。
そして目で距離を測ると、一気に竜のからだを駆けて、その勢いのまま竜の腕ごと切り落とした。
竜が叫び声をあげた。
さっきまでよりももっとめちゃくちゃに暴れた。
それは痛みのゆえとも、大切なものを奪われたゆえとも思えた。
いや、そんなことを考えることすら、今の竜にできるのかどうかももう分からなかった。
先のことなど計算に入れていない王子は、竜の腕と共に淵に落ちた。
すさまじい水しぶきが上がり、竜の腕から流れた黒い液体が淵の水の色を変える。
大波がまた周囲の崖からあふれて山肌を流れ落ちた。
その波の中を泳ぐ人影が小さく見えていた。
王子は片手に剣を、反対の手に蛍を抱えて、懸命に泳いでいた。
王子が岸までたどり着くと、大蛇は背に乗れと言うようにじっとそこにうずくまった。
王子は剣と蛍を抱えて、蛇の背中によじ登った。
そのまま王子がしがみつくと、大蛇は千秋たちの待つところに一直線にむかった。
千秋と瑞穂はあせる気持ちを抑えながら王子を待っていた。
千秋の守りの術でなんとか嵐をしのげるほどの空間は作ることができた。
今はそこに王子が蛍を連れて戻るのも待つだけだった。
ともすれば悲観的になりがちな千秋を叱り付けて、瑞穂は必要だと思えることはなんでもやった。
千秋も瑞穂に言われたことは必死にやり遂げようとしていた。
そこへ蛍を連れた王子がたどり着いた。
王子の着物はあちこち焼け焦げ、自慢の髪も縮れていた。
肋骨が折れて、ほかにもひどい怪我をしているらしい。
それでも、王子は蛍を先によこすと千秋に早く診るようにと言った。
怪我人を前にして、千秋はいつもの落ち着きを取り戻していた。
千秋は丁寧に蛍のからだを調べた。
致命的な怪我がないことを確かめると、狂ってしまったとはいえ、思わず竜に感謝の言葉をつぶやいていた。
「ごめんなさい、蛍さま。
少し手荒なことをさせていただきます。」
目を閉じたままの蛍に千秋はそう断ると、とっておきの薬を水に溶いて蛍の口から流し込んだ。
そして懐剣をいきなり蛍に突き立てた。
瑞穂が悲鳴をあげる。
王子も思わず腰をぬかした。
けれど、千秋は自信たっぷりに笑みを浮かべていた。
剣は蛍のからだに髪の毛一筋ほどの間を残して宙にとどまっていた。
けれど、剣の青い光は蛍の身のうちへと流れ込んでいた。
剣の力を受けて、蛍はうっすらと目を開いた。
「蛍さま!」
「蛍!」
その場の全員が蛍に駆け寄って取り囲んだ。
蛍はすぐに正気を取り戻して跳ね起きた。
「竜は?」
聞くまでもなかった。
蛍の目の前で暴れる竜は雲を引き裂いて咆哮とともに黒い火を噴いていた。
「あれが…?」
蛍ですら一瞬呆然とする姿だった。
それはあまりにも淡海とはかけ離れた姿だった。
けれど、それはまごうかたなく、淡海その人の姿を変えた竜だった。
蛍は何も言わなかった。
その蛍の前に大蛇がそっと首をだした。
蛍は優しく大蛇の首をたたいて話しかけると、その背に乗った。
「蛍!」
王子は重傷を負いながらも蛍と共に行こうとした。
それを蛍は軽く押し返した。
「あとはわたしがやる。
千秋、瑞穂、王子の怪我の手当を頼む。」
千秋がうなずいて返す。
瑞穂も泣きそうになりながらうなずいた。
蛍はにっこりと微笑むと、そっと大蛇の首をたたいた。
大蛇は三度、その背に人を乗せて飛び上がった。
嵐の咆哮は続いているのに、蛍には不思議とそれは聞こえていなかった。
暴れる黒い竜の姿は蛍にはくるくると苦しみながらまわっている淡海そのものの姿に見えていた。
しゃんしゃんという鈴の音が狂ったように甲高く鳴り続けている。
それは淡海の苦しみそのもののようだった。
わずかな心の隙間に、瘴気が入り込み、淡海を狂わせた。
竜の力を手に入れた瘴気は、淡海のからだを使って、好き放題に破壊を繰り返していた。
けれど、そんなことを、淡海は望んではいないだろう。
なんとしても淡海を瘴気の軛から救い出さなければならない。
蛍はそう心に決めた。
王子と同じく竜の正面にまわった。
竜の瞳にはもはや蛍すら分からないようだった。
激しく振り上げられた竜の爪を蛍は避けなかった。
爪はざくりと蛍の胸を切り裂いた。
蛍は指に血をつけて傷の周りに封印の紋章を描いた。
そして長い呪言を唱えながら竜の背に飛び移った。
竜が暴れる。
蛍はそのたてがみをつかんで必死にしがみついた。
「鎮まれ、淡海!」
呪言と共にその名を叫んだ。
きらきらした光の紋章が、網のように拡がって、ゆっくりと竜の上に舞い降りた。
真名を呼ばれた竜は自由を失って、蛍の封印に捕らえられた。
光の網に竜が捕らえられた途端、うそのように嵐はぴたりとおさまった。
「ごめんな。淡海。」
蛍は気を失いそうになりながら必死に竜の暴れる力を押さえ込んだ。
蛍から流れ出した血が竜のたてがみを染める。
少しずつ、少しずつ、竜から瘴気がぬけて、元の白い色に戻り始めた。
「淡海。淡海。」
蛍が名前を呼び続ける。
白竜の瞳に淡海の意識が戻った。
からだの自由を奪われた竜はゆっくりと淵にむかって落ち始めた。
蛍を助けようと近づいてきた大蛇に蛍は静かに首を振った。
「いいんだ。
もうずっと一緒にいるって淡海と約束したんだ。」
竜の瞳から涙が零れ落ちた。
竜の白いたてがみは蛍の血で赤く染まっていた。
淡海は最後の力を振り絞るようにそっと静かに淵に下りた。
背中の蛍をそっと鼻で押して岸に上げると、淡海は封印に身を任せた。
「淡海、どうしてわたしに、真名を与えた?」
問いかける蛍に白竜はかすかに微笑んだ。
「真名でなければ、封じられることはなかった。」
白竜の姿がゆらゆらと陽炎のようにゆれてうすらいでいく。
やがてその姿がすっかり消え去った後に、人の姿に戻った淡海が倒れていた。
「瘴気だけ封じられればよかったのだけれど…」
悲しそうに言う蛍に、もういいというふうに淡海はゆっくりと首をふった。
淡海はじっと目だけは離すまいと蛍を見ていた。
蛍もじっとその淡海の瞳を覗きこんでいた。
淡海は嬉しそうに、ただ嬉しそうにゆっくりと目を閉じた。
そのときだった。
突然、蛍の目が見開かれた。
そのまま静かに目を瞑ろうとしていた淡海も、びくりと目を見開いた。
「ごめん…お…うみ…」
蛍がいきなり血を吐いた。
そのままゆっくりと前のめりに倒れこむ。
「りゅ、うの…ちから…うけきれない…」
蛍の胸に描かれた紋章がいきなりはじけた。
淡海を捕らえていた光の網も粉々にはじけとんだ。
「蛍さん!」
自由に動けるようになった淡海が蛍のからだを抱き起こした。
蛍は気を失っていた。
大蛇に運ばれて、王子たちがそこへ駆け付けてきた。
千秋は真っ先に蛍の側に駆け寄った。
「剣の儀式を。
早く!」
淡海が千秋をせきたてた。
「蛍さんのからだの中で封印した力が暴れだしています。
早く、すべて天に昇らせないと。」
千秋は何のことか分からないというように呆然と淡海を見ていた。
「早く、千秋さん!」
淡海はぼろぼろと涙をこぼしながら必死に剣を引き抜いて千秋の手に持たせた。
「ぼ、僕は、どうしていいのか…」
おろおろと千秋はためらっている。
淡海がその千秋の瞳をにらみすえる。
「考えなくてもいいんです。
剣の声を聞いて。
ただそれに従って!」
「つ、剣の声なんて、僕には、何にも…」
「よく聞いて。
心をすませて。
あなたならちゃんと聞こえるはずだから!」
「無理です。
ちゃんと継承もしていないものを…」
「大丈夫、あなたが蛍さんを思う気持ちがあるのなら、誰も傷つきませんから!」
「つ、剣の力は両刃の刃となるもの。
むやみにふるうことは…」
動くことのできない千秋に、淡海の瞳が心を決めたように光った。
「分かりました。わたしがやります。」
静かにそう宣言すると淡海は千秋から剣をとりあげた。
その切っ先をくるくると舞いのように動かしつつ、蛍の上に複雑な紋章を描いていく。
小さな声で呪言をつぶやくと、剣が淡く輝き、その光が淡海と蛍の姿を覆った。
「…!」
無言の気合と共に淡海は剣を自らの胸につきたてた。
あっと周りの人々が叫ぶ。
それはさきほどの千秋が見せた技とは違って明らかに淡海のからだを貫いていて、その背中からは剣の切っ先が見えていた。
それでも不思議なことに淡海のからだからは血の一滴もこ流れてはこなかった。
ただ青い光が胸の傷口からあふれている。
淡海はそれを指につけると蛍の上にかがみこんだ。
蛍の身につけた封印の紋章がすべて現れて輝きを放っていた。
淡海はその紋章を丁寧に指でなぞった。
蛍が描いたのと逆になるようにして。
淡海の指の光がなぞった紋章はすっと光を失い消えていく。
すると何かが蛍のからだから抜け出して天へと上っていった。
淡海はただ夢中で、心の中から聞こえる声に従っていた。
剣の儀式のことなど、淡海も見たことも聞いたこともない。
それでもこの声に従えばきっとうまくいくと淡海は信じていた。
蛍を救うためなら何だってできる。
どんなことでもやってみせる。
ただ、それだけ思っていた。
優しく優しく淡海の指は蛍の紋章をなぞった。
究極の癒しの力を受けて、蛍のからだから傷がひとつずつ消えていった。
やがて、すべての傷が消えたとき、淡海は満足げに微笑んだ。
蛍がゆっくりと目を開けて、淡海を見た。
「淡海?」
淡海の胸から流れていた光が赤い色に変わっていた。
蛍は急いで起き上がった。
「淡海!」
蛍は淡海から剣を引き抜く。
そこからあふれ出す血に蛍は呆然とした。
「どうすればいいんだ?淡海?」
淡海も分からないという風に首を振る。
蛍はふと思いついて守りの珠を取り出した。
なぜか、どうしてか、どうしてもそうしなければならないような気がした。
それを淡海の胸に埋め込んだ。
淡海はうんうんとうなずいてから、にっこり微笑んでそのまま気を失った。
淡海の胸に、蛍は雪輪の紋章を描いた。
淡海ならばこれで助かると、なぜか、確信していた。
美しく複雑な紋章を描き終えると、淡海の傷はぴたりとふさがった。
けれど、淡海は目を開けなかった。
名前を呼び続けても淡海は返ってこなかった。
しだいにその呼吸はか細くなっていく。
蛍はあせった。
そのときだった。
心をすませるんです、という淡海の声が聞こえた気がした。
蛍はあせる気持ちを抑えてその言葉に従った。
どこからか静かな歌声が聞こえてきた。
それは水守姫の口ずさんでいたあの歌だった。
知らない詞なのに、気がつくと蛍はその歌を歌っていた。
知らない言葉のはずなのに、蛍にはその歌の意味が分かっていた。
いつの間にか瑞穂が一緒に歌っていた。
千秋も王子までも声を合わせていた。
そこにもっと大勢の力が加わった。
都から駆けつけてきたシキの里の人々だった。
大蛇は歌に合わせるように首を振っていた。
歌声と共に、辺りは深い愛しみと慈しみに満たされた。
そのとき、嵐に傷つき、疲れ果てた山の中に、ふわり、とあの淡い光が灯った。
ひとつ灯った灯はふたつみっつ、みるみるまに数え切れないほどに森全体を覆った。
光のひとつがふわりと淡海の胸に飛び込んだ。
ふたつみっつ、次々に光は続いて、やがて淡海の中へと流れ込む光の流れができた。
それは長い間山を守り続けた水守姫への感謝と、同じ森に生きる仲間を守る森の力だった。
光の洪水が一段落したとき、淡海は何事もなかったかのように起き上がった。
起き上がるなり淡海はいきなり蛍の手を取って言った。
「有難うございます、蛍さん。」
「いや、お礼を言うのはこっちだから。」
蛍もほっとしたように淡海を見返した。
「とてもきれいでしたわ。
本当に、わたしたちはこの世界に生かされているのですね。」
瑞穂はうっとりしたように言った。
「シキとは識。
すべての世界の理を識り、その流れを識るもの、技や力が識の本質じゃない、そうでしたね。」
千秋もぽつぽつとつぶやく。
「つまり識は特別な存在なわけじゃないんだな、なるほど。」
王子の言葉にはシキの里人がうんうんとうなずいていた。
淡海は嬉しそうににこにこと蛍の手に頬ずりをした。
すりすり。
すりすり。
すりすりすり。
すりすり。
すりすり。
すりすりすり。
意外にしつこい淡海がなかなか離してくれなくて、手を引っ込めそこねた蛍が困っていると、はいはい、と千秋が割り込んできた。
「まったく、今日は怪我人続出で、僕も忙しいったら。」
ぷりぷりと怒りつつ、淡海を無理やり引き剥がすと、そのからだを仔細に調べた。
「竜ってのは丈夫なんですかねえ。
あれだけの傷も、もうふさがっていますよ。」
わざとぞんざいに言って、ばんと淡海の背中をたたいた。
「はあ、それは蛍さんに守り珠を頂いたからではないかと…」
けほっとむせてから、恐る恐る淡海が言うと、千秋は目を三角にして怒り出した。
「蛍さまにそんな大切なものを使わせるなんて、まったく、分かっていらっしゃるんですか?
責任を取るお覚悟はおありなんでしょうね?」
「は、はあ…。」
すっかり立場はさっきとは逆転してしまっている。
まあ、それはいつもどおりと言えば言えなくもなかった。
王子がそこに首をつっこんできた。
「なんだなんだ、さっきのは。
なんだか俺は口を挟む隙もなかったが、あれはいったい、何がどうなってどうなんだ?」
「ですから、風花さまが剣の儀式を執り行ってですね。」
千秋は大真面目に解説を始めた。
「あれって、やっぱり蛍さまの剣は風花さまが継承なさったことになるんですの?」
瑞穂も興味津々に話しに加わった。
「いいえ!違います!
継承もせずに風花さまは儀式を強引に推し進めてしまわれたんです。
下手をすれば蛍さまも風花さまも命を失うところですよ!」
千秋はもう一度淡海を睨みつけた。
とりなすように、瑞穂が割って入った。
「それを森の精霊さんが助けてくださったんですわよねえ?」
「たまたま親切な精霊が大勢いてくれたからよかったんです。
あれだけの破壊をしたのに、助けていただけるとは。」
「精霊に命を救われるなんて。
まあ、なんて素敵なお話しなのでしょう。」
瑞穂は両頬を抱えて嬉しそうだった。
「わたしを救ってくれて有難う、淡海。
けれど、そのせいで、もう少しであなたを失うところだった。
あなたを失わずに済んだのは、森の方々のお蔭だ。
それもこれも、水守姫が長い間に森の方々との間に培われた絆があったからだと思う。
ずっと、辛いことにも耐えて、ここにいてくれて、わたしたちと出会ってくれて、本当に有難う、淡海。」
蛍は淡海にむかって深々と頭を下げた。
いえ、そんな、と頬を染める淡海を冷ややかに見下ろして、王子はぼそりと言った。
「蛍の命を救うなど、当然だろう。
そもそも蛍は、何回、仲間を救ったと思っている?」
「蛍さまは、無茶をなさりすぎなんですよ。
本当に、いつもいつも!」
小言を始めようとした千秋の前に割り込んで、淡海は蛍の手を取った。
「いつもお世話になってます、蛍さん。
あの、これからも、引き続きいろいろとお世話していただけると、わたしもなにかと…」
「なにをあつかましいことを言ってるんでしょうか!この人は!」
小言の矛先を淡海に替えた千秋に、淡海はにこにこと返した。
「おや。今、わたしを、人、とおっしゃいましたか?
このわたしが、人と呼ばれる日が来ようとは。嬉しい限りです。」
「おい、蛍。
次は俺のことも、助けてくれ。
お前のシキの力を使って…」
「殿下!
何をこの際とばかりにおっしゃってるんです?
そんなに蛍さんに負担ばかり増やして、あなた方、いったいどういうおつもりなんですか!」
王子、千秋、淡海の三人は、押し合いへし合いをして、互いに互いを押し退けながら、なんとか蛍に話しかけようとした。
「いや、」
「だからですねえ、」
「えっとその、」
「うるさーい!!!」
突然、瑞穂の叫び声が響いて、一瞬辺りは静寂に包まれた。
「じゃ、帰るか。」
あっさりと蛍は歩き出した。




