20
都では近づく嵐に気づく者もなく、人々はひたすらに祭りに浮かされ酔いしれていた。
珍しい手妻を見せる者たちがどこからともなく現れて、人々にさまざまな不思議の技を披露する。
それを不審に思うことすら忘れて、そちらこちらで人々の拍手喝采が沸き起こっていた。
それはひそかに都へと入り込んだシキの里の民だった。
彼らもまた都を守るために、ここへとやってきていたのだ。
明るい笑いを振りまきながらも、シキの里の民たちは都人たちが紋章を失くしたりその効力の届かないところへ行ったりしないように目を光らせた。
うっかり山に踏み込んだ酔っ払いは夢現のうちに我が家の寝床の中にいたし、紋章を失くした者はいつの間にか頬に光る粉で紋章を落書きされていた。
すばやく、都人の目には留まらぬ素早さで、シキの里の民は彼らを守っていた。
闇風を、彼らの里長が封じ込めるそのときまで。
その動きに唯一気づいた都人は王子だった。
祭りは盛り上がり、もはや人々は当の主役であったはずの王子とその花嫁のことはすっかり忘れている。
そのこと自体も、実はシキの里の民の力が働いていたのかもしれないが、王子はこれ幸いとばかりに櫓から降りると馬に乗って水守山へとむかおうとした。
その裾をしっかりと握る手があった。
王子は困ったように見下ろして言った。
「だめだ、瑞穂。つれてはいけない。」
「どうしてですか?」
瑞穂の目はきらきらと王子をにらみつける。
王子はため息をついた。
「危険なんだ。」
「分かっております。」
「ここにいてくれ。
ここなら、シキの民の力が守ってくれる。
頼むから。」
「いやです。」
瑞穂はきっぱりと言うと、胸から守り刀を取り出してびりびりと衣装のすそを切り裂いた。
「わたくしも、一度やってみたかったのですの。
はあーあ、すっきりいたしますわあ。」
目を丸くしている王子の前で思い切り背伸びをした。
「さあ、行きますわよ。」
瑞穂はひょいと王子の馬に飛び乗った。
蛍と淡海の描いた紋章の輝きと共に、闇雲は時間が止まったようにぴたりと止まった。
そして次の瞬間、紋章は黒い雲を巻き込むようにくるくると回り始めた。
紋章に取り込まれた雲は次々と吸い込まれるようにして消えていく。
あっという間に一帯の雲は紋章の中へと封じ込まれてしまった。
「やりましたね!」
千秋の歓声が上がる。
けれど蛍と淡海は黙ったまま、まだ雲のあったほうをじっと見据えていた。
「どうしたんですか?」
千秋が不思議そうに蛍たちに近づいてくる。
その背中に黒い筋が迫った。
一瞬の閃きと共に筋は切り落とされていた。
蛍の手には王子に渡された懐剣が握られている。
蛍の力をうけて懐剣は青く輝いた。
「まだ油断するな。千秋。」
蛍が叫ぶ。
すばやく懐剣を構え直した千秋の前に、またあの黒雲がもくもくとせりあがってきた。
「きりがありませんね。」
蛍と背中を合わせるようにして、雲に取り込まれた千秋が蛍に言う。
蛍の目はらんらんと光ってただ黒雲を見据えている。
千秋は舌打ちをするとゆっくりと蛍の大剣を抜いた。
剣の輝きに雲がひるむのが分かった。
「やはり、これくらいの力は必要ですか。」
「大丈夫か、千秋?」
蛍の声に千秋はうなずくといきなり目前の雲をめがけて切りかかった。
光の剣に引き裂かれた雲は霧のように消え去っていく。
蛍は呪言を唱えて宙に紋章を描き、千秋の背中を守る。
白竜と大蛇は背中に乗せた人と一体になって雲を引き裂き宙を舞う。
やがて少しずつ黒雲は晴れていった。
山には不穏な空気が満ちていた。
白い竜と大蛇とが天空の黒雲と戦っているのがここからでも見える。
どうやってあそこまで行ったものかはとうてい見当もつかなかったが、それでも王子と瑞穂はひたすらに馬を急がせていた。
古えの巫女を山へと捧げたその道が姿を現していた。
草に覆われ木にの根に阻まれてはいても、それは確かに人のつけた道だった。
水守姫の封印の元、長い間忘れ去られていた道を王子と瑞穂はたどっていた。
瑞穂の胸で月澄の守り石が小さく振動を始めていた。
それは瑞穂の身に何かあればいつでもすぐに守れるように構えているようにも思えた。
辺りを小さな動物たちが逃げるように駆け去っていく。
その流れに逆らうようにして馬は山を駆けていた。
切っても切ってもやがて膨れ上がってくる黒雲に、次第に打つ手はなくなってきた。
紋章を描く姫紋ももう残り少ない。
蛍の目に初めて焦りが浮かんだ。
千秋は肩で息をしている。
大蛇の動きにもきれがなくなってきた。
「千秋!」
疲労のあまりの一瞬の隙を、千秋は突かれた。
黒雲に巻き上げられて千秋は宙高く放り出された。
大蛇と淡海がすぐさまその後を追った。
けれど一番早かったのは蛍だった。
自ら宙に飛び出した蛍は、千秋の体を両手で抱えると、ぐいと引き寄せてその額に素早く紋章を描いた。
きらきらと輝く粉が紋章の形になると、千秋の落下の速度は、ほんの少しゆるやかになった。
そこで蛍は千秋から手を離した。
千秋から離れた蛍の体は、まっさかさまに竜の淵へと落ちていった。
すぐさま白竜がそのあとを追った。
激しい水しぶきがあがり、竜の足は水面をかすめて再び宙に舞い上がった。
竜は爪の中にしっかりと蛍をつかんでいた。
けれど、蛍は竜の爪の中でぐったりと動かなかった。
竜が叫んだ。
辺りの木々は振るえ、山が震えた。
黒雲の中に稲妻が走った。
突風が吹き、激しい嵐が訪れた。
王子と瑞穂は森の中でいきなり激しい雨に降り込められた。
前に進もうにも目を開けてさえいられないほどの大雨に、少しの油断でも引き倒されそうなほどの風が加わる。
王子は馬を下りると瑞穂を庇いながら少しずつ歩いた。
遠く、黒い雲の中で竜は狂ったように叫んでいた。
それはさっきまでの白竜の姿とは明らかに違っていた。
何かが、大切な何かが失われた、そんな不安が王子と瑞穂の心を覆った。
嵐を巻き起こして竜は暴れていた。
爪は雲を引き裂き、ばらばらに引きちぎった。
こうなってしまった竜の前に、誰ももうなすすべはない。
あれほど恐ろしかった黒雲でさえ、竜の怒りの前には力を持たなかった。
やがて暗い風を呼ぶ闇雲は引き裂かれ噛み切られて霧消した。
それでも、竜の嘆きは収まらなかった。
竜の呼んだ嵐の雲はいつの間にか瘴気の雲に変わって辺りを覆いつくした。
風が吹き荒れ、大木が一瞬にして根こそぎになった。
竜の淵は大きく波立ち、その波が崖を越えて山肌を洗った。
王子と瑞穂はただなすすべもなく呆然とそれを見ていた。
もはや前に進むことすらかなわなかった。
王子と瑞穂の見守る前で、白い竜がゆっくりと暗く染まっていくのが見えた。
蛍という宝を失った竜は、いとも容易く、心を乗っ取られた。
闇雲の瘴気はただ単に憑りつく相手を変えただけだった。
竜の力を得た瘴気は暗い風よりよほど直接的な破壊を始めた。
稲妻は山を貫き、火の手が上がる。
雨は山肌を押し流し、風があらゆるものをなぎ倒す。
月澄の守りがなければ、瑞穂も王子もおそらく無事ではいられなかったに違いない。
けれど、その月澄の力ももう尽きかけていた。
もはやこれまでか。
王子も瑞穂もそう思った。
そのとき二人の前に大蛇の背に乗せられた千秋が現れた。
「千秋!」
千秋は無事だった。
最後の最後に蛍がかけた術のおかげで大蛇は間に合い、千秋はなんとか無傷で助かった。
けれど、その後の嵐の中では千秋ですらなすすべはなかった。
力の及ばない恐ろしいものから逃げるのは、生き物としての本能だ。
竜から逃げようとする大蛇を、千秋も止めることはできなかった。
そうして逃げてくる途中、瑞穂と王子を見つけたのだった。
「あれは、あの竜は、あいつなのか?」
王子が叫ぶようにして千秋に尋ねる。
千秋はうんうんとうなずいた。
「蛍は!」
王子の問いに千秋は一瞬凍りついたようにぎくりとして、それから力なくうなだれた。
その頬を流れた涙は激しい雨にたたきつけられて押し流された。
「死んだのか?」
呆然とする王子に千秋はもう一度力なく首をふった。
「分かりません。
竜が、淵に落ちる一瞬手前で捕まえたと思うのです。
けれど、蛍さまはそのままぐったりして…」
「動かないのか?」
「蛍さまがご無事ならば、竜はあれほどに狂うことはないと!」
もうそれ以上は言えずに千秋が言葉を切る。
王子と瑞穂は黙り込んだ。
激しい雨がすべてを押し流そうとするかのように降り続く。
嵐の咆哮の中にあるのに、一瞬、すべての音が消え去った気がした。
いきなり何を思ったのか王子が嵐の中を一歩一歩歩き始めた。
千秋がぎょっとしたようにそれを見ている。
「殿下?」
「瑞穂を頼む。」
王子はそう言い残すと、竜のほうを目指して進んでいく。
千秋が急いで追いついてその手を引いた。
「いったい何を…?」
「蛍はあの爪の中なんだな?」
「はい。
しかし…」
「取り戻す。
生きていてもあのままでは助からない。」
「しかし…」
「うるさい、お前は蛍を治す薬でも作っていろ!」
王子に怒鳴りつけられて千秋は立ちすくんだ。
千秋の手に握られていた大剣に気づいて、王子はいきなりそれを取り上げた。
「殿下!いけません!」
千秋の制止も瑞穂の叫びも王子には届かなかった。
王子の手の中で大剣は赤い炎のように燃え上がった。
乗り手を振り落とそうとする暴れ馬のように、人に飼いならされることのない野生の狼のように、剣の力は暴れ、王子の意思に逆らってその手を炎で焼いた。
けれど、王子は叫び声を上げてその力を押さえ込んだ。
「殿下!!」
しゅうしゅうと王子の周りで雨が湯気に変わっていた。
王子の手の中で剣は静かに青い波動を放っていた。
「冴風殿下?」
呆然と見守る千秋と瑞穂に王子はにやりと笑った。
「シキの血がなんだ。
俺にかかればこんなもんだ。
分かったか。」
王子の手は剣の炎に焼け爛れていた。
痛々しく傷ついた王子の手に瑞穂は着物を裂いて巻きつけた。
千秋がそこへ治療の呪言を唱える。
なんとか傷はふさがり、流れ落ちていた血も止まった。
けれど、完全に治してしまうことは千秋にもできなかった。
痛みすらも感じてはいないように、王子は青く輝く剣を振るう。
すると、剣の光の届くところだけは、嵐は切り裂かれたように静まり返った。
二、三度、剣を振るって感触を確かめると、王子は嵐を切り裂いて走りだした。
その王子を大きな影が追った。
大蛇はすいと王子をその背に乗せると竜の元へともう一度飛び上がった。




