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すいすいと山道を歩く淡海の足はよく見ると地面を踏むことはなくて、地表すれすれのところに浮かんでいるようだった。
それでも少しでも蛍に歩きやすい道を選んでいるのか、来たときよりもずっと楽に、蛍は山を下りることができた。
淡海は何度も振りむいては蛍をじっと見ていたが、蛍が目をむけると微笑むだけで、何も言おうとはしなかった。
淡海のあとについて歩いていると、蛍はまったく疲れを感じなかった。
一晩中眠らずにいたのに、心も体も力に満ち溢れているようだった。
ぴんとはりつめたような冬の朝の空気さえ、心地よかった。
しばらくそうやって歩いていた二人は、ふいに同時に足を止めた。
はっと顔を上げた蛍の表情はさっきとは打って変わって固くなっていた。
ほんの数瞬の間、息をひそめて遠くの気配を探る。
事態の推測がつくと蛍はひそめていた息を大きく吐いて、淡海のほうに目をむけた。
淡海はそんな蛍の様子を悲しそうな顔でただじっと見つめていた。
「行かないと。」
蛍がそうつぶやくと淡海はため息と一緒にうなずいた。
「そうおっしゃると思いました。」
淡海の返事も終わらないうちに蛍は駆け出していた。
その背中を見送りながら、淡海はまたひとつ深くため息をついていた。
怪の気配は次第に大きくなって、蛍は確実に近づいていることを感じていた。
やがて少女の悲鳴と、なにやらずるずると大きなモノが地を這う音が聞こえてきた。
少女は必死に逃げていた。
しかし、道らしき道もない山の中、何度も足をとられもう息も絶え絶えになっている。
とうとう追い詰められ、逃げる力を失った少女は、身の丈より高く立ち上がって自分を見下ろす大百足にせめて少しでも抵抗するようににらみつけた。
年は蛍と同じくらい。
けれどその身なりはずいぶん違っている。
およそ実用的でないひらひらした飾りのついた衣は、山の中をこけつまろびつしたせいで、あちこちが破れたり千切れたりしていた。
艶やかな長い髪も、崩れてはいるが、複雑な形に結い上げてある。
どこかの深窓の姫君といった風体だった。
けれど、その瞳はただのおとなしい姫君ではない光をたたえていた。
百足の大木の幹ほどもある太い胴からは恐ろしい爪のある足が何本も生えてうぞうぞと蠢いていた。
それが自分のほうに振り下ろされると思った瞬間、思わず耐え切れなくなって少女は目をぎゅっとつぶった。
ちょうどぎりぎりで蛍はその瞬間に間に合った。
走りながらふところから取り出した珠をかざすと、鋭く短い呪言を唱える。
目を射るような一条の光が珠から放たれ、大百足につきささった。
光は大百足に傷を負わせることはなかったが、その怒りを蛍のほうにむけるには十分だった。
怒って襲い掛かる大百足の爪を軽くかわしながら、蛍は大百足を少女から引き離すように駆けた。
道などなくても蛍には困ることはない。
すばしこく逃げ回る獲物に大百足はますます怒り狂って追いかけてくる。
けれど蛍には捕まる不安などまったくなかった。
ころあいを見計らって、蛍は手近な木の枝に飛びつくと、そのままの勢いでひょいとその枝の上に立ち上がった。
大百足は蛍の足に食いつこうと体を持ち上げる。
けれど、蛍の足には届きそうで届かない。
大百足はますます怒りを燃え滾らせて蛍を狙う。
蛍はそこから少女のほうを見下ろして鋭く叫んだ。
「早く逃げろ!」
少女はさっきの場所に座り込んだまま呆然と目の前の光景を眺めていたが、蛍の叫びにはっと我に返って、なんとか手を突いて体を起こそうとした。
震えて力の入らない足を叱り付けながら何とか立ち上がる。
それを見届けて蛍は再び木から飛び降りた。
すぐ近くに下りてきた獲物に、大百足はかえって一瞬ひるんだ。
その隙を逃さず、再び蛍は駆けだす。
大百足から逃げるだけなら蛍には簡単なことだった。
けれど、今は少女の逃げる時間を稼がなくてはならない。
捕まりそうで捕まらない距離を保ちつつ蛍は駆けた。
あの少女はもう逃げ切っただろうか。
十分に時間も稼げたと思えたころ、大百足の爪を避けてひょいとその後ろに回りこんだ蛍は、そこでぎょっとした。
さっきの少女が細い懐剣を両手で胸のところに構えてがたがた震えながらそこに立っていた。
「何をしている!逃げろ!」
「あ、あなたをおいて逃げられません。」
震える声で叫ぶ少女を背にかばいつつ、蛍は小さく舌うちをした。
振り返った大百足は二つに増えた獲物に容赦なく襲い掛かってきた。
ためらう暇もなく、蛍は大百足の爪に自ら飛び込むように跳んだ。
身をかばうように構えた蛍の腕を、大百足の爪は容赦なく切り裂いた。
きつく巻いてあったぼろ布がほどけて、ほかにも切り裂かれた傷跡の残る腕があらわになった。
そこに新しく加わった傷から、鮮やかな色をした血が滴り落ちた。
脇に逃げたすばしこいが手負いの獲物と、目の前で震えながら小さな剣を自分に向けている獲物。
どちらにしたものかと大百足が考えたその隙に、蛍は自らの傷から流れる血を指につけて素早く傷の回りに封印の紋章を描いた。
小さな声で長い呪言を唱え始める。
手に握る珠が輝きを増す。
同じ光が腕の紋章を彩っていく。
その光は次第に蜘蛛の巣のように広がって、大百足を捕らえた。
捕らえるものと捕らえられるものの立場が逆転した。
自由を奪われた大百足が逃れようと暴れる。
蛍は歯をくいしばってその力を押さえ込んだ。
珠はますます輝きを増し、それにあわせて紋章の輝きも増していく。
恐怖にかられた大百足は死に物狂いで暴れた。
蛍の額から汗のしずくがしたたり落ちた。
けれど、とうとう、蛍の短い気合と共に、紋章の光は強く輝いた。
その瞬間、すべては動きを止め、巨大な光の蜘蛛の巣は捕らえられた大百足の姿と共に一瞬で掻き消えた。
百足の封印を完了すると同時に、蛍は苦しげに腕を押さえてその場に膝をついた。
息が荒い。
駆け寄って背中をさすろうとした少女を、蛍は手のひらで押しとどめた。
「い、今は、触るな…」
ようやくそれだけの言葉をしぼりだす。
蛍の両腕はまぶしいほどの光を放っていた。
蛍は声にならないうめき声をもらして、そのままうずくまった。
蛍の腕に残る傷跡はどれもひどく切り裂かれて、膿んでいるものもあった。
あまりにもひどい傷に、少女は思わず息を呑んだ。
命の恩人ではあっても、それは本能的に恐怖を覚える姿だった。
しかし、それでも、少女はあげそうになる悲鳴を飲み込んで、蛍のそばから離れようとはしなかった。
「大丈夫、少し、休めば、治る、から。」
蛍は少女のほうにそう言いながら、少しずつ体を起こした。
木にもたれるようにして座り、ふうーっと大きな息をひとつつく。
じっと見ていた少女と目があって、少女に微笑みかけられると、不器用に微笑みを返した。
そのとき、カサリと傍らの草が揺れた。
はっとして蛍は目を上げた。
まだ思うように動かない体をふらふらと持ち上げる。
少女も恐怖に駆られた目でそちらを見ていた。
草の陰から再び新しい怪が姿を現した。
「ここはもういいから、逃げろ。」
背中にかばった少女にそう言って、蛍はふらふらと怪のほうへと足を踏み出す。
けれどその体に再び怪を相手にする力は残っていなかった。
それでも気力をふりしぼって蛍が怪を見上げたとき、しゃんという鈴の音と共に、涼やかな声が降ってきた。
「おやめなさい。」
すべてのものが動きをとめてその声のほうを見る。淡い光に包まれた淡海の姿がそこにあった。
みな、かみ、ひめ…?
少女の唇は声に出さずにそう呟いた。
人ならざるモノへの畏怖に押しつぶされて、喉からは声が出なかった。
「この山に立ち入ることは許されていないはずです。即刻立ち去りなさい。」
淡海はぴたりと少女を見据えて言った。
その姿は穏やかながらどこか畏ろしく、その声には誰にも逆らうことのできない力がある。
それはさっきまで蛍と一緒にいた淡海とはまったくの別人のようだった。
「あなたは水守姫ね?」
少女は畏れながらもそう声をあげた。その声はもうさっきのように震えてはいなかった。
「どうか許して。この人はひどい怪我をしていらっしゃるの。」
水守姫と呼ばれた淡海は悲しそうに蛍を見ると、ひとつうなづいた。
「その方のことはわたしに任せていただきましょう。あなたは早くこの山を立ち去りなさい。」
淡海は静かに近づいてくると蛍のほうにむけてそっと手を差し伸べた。
ふわりと風が動き、蛍は耐え難い眠気に襲われたようにそのまま気を失った。
ぐったりした蛍の体はゆっくりと崩れ落ちる。
それをあわてて少女が支えた。
「何をなさるの!
まさか、あなた、彼女がさっき大百足をやっつけたことを咎めようと?!
いいえ、彼女には罪はありませんわ、お願い、水守姫、話を聞いてくださいまし。」
淡海は静かに首をふると少女をなだめるように見つめた。
「分かっています。この方に悪いことはしません。
だから後はわたしに任せてあなたは都にお帰りなさい。」
淡海は優しいけれど有無を言わせない調子で言った。
「あなたがおとなしく立ち去るのなら山の怪はあなたにこれ以上の害はなしません。
けれど、あなたが逆らおうというのなら、容赦はしないでしょう。」
少女は逡巡するように蛍と淡海と、そしてじっと動かずにまだ自分のほうを見ている山の怪とを見比べた。
そうしてひとつため息をつくと、そっと蛍をその場に横たえて言った。
「分かりました。立ち去ります。
けれど、都ではなくて里のほうに通していただきたいの。
あなたが許せばこの山を通り抜けることはできるのでしょう?」
「この山を通り抜ける道はありません。」
淡海はきっぱりと首を振った。
「そんなはずはありませんわ。
だってわたくし、一度この山を抜けているんです。
お願い、わたくしを通して!
弟が、恐ろしい病にかかったと…」
淡海は困ったように小さくため息をついた。
「里にはもう二度と帰ることはできないと、それはよくお分かりなのでしょう?
山の道を開くのは里の姫の都行きのときのみ。
それもいったん行けば二度と戻ることはできない道。」
「そんなことはないでしょう。
だって、あのときわたくしについてきた者はまた里に戻ったと聞きましたわ。」
「戻ることはできます。けれど、それも一度きりです。
再びこの山に入り、戻ることは彼らといえど許されてはいません。
それに、あなたはもはや里の民ではありません。
瑞穂さん、お気の毒ですけれど、どうすることもできません。」
瑞穂は名前を呼ばれてはっとしたように淡海を見た。
「わたくしを…ご存知なの?」
「…都のことならば、ほんの少しだけ知っています…。」
淡海は困ったように目を伏せた。それに瑞穂はすがりつくように尋ねた。
「それなら、もしかして里のこともご存知なのでは?
だったら教えてくださいませ。
里の若長の病はいったいどんなものなんです?」
「…若長の病のことはわたしにも詳しくは分かりません。
けれど、多分、あなたの心配なさっているようなことではないと思います…」
歯切れの悪い淡海に瑞穂はすがりつこうと手を伸ばした。
けれどその手は淡海の姿を素通りして空をつかんだだけだった。
「あ、わたくし、あ、あの…」
今初めて自分の対峙しているものがただの人ではなかったことに気づいたように、瑞穂の勝気な瞳に怯えが走った。
それを敏感に見て取った淡海の瞳がすっと冷たい色に染まった。
「早くお帰りなさい。
お城の方々にあなたの行方が知れないと分かれば大変なことになるでしょう。
あなたの大切な弟君にも迷惑の及ぶことになるかもしれません。」
瑞穂はうつむいた。
それはよく分かっている。
たった一人の肉親の病の噂を耳にして、いてもたってもいられずに抜け出してきたものの、よく落ち着いて考えれば、自分の行動はあまりに危うく無謀なことだった。
本来なら今こうして命のあるのも不思議なくらいだ。
「…わかりました…帰ります。」
淡海は冷たい表情のままでうなずいた。
「そうなさい。あなたにはそれが一番です。
都まではこの光が案内します。」
淡海がさっと手を振り上げるとぽっとやわらかい光が灯った。
「この光といれば山の怪に襲われることもありません。」
「有難う、と申し上げるべきなのかしら?」
「有難いと思わないなら、言わなくてもいいですよ。」
淡々と言われて瑞穂は少し笑った。
「水守姫ってもっと怖い人だと思ってましたわ。あなた、いい方ね。」
瑞穂の言葉に淡海の表情が少し柔らかくなる。
「そう思ってくださるのなら、有難うございます、と申し上げますよ。」
瑞穂の顔にも微笑みが浮かんだ。
「さあ、お行きなさい。早くしないと日が暮れてしまいますよ。」
淡海が袖を差し上げると光はふわりと飛び始めた。
「有難う。」
瑞穂は小さくそう言うと光の後を追った。