19
竜の淵のほとりで淡海は一人たたずんでいた。
風が冷たく強くなってくる。
その瞳には遠く空を覆う瘴気の雲がはっきりと見えていた。
涙はもう枯れ果てた。
何をどうしても竜神は目を覚まさなかった。
いや、もしかして、自分はもうそれを知っていたのじゃないか、と思う。
十年前のあのときに、もう。
それでも竜神はもういないのだということを心のどこかが拒んでいた。
本当に困ったときに助けてくれるあの力はもうないのだということを。
きっと助けてもらえるのだと思いたかった。
ありったけの声で呼べば、きっと応えてくれるのだと。
けれど、もう、ここに竜神はいなかった。
あとは、自分の力でなんとかしなくてはならない。
都を守りたいのならば。
父母の遺志を継ぎたいのならば。
それでも、淡海はためらっていた。
どうすればいいのかはなんとなく分かっているのに、最後の思い切りがつかなかった。
むしょうに蛍に会いたかった。
蛍に会った日、初めて心の何かが満たされたような気がした。
それまではそこに何かが足りないということにすら気づかなかったのに、そこにあてはまるものを見つけてしまった今は、ぽっかりと空いた空虚な穴が、竜の淵の水よりも冷たく心を凍えさせた。
幸せにすることも守ることもできないと思っていても、側にいてほしかった。
望んではいけないと思っても、心は切望していた。
水守姫に立つ前日に淡海の部屋を訪れた新王のことが頭に浮かんだ。
新王は、淡海が巫女に立たなければ自分の娘が立たなければならなかったのだと打ち明けた。
新王は涙を流して淡海に頭を下げた。
けれど、淡海にはそのとき、何の感慨もわかなかった。
ただじっと静かに話しを聞いている淡海に、新王はいつかあなたもこの気持ちをお分かりになるだろうと言った。
いや、分からないほうが幸せかもしれない、とも。
今はあのときの新王の気持ちが分かる。
大切なものを失うことの痛みも知っている。
それは淡海の身を苛んで、辛く苦しく、なのに、その奥の奥でほんのりと甘くすらあった。
この思いを知らないままで終わらなくてよかった、と淡海は思った。
たとえ叶えられなくても、どうすることもできなくても、知らないよりはいい。
蛍に会えてよかった。
淡海はひとつうなずくと右手をさっと差し上げた。
淡海の召還に風が応える。
水守姫としての力は失われたのではなく、やはり自分の中で眠っていただけだった。
ならば。
淡海はひとつ心を決めた。
淡海を取り巻いた風は淡海の体をさらって渦を巻いた。
夜明けはまだだというのに都は不思議な高揚と喧騒に包まれていた。
不思議に思いながら淡海は上空から見下ろしていた。
ほんの一目、遠くから、ちらりと、だけでいい。
その思いを抑えきれずに、気が付くと宙を飛んでいた。
しかし、こんな姿を人目に晒せば、人々を驚かせてしまうかもしれない。
そう考えた淡海は、雲に隠れるようにして、はるか高みから見下ろしていた。
都中になんとなく懐かしい感じのする風が満ちている。
それが雪輪の紋章のものだということの気づいて、淡海ははっとした。
どうしても蛍が戻らなければならないと言ったのはこのためだったのか。
姫紋はそのひとつひとつの効力は小さいけれど、都中に散らばって大きな結界を作っていた。
その中央に、ひときわ明るく輝く雪輪の紋章を、淡海は見つけた。
それは昨日、蛍が王宮に描いた紋章だった。
巨大な美しい紋章はそこから周囲の小さな紋章に力を送っていた。
永久的には守り得ないけれど、それでも、数日の間は都全体を守り抜くほどの強い守護の力が、そこにはあった。
淡海は目を見張った。
蛍はこれだけのことをおそらく本能的にやってのけたのだろう。
シキの紋章の姫と呼ばれる者の力を初めて淡海は見ていた。
それは竜神に匹敵するほどの、あるいは、もしかすると、瞬間的にはそれを超えるほどの守りの力だった。
いつしか王宮の真上まで来ていた淡海は城の物見の櫓の上に懐かしい人影を見つけた。
櫓の周りには明々と灯りが焚かれていて、その姿は光の中に浮かび上がっているようだった。
たった一日離れただけなのに、もうずっと会えなかった気がする。
急いでそこへ近づこうとした淡海は、ふとその周囲の様子に眉をひそめた。
物見の櫓は大勢の人々に何重にも取り囲まれていた。
人々は手を振り上げ口々に何か叫んでいる。
初めは何か怒っているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
人々の声には祝福の思いが込められていた。
もう少し高度を落として、淡海はそっと様子を見守った。
蛍はふわふわとした真っ白な衣装に身を包んでいた。
淡雪の精霊のようだと思った。
ふと、その傍らにもうひとつ人影があるのに気づいた。
蛍が淡雪ならばそれと対になる冬の立ち木のような姿。
やわらかい蛍を守るようにしっかりと手を差し伸べているのは王子だった。
淡海は胸がどきどきとなっているのを感じながら、さらにもっとよく見ようとした。
蛍は王子の腕の中で微笑みながら群集にむかって手を振っている。
殿下、妃殿下、という言葉が群集の中から聞こえてくる。
おめでとう、おめでとう…。
ふいに王子は蛍をひょいと抱き上げた。
蛍の衣のすそがふわりとなって、それが落ち着いたとき、王子は目を閉じて蛍の額に口づけをしていた。
おおーっという歓声が上がった。
そのとき、王子の胸から強い蛍の気を感じた。
襟元にちらりと珠の紋章が見えた。
それは王子の身を守るために蛍が作ったものに違いなかった。
婚礼衣装に身を包んだ蛍は美しかった。
今まで見たどのときよりも幸せそうだった。
ぱたぱたと雨が降ってきたのかと思った。
枯れ果てていたはずの涙だった。
淡海はその光景のすべてに背をむけて、逃げるようにして山へと去った。
何もかもが、もうどうしようもなく悲しかった。
涙が止め処もなく流れ続けていた。
物見の櫓の上で、蛍はふいに淡海の鈴の音を聞いた気がして、目を上げた。
すぐ側にいるのかと思ったけれど、淡海の姿はどこにもなかった。
まさか、こんなところで、聞こえるはずはない。
これほどの歓声の中ではたいていの音はかき消されてしまう。
すぐ側にいる王子ですら、大声で話しかけないと何を言っているのか分からないほどなのだ。
ましてや、かすかな鈴の音など聞こえるはずもない。
そう思いながらも、蛍は空の上を探した。
まだ明けきらない空は暗く、雲の垂れ込めた空に星の明かりも月の明かりもない。
それでも蛍はそこにちらりと動いた何かを見た。
それがどうして見えたのかは蛍にも分からなかった。
ただ、涙を流している淡海の顔がすぐ目の前にあるかのようにはっきりと見えた。
蛍は思わず王子の腕を振り払っていた。
王子の引き止める暇もなく蛍は身を翻して櫓を駆け下りていた。
人々から驚きの声が上がっている。
祭りを台無しにするわけにはいかない、と頭では分かっているのに、足は止まらなかった。
ふわふわとした衣装は足にまとわりついて走りにくい。
おまけに急ごしらえの櫓の階段は段の一つ一つがとても狭かった。
それでも蛍は舞い降りる雪の一片のように段を駆け下りた。
あと少し、と思ったとき、いきなり足がからまって蛍は階段を転げ落ちた。
けれど、そのからだが地に打ち付けられる前に、誰かが蛍の体をしっかりつかまえていた。
はっとして見上げる。
王子がにやりと微笑んだ。
蛍はすぐに自力で立つと王子に短く礼を言った。
王子は何を思ったのか、懐から小さな刀を取り出すと、いきなり蛍の衣装の裾を切った。
まとわりつく余計な布がなくなって、蛍は走りやすくなった。
「月澄の刀だ。
ほら、持っていけ。」
王子はそのまま刀を蛍の手の中に押し付けた。
ちょうどそこへ千秋と瑞穂が駆けつけてきた。
王子と蛍は瑞穂の姿に目を丸くした。
瑞穂は蛍の婚礼衣装とまったく同じものをまとっていた。
「こんなこともあろうかと思いまして。」
瑞穂が優雅にお辞儀をしてみせる。
「嘘です。
本当は、あんまり素敵なお衣装なので自分の分も作ってみたのですわ。
あれほど高いところなら群衆には花嫁の顔などよくは分かりませんでしょう?
こうして被り物をかぶれば、ほら、なお完璧。」
瑞穂はいたずらっぽく笑ってみせた。
「行ってくださいまし。蛍さま。
本当はあなたこそ、こんな偽の花嫁になど、なるべきではなかったのです。
殿下のお気がすむならと、協力したわたくしも愚かでしたわ。
千秋、あなたも。」
瑞穂の傍らで千秋も無言でうなずく。
その背には蛍から託された破魔の剣が、しっかりと背負われていた。
瑞穂は二人にゆったりと微笑むと、王子のほうに手を差し出した。
「さあ、殿下。
蛍さまと同じように大切に扱ってくださいましよ。
みなさまにばれてはいけませんから。」
王子は観念したようにその手をとった。
瑞穂は静々と櫓の階段に足をかける。
瑞穂と共に歩きながら、王子は小さな声でつぶやいた。
「月澄、今日だけ、借りるぞ。」
瑞穂の瞳から涙が零れ落ちていた。
蛍は千秋と共に山に走った。
山には混乱が起き始めていた。
見境を失くして襲い掛かる怪は千秋が蛍の剣で追い払った。
けれどその剣の重さは千秋の腕には余るらしく、少しすると千秋は肩で息をし始めた。
蛍が気遣わしげな目をむけると、千秋は苦笑して大剣をいつもの懐剣に持ち替えた。
「僕は戦いむきではないものですから。」
千秋の懐剣が青い光を放つと、それだけで怪たちは混乱をきたして逃げ去った。
その二人の前にずりっずりっと重いものを引きずるような音が近づいてきた。
明らかに、これまで現れた怪とは格の違う何かの気配だった。
千秋は青ざめて懐剣を握りなおした。
蛍も守り珠を握って呪言を唱えようと構えた。
すぐ前の草むらが分かれて、ふた抱えもありそうなほど大きな蛇がかまくびをもたげた。
千秋の懐剣がひらめいた。
蛍の珠も光を放つ。
けれど、大蛇は悠然とその両方を避けて、ひょいと二人の足元をさらった。
そのまま二人は大蛇の頭のうえに乗せられて運ばれていた。
蛍は驚きつつも、精霊の言葉でそっと大蛇に話しかけた。
蛍の言葉に大蛇はいちいちうなずいてみせる。
そのたびに転げ落ちそうになって二人はあわててしがみついた。
「っこ、この蛇は、いったい、どういうつもりなんです?」
「竜の淵まで送ってくれるらしい!」
千秋の叫びに蛍が返す。
「竜の淵?」
「そこに山の主がいるからと。
助けてほしいと言っている。」
「山の主というのは竜神のことですか?
竜神はそこで眠っているのですか?」
「違う。
竜神じゃない。」
蛍はそれ以上は何も言わなかった。
千秋も大蛇の頭からずり落ちないようにするためにつかまっているので精一杯で、それ以上しつこく聞くことはできなかった。
大蛇に運ばれて、二人は急いでそこへとむかっていた。
淡海は一人、竜の淵のほとりに立っていた。
懐から取り出した小さな守り石を手のひらに握り締める。
それは、顔も知らない母が残してくれた数少ないものの一つだった。
大切なその石は、淡海の手の中で粉々になった。
淡海はそのまま握りつぶした手を差し上げて、守り石の粉を自らの上に振りかけた。
きらきらと細かい光が淡海のからだを覆う。
その瞬間、淡海は静かに淵へと身を躍らせていた。
水音もなく淡海のからだは淵へと吸い込まれた。
後には小さな波紋が静かに静かにひとつ広がった。
何事もなかったかのように淵は静まり返っている。
世界からすべての音が消えてしまったように静寂だけがそこを満たした。
遠い遠い遠雷が、かすかに響いた気がした。
淵の水がゆっくりと揺れ動き始め、やがてその動きは大波となって淵の中心から周囲の崖へと押し寄せた。
ちょうどその波の中心から真っ白な竜が、声にならない咆哮を上げて天高く上った。
蛍は遠く淵の辺りから立ち上る白い竜を見ていた。
余りにも美しく、そして悲しい姿だった。
蛍の思いに呼応するかのように大蛇が速度を上げる。
気がつくといつの間にか大蛇も宙へと飛び上がっていた。
白竜へと変わった淡海は遠く暗い雲を目指して一直線に突き進んでいた。
竜とはいえ巨大な雲の広がりの前ではあまりにも小さくか細い存在に見えた。
それでも淡海はひるむことなく巨大な雲にたどり着くと、いきなりその中央を爪で引き裂いた。
しゃん、という鈴の音が世界に広がった。
白竜は舞を舞うように黒雲の中を泳ぐ。
その爪の先で黒い闇は引き裂かれその隙間から光が差し込んだ。
けれど、闇雲の前では小さな竜はあまりにも無力だった。
淡海の引き裂いた雲はすぐにもくもくと盛り上がって傷をふさぎ、光は再び閉ざされた。
白竜が声にならない咆哮を上げた。
そこへ蛍の叫びが響いた。
「淡海!」
白竜が振り返った。
大蛇の頭のうえに立ち上がったその姿を認めて、白竜は一瞬動きを止めた。
蛍は淡海のほうへ両手をさしのべる。
けれど、淡海は顔を背けるようにしてもう一度黒雲のほうへむかおうとした。
いきなりだった。
何かが淡海の脳裏を貫いたその一瞬後に、蛍の名を呼ぶ千秋の叫びが響いた。
蛍は大蛇の上からまっさかさまに淵にむかって落ちていた。
大蛇よりも淡海のほうが早かった。
首の辺りにすくいとるようにして淡海は蛍を受け止めた。
白竜のたてがみをそっとつかんで蛍はそこに顔をうずめた。
白竜の瞳がそっと閉じられる。
青い涙がぽろりぽろりと零れ落ちた。
「約束だろう?
もう離れない。」
蛍はそっとつぶやく。
淡海の瞳がはっとしたように開かれ、そして、その瞳に力がこもった。
「いくぞ。」
蛍は白竜に言った。
白竜はまっすぐに黒雲にむかって突き進んだ。
「雪輪の紋章を。」
蛍の意図するところは淡海にはすぐに伝わった。
淡海が優雅な紋章を描くように雲の中を泳ぐ。
要所要所に蛍は姫紋を投げて呪言を唱える。
複雑な光の紋章が闇の中に輝き始める。
千秋はただあっけにとられたように淡海と蛍の技を見ていた。
これは古えのシキの技なのかと思う。
しかし、蛍はともかく、淡海はいつそんな技を覚えたのだろう。
淡海にはそれを教える人も書物もなかったはずだった。
竜であった父親にもシキの技を教えられるはずはない。
けれど、今目の前で、白竜となった淡海は、堂々とためらいもなくシキの秘術を使いこなしていた。
紋章の始めと終わりを結び終えると、淡海はすぐに頭を返してその場を離れ始めた。
その背の上で蛍は呪言を唱える。
長い言葉の力の輪が閉じたとき、紋章はまぶしい光を放った。