18
その夜、一睡もせずに婚礼の支度は整えられ、明くる日は早朝から姫紋が都中に配られるべく、勅使によって運ばれていった。
がらんとした部屋の真ん中にぺたりと座り込んで瑞穂はぼんやりしていた。
そこに足音をしのばせるようにして千秋が入ってきた。
千秋はそっと姉の傍らに腰を落とすと、静かに話しかけた。
「お疲れ様でした。姫。」
「あの姫紋はこのためにありましたのね。」
瑞穂は放心気味にそうつぶやいた。
千秋は黙ってうなずいた。
「毎日毎日、本当にどうしてこんなもの作っているんだろうと思いつつも、手が休みませんの。
それほどにこの身に染み込んだお役目でしたわ。
わたしを含めて五代の姫がみなそれをやってこられたのだと思うと、なんだか…。」
瑞穂はじっと千秋を見上げた。
千秋の瞳が問いかけるように光る。
「ねえ千秋、わたくしはそれでも幸せなのですわね。
こうして姫紋がどのようなお役に立つのかをこの目で見ることができたのですもの。
けれども、代々の姫は、わたくしの前の姫たちは、何に使うのかも分からず、それでもひたすらに、これを結んでおられたのですわ。」
千秋は静かに目を伏せて答えた。
「何に役立つかは分からずにひたすらにお役目を果たしてこられた方はたくさんおられますよ。」
「そうですわよね。
シキの性なのかしら。」
「自らの生きる場所を守るがの生き物の本能ならば、すべての空を屋根とし地を家として住まうシキには、この世界のすべてを守るのが宿命。」
「お節介な一族ですわ。」
瑞穂はため息をついた。
「でも、わたくしのお役目もこれで終わりだと思うと寂しくて仕方ありませんの。」
「大丈夫。
まだまだ瑞穂姫にはお役目はございますよ。」
「そう言われるのも、嬉しいような、悲しいような。」
瑞穂は千秋を見上げて笑った。
「本当に立派な里長におなりで。」
そっと手を伸ばして千秋の額に触れる。
それはすっかり優しい姉の手つきだった。
千秋はされるがままになっていた。
「あなたのことを、ずっとずっと心配していました。
あなたはご存じないでしょうけれど。」
「知っておりましたよ。
姉上が都に発たれてすぐ、わたしは里長を継ぎ、都と繋ぐ遠見の鏡も受け継いでおりましたから。
もっとも、姉上のお姿を見ることは適わず、冴風殿下からお話を伺うだけでしたけど。」
「まったく、殿下もそんな便利なものがおありなら教えてくださればよいのに。」
瑞穂が腹を立てたように言うと、千秋は小さく笑った。
「姉上に教えたら最後、日がな一日眺めておられるでしょう。
それではあなたがお幸せになれないだろうと、殿下はおっしゃってましたよ。」
「殿下がわたくしの幸せなどお考えだとは意外でしたわ。」
「あの方はいつも姉上のことをお考えでしたよ。
姉上がこの都へ上がったそのときから。」
千秋の言葉に瑞穂は何か考えるような顔になった。
千秋はそれをじっと見守っている。
「そんなふうに考えたことはありませんでしたわ。」
「姉上のことはずっと月澄様が守っておられましたからね。
けれど、月澄様がそうできたのも、その外側で殿下が庇っておられたからです。」
「わたくし、もっと殿下を大切にして差し上げるべきかしら?」
「そうおできになるならね。」
千秋は肩をゆすってくすくす笑った。
瑞穂も一緒になって笑った。
「殿下はねえ、千秋、蛍さまのこと、本気でお好きなのよ?」
しばらくして瑞穂がそう言うと、千秋は困ったような目を返した。
「それで、姉上は殿下とわたしとどちらの味方をなさるおつもりなのです?」
「もちろん、どちらの味方もいたしませんわ。
わたくしは蛍さまの味方ですもの。」
瑞穂は背中を伸ばしてきっぱりと言う。
千秋は探るような目をして姉を見た。
「それは、殿下とわたしの不公平を避けるためですか?
それとも、蛍さまのお心がほかの方にあることをご存知だからですか?」
「さあ、どうでしょう?」
瑞穂はくすくす笑いを浮かべるといきなり千秋の頭を抱き寄せた。
「かわいそうな弟君。
本当は何もかも捨て置いてもあなたの味方をしてさしあげたいけれど、そうもいきませんのよ。」
「いいんです、姉上。
僕もいざとなったら何より自分の気持ちを大切にしますから。」
千秋はそう言うと、すっと立ち上がった。
「さあて、休憩はこのくらいにいたしましょう。
姉上も蛍さまの婚礼の衣装をおつくりにならないといけないのでしょう?」
「ああ、そうでした。」
瑞穂も急いで立ち上がった。
「美しいお衣装ですのよ。
あなたも楽しみにしていて。
白い淡雪のような衣ですわ。
蛍さまのお美しさがぐんと引き立つことは請け合いですわ。」
「偽の婚礼とはいえ、殿下もお喜びでしょうよ。」
「わたくし、いつか殿下の花嫁のお衣装をおつくりするのが夢でしたの。
ましてや、その花嫁は蛍さまなんですもの。
この上なく楽しいお役目ですわ。
あのお衣装をおまといになった蛍さまには、あなたもきっと胸のひとつやふたつ射抜かれてしまわれるに違いありませんわ。
お覚悟なさいませ。」
嬉しそうな瑞穂を千秋は皮肉な目で見た。
「他人の花嫁でなければね。」
「婚礼の最中に花嫁を奪うというお話もあるではありませんの。」
「今回はそんなことをするわけにはまいりませんね。
祭りを台無しにするわけにはいかないんだから。
僕もそれくらいは分かってますよ。」
「まあ、つまりませんこと。
そんなだから乙女の心を射止められませんのよ。」
「堅物とでも朴念仁とでもおっしゃってください。
里でもさんざん言われてますからね。
もう慣れてしまいましたよ。」
ふん、とすねたような千秋を瑞穂は微笑みを浮かべて見た。
「わたくしも、蛍さまが義妹になってくださればこれ以上嬉しいことはありませんけれど。
こればっかりは、仕方ありませんわ。」
「ずいぶんなことをおっしゃいますね。
まだまだ僕にだって機会はあるかもしれませんよ?」
「まあ、そう思っていらっしゃいまし。」
瑞穂はおほほほと楽しそうに笑った。
千秋は顔をしかめてみせたが、そのうち瑞穂と一緒に笑い出した。
静かな午後のことだった。
その頃、蛍は王子の居室に来ていた。
「姫紋の配布は終わったな?」
「ああ、やはり少し余ったようだな。
余りはどうする?」
「こちらにもらえると有難い。
どのくらいあるかな?」
「結構あるぞ。
まあ部屋いっぱいとはいかないようだが。」
「それじゃあ先に王宮内の封印をかけてしまおう。
手伝ってもらえるか?」
蛍は紋章を置いてある部屋に行くと、王子に持てるだけの姫紋を持たせた。
「おいおい、俺は荷物もちか?」
「わたしの両手は開けておかなければならない。」
蛍がごく当然というようにそう言うと、王子はどこか楽しそうに苦笑した。
「人使いの荒い姫君だ。
こんな姿を見られたらもう尻に敷かれていると思われるじゃないか。」
「手の空いているものはみな姫紋を配りに行ってしまった。
…いやなら仕方ない千秋を探してこよう。」
「おいおい、いやだなどと言ってはいないだろう?
大体お前、今千秋と歩いているところなんか、城の人間に見られたら、ものすごーくややこしいことになる。」
「何故だ?」
「分からなくて結構。
お前なんかに分かるものか。」
「何か怒っているのか?」
不思議そうな蛍に王子は小さくため息をつくと、ほらさっさと行くぞ、とあごをしゃくった。
蛍は怪訝な顔をしつつもさっさと歩き始めた。
城の要所要所に来ると蛍は紋章を打ちつけたり埋めたりしてその上から呪言を唱えた。
王子はさんざん城中を歩かされ文句たらたらだったが、それでも、両手いっぱいに荷物を抱えて蛍の後を歩く姿はどこか楽しそうだった。
「これで終わりだ。
助かった。」
あれほど抱えていた姫紋のすべてを使い切ったところで、蛍がようやくそう言った。
王子は盛大なため息をつくとそこにしゃがみこんだ。
「王宮をこれほどうろついたのは子どもの頃以来だな。
月澄と遊んだ頃を思い出したぞ。」
「なら、瑞穂をつれてまわればよかったかな?」
蛍のつぶやきに王子は笑った。
「女にこんな重労働をさせられるか。」
「わたしも女だ。」
ああ、そうだった、と王子はつぶやく。
蛍は肩をすくめて笑った。
「まあ、いいさ。
お前は少しも娘らしくないとお祖母様からもよく言われた。
いまだに旅をしていると男に間違われることはよくある。」
「それは失礼なやつらだ。
まあ、この俺の側にいればそんなことはさせないがな。」
「自分が真っ先に忘れていたくせに。」
「ああ、そうだった。」
王子はけらけらと笑うと蛍の肩をばんばんとたたいた。
「いい女だ、お前。
俺はこんなふうに一緒に笑えるやつをずっと探していたんだ。
なあ、明日の婚礼をいっそのこと本当のことにしてしまわないか?」
「それはできない。」
あっさりと首を振る蛍に王子の瞳が少し寂しそうになる。
「俺がシキじゃないからか?」
「それは関係ない。」
もう一度あっさり言われて、王子ははっきりと落胆した顔になった。
「要するに、俺がきらいだというわけだ。」
「王子のことはきらいじゃない。」
「それでも好きじゃないんだな。
ならいっそのこと憎まれるほどにきらわれたほうがましだ。」
王子は蛍の頬にそっと手を伸ばした。
「お前はきれいな冷たい宝石のようだな。
この冷たい頬はどうあがいても俺の手には入らないのか。
この俺がこんなに願っても手に入らないものがあるとは思いもしなかったな。」
王子はくそっと小さく悪態をついた。
王子の頬が柄にもなく赤く染まっていた。
蛍は王子をじっと見ると、屋根に上ろうといきなり言い出した。
「屋根か?」
王子があんぐりと口をあける。
蛍はそれに小さく笑って先に立って庇によじ登りだした。
身の軽い蛍にひっぱりあげられてようやく屋根に上がった王子は、おお、と歓声をあげた。
「遠くまでよく見えるなあ。
いや、見事だ。」
王子は額に手を当ててずっと遠くまで見渡した。
気持ちのいい風が吹いている。
蛍の衣や髪が風をはらんでふわふわとなびく。
蛍は祈るような仕草で小さく呪言を唱えると、傍らの王子をつんつんとつついた。
「なんだ?」
蛍に指差されてそちらを見た王子は思わずもう一度歓声を上げていた。
「きれいだろう?」
蛍も嬉しそうに言う。
今二人のいる場所を中心にしてくるくると美しい光の紋章が王宮の隅々にまで描かれていた。
「姫紋。
雪輪紋。
雪の紋章だ。
この都を百年の間ずっと守ってきた水守姫の紋章だ。」
「きれいだな。山を封じていたのもこの力なのか?」
「そう。
竜は多分、自らの力の尽きるのを知って、それで水守姫にこの封印をかけさせた。
あんたが憎んでいた竜はもうどこにもいなかった。」
「俺はとんだ道化か。
しかし、竜はなんでそんなことをしたんだ?」
「おそらくは、この都が自力で闇風に対処できるようになる時間を稼ぐため。」
「代々の姫に紋章を結ばせたのも竜なのか?」
「それは竜の奥方のお考えかもしれない。
そしてお二人はその要として自分たちの大切な息子を据えた。」
「あいつはやっぱり、俺の先祖ではなかったわけだ。」
「違う。
奥方が都に上られたときには、あの方はもうそのお腹にいらしたんだから。」
「それをあの大后が知っていれば、もう少しあいつの運命も変わっていたのかもしれん。」
「知っていたところで、山に送られたことは変わらないだろう。
それならそうとして竜に返すために。」
「それにしても、姫として育てられるだの、あそこまで冷遇されるだのということはなかったはずだ。
俺はなあ、憎まれ役の大后がなんだか哀れで仕方ないんだ。
大后はただ王を愛していただけじゃないのかと思うとなあ。」
「だから妃を娶らないのか?」
「俺は揉め事はごめんだからな。」
王子は肩をすくめるともう一度紋章を見渡した。
「本当にきれいだ。
これを都のすべてに描くわけにはいかないのか?」
「わたしの力ではこれで精一杯だ。」
「ふうん、つまり、この都どころか周りの山々まで封じていたあいつは、それほどすごいってことか。」
「ただの人ならとてもできなかっただろう。」
「なんだか、お前の口からそんなことを聞くと、無性に腹が立つな。」
むっとした顔の王子に蛍はいきなり懐から取り出したものを差し出した。
「なんだこれは?」
それはきれいな珠を連ねて紋章を形作ってあった。
首にかけられるように長い紐がつけてある。
「これを身につけておいてほしい。」
「俺にはこんなものはいらん。」
王子が突き返そうとすると蛍はひょいと王子の首にそれをかけてしまった。
そのまますばやく呪言を唱えると、王子がどんなにひっぱってもびくとも動かなくなった。
「何をするんだ、お前。
王子の首に紐をかけるとはいい度胸だ。」
「三日ほど、そうしておいてもらいたい。
特別に念をこめておいたから。」
「お前が作ったのか?」
「瑞穂に習った。
瑞穂のほうが上手に作れるんだろうけれど。
どうしてもわたしに作れというから。」
蛍が困ったように言うと、王子は、ふん、と鼻を鳴らして、それならもらっておくか、と付け加えた。
「三日だけでいい。
それはきっとあなたの身を守る。」
「どうせなら、もう少し長く使えるものを贈られたいがな。」
「使いたいなら長く使ってくれてもかまわない。
糸の切れるまでは力を失うわけじゃない。」
蛍が真面目な顔でそう言うと、王子はまた小さくため息をついた。