17
翌朝、くらくらする頭をかかえて蛍が起きてくると、むすっとした千秋が、入り口のところにじっとたたずんでいた。
「ん?どうした?」
蛍がいつものように声をかけると、千秋はぐいとにらみ返した。
その迫力に蛍は思わずひるんで後ずさりした。
「な、なんだ?何をそんなに怒って…」
「蛍さま!」
千秋はぐいと蛍の前に、例の大剣を突き出した。
「もう一度伺います。
どうしてこれを僕にくださったんですか?」
「だ、だって、それはよほどの力を持つものでないと扱えないと…」
「扱えないと?」
「お祖母様がおっしゃったから…」
「お祖母様がおっしゃったから?」
蛍の台詞をいちいち繰り返す千秋を、蛍は不安そうに見上げる。
「千秋は、剣の巫女の血筋なんだろう?」
「どうしてそれを?」
「だって、淡海を助けてくれたとき、剣を使っていたじゃないか。」
「助けてくれた、ね。
…なるほど。」
千秋はうなずくと少しだけからだを引いた。
蛍はほっとしたように息をついた。
「あれを見て、千秋ならこれを何とかできるのかと思って。」
「何とか、とはどういうことです?」
「千秋はこれを抜いてみたか?」
蛍の問いに千秋が無言で首を振ると、蛍はそうかとうなずいた。
「もうずっと長い間、誰もこの剣を抜くことができないんだ。
よほどの力の持ち主でないとこの剣は応えないだろうとお祖母様は言っていた。
そんな意思を持つほどに、これは力のある剣なんだそうだ。」
「なるほど。」
千秋はうなずくと蛍の前から剣を引っ込めた。
「千秋なら、その力があると思った。」
「お祖母様がその力のある者に剣を継承しろと、そうおっしゃったのですね。」
蛍がうなずくと、千秋はそっと唇をかんだ。
「剣を継承すれば、あなたはどうなるかはお聞きになりましたか?」
「わたしが?
どうにかなるのか?
けれど、わたしは紋章の血筋だし…」
考え込む蛍に千秋は舌打ちをした。
「そんなことだろうと思いましたよ。
まったく…」
千秋の苛立ちの理由の分からない蛍はきょとんとしている。
その蛍を千秋はじっと見据えて言った。
「蛍さま、僕はこの剣はお返ししません。」
「あ、ああ、それは、返してもらっても困るんだけど…」
「返さないと困ると言われても、返しませんからね。
ええ、絶対に!」
千秋の勢いに蛍はびくりとからだをすくめた。
千秋はその蛍を見下ろして言った。
「あなた方がそうおっしゃるのなら、もう、僕はいらない気なんか使いません。
分かりましたか!」
はい、と思わず素直に蛍はうなずいてしまう。
それを腹立たしげに見つめていた千秋の瞳がふっと力を失った。
「蛍さま…あなたは、あまりに…」
千秋が何か言おうとしたとき、それは里人の叫び声にかき消された。
「里長さまー、大変です!」
「闇風が!!」
その一言で千秋の顔つきはすっと変わった。
千秋は里長の顔になって里人の報告を受けた。
「闇風が急に勢いを増しました。
もうすぐにでもこちらに襲い掛かってきそうです。」
里人の報告を受けた千秋は真っ先に里の物見の木に登った。
梢に立った千秋は遠く黒雲のように垂れ込めている闇の風を見ていた。
「これは…」
「急がなければなりませんね。」
背中のほうで声がして、千秋がぎょっとして振り返ると、淡海が細い枝の上にすっと立って、黒雲のほうを伺っていた。
「これほどの瘴気は感じたことがありません。
すぐに手を打たなければ。」
淡海の台詞に千秋は強くうなずいた。
「すぐに都に戻りましょう。
殿下には知らせを入れておきます。」
物見の木から下りると、千秋は遠見の鏡の技を使って王子に火急の用を伝えた。
この鏡はもう百年もシキの里と都を繋いでいた一筋の糸だった。
「殿下にはお伝えしました。
では、急ぎ、里を発ちます。」
シキの支度は早い。
蛍も淡海ももうすでに支度は整えていた。
里人の手を借りて一通りの支度を整えた千秋もそれに加わる。
「では、あとは、お話したとおりに。」
千秋は里人に短くそう言うと、振り返りもせずに里をあとにした。
里を出た三人は、風に足を運ばれてでもいるかのように、驚くほどの速さで都にたどり着いた。
王宮の門前で、淡海はあとの二人に自分はここで別れたいと言い出した。
「わたしはこのまま水守山へむかいます。
竜神様をお起こししなければ。
今のわたしにもそのくらいのことはできるはずですから。」
「竜神は、眠っておられるのですか?」
千秋の質問に淡海はうなずいてみせた。
「百年前から。
失った力を取り戻すために。
はじめは冬の間だけの眠りでしたが、今はもうずっと一年中眠っておられます。
けれど、お起こしすればきっと起きてくださるはずです。」
「わたしも行く。」
短く言った蛍を、淡海と千秋はまじまじと見つめた。
千秋のほうが先にうなずいた。
「分かりました。
では、蛍さま、後でこちらに合流してください。
たとえ竜神様が起きなくても、です。」
千秋の言葉に蛍はうなずいた。
そのまま蛍と淡海とは水守山へとむかった。
竜の淵にたどり着いた淡海は、複雑な呪言を唱えて、淵の水にむかって大声で竜を呼んだ。
けれど、永遠の静寂の中にあるような淵の水は、ぴくりともしなかった。
二度、三度と淡海は竜を呼ばわった。
けれど淡海の必死の声も竜には届かなかった。
「なぜ…なぜなんです…」
呆然とする淡海を蛍は複雑な表情で見ていた。
蛍には淡海よりもよく分かっていた。
もうこの淵に竜はいないのだ。
「都へ。
みんなのところへ行こう。」
蛍の言葉に、淡海はいやいやをするように首を振った。
「駄目です。
あれほどの風をただの人に対処することはできません。」
「王子も瑞穂も千秋もいる。」
けれど、淡海は首を振り続けた。
「都を守らなければならないんです。
どうしても。
今度こそ、絶対に絶対に失敗はできない。」
肩に手をかける蛍を淡海は見上げた。
「十年前も同じことがありました。
…あのときも、わたしは父上をお起こししようと…
何度も何度も呼んだのです。
何度も、何度も。
けれど、わたしの声は届かなかった…
風は都を吹き荒れ、多くの人が病に倒れました。」
淡海がぐっとこぶしをにぎりしめる。
爪が手のひらに食い込んで赤い雫が滴り落ちた。
「同じことを繰り返すことはできません。
何としても、何としても、今度こそ風を止めないと!」
「ここにいても打つ手はない。」
蛍の言葉に淡海は目を上げて静かに首を振った。
「いいえ。
そんなことはありません。」
蛍はじっと淡海の目を見た。
淡海もじっと蛍の目を見上げた。
その淡海の瞳から大粒の涙がこぼれて落ちた。
「蛍さん、力をください。
お願いです。
このまま、ここにいて、わたしを助けてください!」
けれど蛍は静かに首を振った。
「わたしは、もう一度都に行かなくてはならない。
姫紋の使い道に気づいたんだ。
あれは、やはり都を守るためのものだ。」
「…どうしても、あなたが行かなければなりませんか?」
すがるような淡海の瞳から蛍は目をそらせた。
「千秋か瑞穂が気づいているかもしれない。
けれど、もし、そうじゃなければ…」
蛍も辛そうだった。
その蛍を見守る淡海の目がふと優しくなった。
「…分かりました。」
淡海は静かにうなずいた。
蛍は感謝をこめた瞳を淡海にむけた。
「きっと、帰る。
なるべく早く。」
蛍の言葉に淡海はもう一度うなずいた。
引き裂かれるような思いに耐えて、蛍は淡海に背中をむけ、走り去った。
蛍が都に着いたときにはもう夜になっていた。
不思議なほどに都の夜は平穏で、いつものような雑多な喧騒に満ちていた。
蛍はただ苛立ちを抱えて王宮へと走った。
真っ先にむかった王子の居室の扉を蛍は声もかけずにいきなり開いた。
「不躾なやつだなあ。
俺でなければ首をはねられても文句は言えんぞ。」
王子の濁った声が届く。
蛍はかまわずにつかつかと歩み寄ると、いきなり王子の襟元をつかみあげた。
「千秋と瑞穂は?」
「…千秋は書庫だ…
瑞穂はさっきから部屋で、あの姫紋とかをくりくり結んでいる…」
「それでお前は何をしている?」
蛍は燃えるような瞳で王子をにらみつけた。
けれど王子は少しもこたえた様子はなく、へらへらと笑った。
「何って?
酒を飲んでいるんだ。
今更、何をすることがある?
打つ手があるなら教えてほしいもんだ。」
台詞のすべてを王子は言い切ることはできなかった。
途中で王子のからだは思い切り宙に投げ出され、自分のいる場所を把握しきらないうちに、したたかに腰を床に打ち付けていた。
「お、おい、いきなり何をする!」
王子が腰をさすりつつ気色ばんだ目をむけると、蛍はそれ以上の怒りを目に浮かべて、王子をにらみつけていた。
「目が覚めたか、愚か者。
お前は王子なんだろう?
都を守らなくてどうする?」
「何かできることがあるなら俺だってやってる!
どうすることもできないのが、俺だって苦しいんだ!!」
王子の血を吐くような叫びに、蛍は怒りを和らげた。
「できることはある。
王子、あなたにしかできない。」
「できることがあるのか?」
王子の濁った目にすっと生気が戻った。
その目にむかって蛍はうなずいた。
「代々のシキの姫の結んだ紋章はどのくらいあるんだ?」
「さあ。
三つの部屋をいっぱいにするくらい、だと聞いたことがある。
処分してはいけないのかと侍従長がこぼしていたが…」
「侍従長の願いが叶うぞ。」
蛍はにっこりとうなずいた。
王子の目が完全に覚めて蛍の目を覗き込んだ。
「あれが役に立つのか?」
「今すぐあれを都の民に配るんだ。
一人にひとつあればいい。
そしてこれから三日の間、決して体から離すなと伝えろ。」
「何のためにそんなことを…?」
「闇風から人の身を守るためだ。」
「水守姫が山を封じていたのと同じことです。
あれは小さな封印を個人個人の上に作るんです。」
王子と蛍が振り返るとそこに千秋が立っていた。
「そもそも結びの中には力の宿るもの。
ましてや、あれは代々の姫がその力を組み込みつつ結んだ紋章。
強力な守護の力を持っています。
全員に届く数があるのかどうか不安でしたが…」
「大丈夫。
生まれたばかりの赤ちゃんからお年寄りまで、みなさんに配ってもまだ余るくらいですわ。」
瑞穂もひょいと千秋の袖の下から顔を出した。
「わたくし、数えるのはちょっと苦手なんですけれども、頑張って数えましたの。
広間三つ分の数ですから、それはそれは大変でしたけれど、たとえ少々間違いがありましても、大丈夫、ちゃんと全員に足りますわ!」
「…しかし、何と言って配るんだ?
闇風のことを大げさにあおれば民は混乱に陥るだろうし、かといって強調しなければ正直にはそれに従うまい。」
すっかり酔いの醒めた目で王子は真剣に考えこんだ。
「何か理由が必要だ。
民が喜んで従うような。」
「王子の命令でも駄目なのか?」
あっさり言う蛍を王子は困ったように見た。
「俺にはそこまでの強制力はない。
何か、相応の理由がなければ…」
「何かのしるしとなさればよいのでは?」
「何のしるしなんだ?
そもそもそれがすぐさまに都中に広まるためにはよほどのことでないと…」
考えに沈みこんだ部屋の中に瑞穂の声が響いた。
「殿下の婚礼式になさればよろしいわ。
祝いの心を持つものはみなこのしるしをつけよと。
殿下ならそのくらいのことはなさりそうですし!」
「おいおい、俺はどう思われてるんだ?」
困ったように言いつつも王子はまんざらでもないようにうなずいた。
千秋も感心したような目を瑞穂にむけた。
「なるほど。
婚礼の式とは姉上にしてはよい考えです。
祭りは都の気を高め強めます。
王子の婚礼となれば祭りになる。
冬至の祭りを終えたばかりのこの時期に、春喜びの祭りまでは日も遠いし、臨時の祭りを執り行うとなれば、そのくらいの理由は必要でしょう。」
「しかし、そうなると花嫁はどうするんだ?」
あ、と瑞穂が口を抑える。
千秋と蛍は大きなため息をついた。
「仕方ありません。姉上…、」
「蛍、やってくれるな。」
言いかけた千秋をさえぎって王子は蛍を見た。
蛍がぎょっと体を引く。
「そ、それは!」
「にせの婚礼さ。
分かっている。
ただ、民への言い訳にはなるだろう?」
王子は蛍にむかってにやりと笑った。
「あとで訂正でも何でもしてやる。
だからとりあえず協力しろ。」
答えられない蛍との間に千秋が割り込んだ。
「そんなお役目なら姉上のほうが!」
「瑞穂はだめだ。」
王子と蛍は同じ言葉を同時に叫んでいた。
千秋がきょとんと目を返す。
「殿下はともかく、蛍さままで…?」
「瑞穂は、だめなんだ。」
蛍は苦いものをかみ締めるようにそう言った。
瑞穂の瞳が蛍をじっと見ている。
その手は衣の中に隠した守り石をしっかりと握り締めていた。
「…仕方ない。」
蛍がため息と共にうなずいた。
王子が嬉しそうに笑う。
「よしよし。
それじゃあ、早速、準備を整えなければな。
精一杯、美しく装ってくれよ、花嫁殿。」
思い切り渋い顔を返す蛍に、王子は声を立てて笑った。