16
里をあげての宴会も流石に三日目にもなると、淡海も蛍も疲れてきていた。
それでも蛍は、里人の心づくしの食べ物や飲み物をとても断ることなどできなくて、勧められるままに飲み、食べ続けていた。
普段、決して口にしない酒を、里人に強く勧められて、蛍はずいぶん飲んでしまっていた。
千秋がそれに気づいたときには、もうすっかり出来上がっていて、日頃の蛍とは、もうまるきり別人になっていた。
「ち、あ、きー、おーい、げんきかー?」
すわりきった目で蛍に見つめられて、千秋はぎょっとした。
「ほ、蛍さま?」
思わず聞き返すと、蛍は千秋のすぐ隣にきて、酒臭い息を吐きながら千秋の顔を覗き込んだ。
「おーい、ちあきー、あんたは、もーすこーし、こう、この、かたのちからを、ぬいたほうがいいぞー。」
逃げようとする千秋の肩を、蛍はぐいと抱き寄せた。
ひゅうひゅうと里人たちが無責任にはやしたてる。
「そらさー、わかおさ、なんてもんに、なっちまって、たいへん、なのは、わかるけどさー。」
蛍がぐいと杯を飲み干すと、傍らの里人がまたすぐにいっぱいに満たす。
千秋は頭をかかえたくなった。
「あーんたは、わかい、んだ、からー、もーちょっと、こー、ちからをぬいて、ねえ…」
「飲み過ぎです、蛍さま。」
千秋が低く言うと、蛍はむっとした顔になった。
「なんだとー、わたしは、よってなんか、いないぞー。」
ぐい、とまた杯をあけて前へ出す。
里人がはやしたてるように競ってその杯に酒を注ぐ。
「ふっふっふっふっふー。」
意味不明の笑い声を上げて、蛍はもう一度杯を干した。
「で、だ、ちあき…」
「分かりました、分かりましたから、今日はもうこのくらいにして、休みましょう。」
「おうっ、いいねえ、若い人たちはあ。」
無責任なはやし声が上がって、座はどっとわいた。
蛍が里人にとってどのように見られているのかは、千秋にはよく分かっていた。
この宴を若長の婚礼の前祝だなどと誤解している者さえいる始末。
これでうちの若長も安泰だと、いったい何度言われたことか。
それでも、それは違うのだときっぱり否定できない自分がいやだ。
いや、本当にこれで安泰なことになれるなら、どんなにいいか、とそう考えかけて、千秋は思わずため息をついた。
「ほお、ため息ですか。
若い人のため息ってのは、いいねえ。」
目ざとく見つけられて、それがまたはやしの種にされる。
「しかし、若長がそんなため息をつく日が来るとは思いもしなかったねえ。」
「うちの里には若長につりあうような娘はもういませんからねえ。
本当に、どうなることかと思っていたが…」
とうとう目頭を抑える者まで現れた。
周りの里人もうんうんとみなうなずいている。
「うちの若長は、悪いやつじゃないんだ。
けれど、ほら、このとおり気難しいからね。」
「たいていの娘は逃げ出すんだなあ。
いやもう、この里の中で若長に嫁ごうなんて剛毅な娘は一人もいないのさ。」
「無理やり誰かを人身御供にするにしてもねえ。
…若長のほうも、すっかりそんな気はないもんだからさ。」
「ほんっと、だめなやつなんだ、これが。」
「そんなこっちゃ娘のほうもかわいそうでしょ?」
里人たちの話に蛍はいちいちうなずいてみせる。
里人たちも聞いてもらえるのが嬉しいのか、次々と競うようにして蛍に話しかけていた。
「ああ、これでわが剣の巫女の血筋もこれまでかと思ったんだが。」
「仕方ないさ。
頼みの綱の若長がこんな朴念仁では。」
「まったく、わしらに育てられて、どうしてこんなふうになっちまったんだか。」
「わしらは、ほら、こんなに陽気な民でしょ?」
「先祖返りなら、もーっと陽気な性格になってもよさそうなものなのに。」
「シキの力だけ先祖並なんだなあ。
性格はもうまーったく違う。」
「なんでこんな暗いやつになっちゃったのかねえ。」
いいように言われている。
それでも、千秋は里人全員にとっての希望の星であり、みんなで大切に育てた若長には違いなかった。
だから千秋を見る里人の目はみんな温かいし、千秋もそれが分かっているから言い返すこともできない。
「いや、しかし、蛍さまのような方を見つけてこられるとは、うちの若長も隅に置けない。」
「なになに、照れることはない。
若長の目を見ていればよく分かりますさね。」
「いや、しかしあの若長を手なずけてしまわれるとは。」
「こーんな若長を生きているうちに見るとは思わなかったねえ。」
「ほんと、いいものを見せていただきましたよ。」
「堅物の朴念仁かと思いきや、いやいや。」
「ため息だもんねえ。
へっ、やってられねえや。」
座がひとしきりまたどっとわいた。
中の一人がしみじみとした目で蛍を見て言った。
「これで、お二人の血を引くお子様がお生まれになれば、一族も安泰。」
「そうそう、ここは是非急いでいただきたいね。」
「若い人はもう少し二人がいいとか言うけどねえ。」
「子守はほら大勢いますからね、あとのことはわしらに任せておいて。」
「なーんも心配なんかいりませんから、ほら。」
「頼みましたよ、蛍さま。」
「は?ちょっと、待て、いったい何を頼んだって?」
千秋の噂話をしていたつもりが、いきなり何かを頼まれて、蛍はきょとんとなった。
そんな蛍を見て、千秋はもう一度盛大なため息をついた。、
誰かが蛍にこれ以上余計なことを言わないうちにさっさと連れて行こうと、千秋はちょっと強引に蛍の手を引いて立たせた。
おーっとっと、と蛍がよろける。
足元が少し覚束ない。
思わず千秋が手を伸ばして支えると、里人は一斉に歓声を上げた。
何を勘違いしたのか蛍は手を上げて歓声に応えていた。
「いい加減にしてください、蛍さま。」
思わず千秋は蛍を見下ろして鋭くそう言っていた。
若長の冷ややかな怒りに、一瞬にして座はしんと静まり返った。
誰もが息をひそめるようにして成り行きを見守った。
…ただ一人を除いては。
「なーにを、そんなに、おこってるんだー?」
蛍はきょとんとして千秋を見返した。
「なあ、ちあきー、そんなに、ぷりぷり、ぷりぷり、おこってばっかりいるとー、」
「怒ってばかりいると、どうなんです?」
中途半端なところで蛍が黙り込んだので思わずそう問い返したところで、千秋は蛍が立ったまますやすやと眠っているのに気づいた。
「蛍さま…?」
声をかけた途端、蛍が千秋のほうに倒れ掛かってきて、思わず千秋はふらりとよろける。
しっかりしてくださいよー、という声がすかさずかかった。
やむをえず、千秋は蛍をひきずるようにして運び出した。
ここであえて手を貸そうという里人は現れなかった。
手伝ってほしいと自分から言うのも癪で、四苦八苦しつつもなんとか蛍を運んでいくと、座を少し離れた木の陰に、淡海が静かに佇んでいた。
「大変でしたね。」
淡海はかすかな微笑みを浮かべてそう言うと、そっと千秋の腕の中から蛍を抱き取った。
淡海が軽々と蛍を抱き上げるのを見て、千秋は目を丸くした。
「余計なお世話かもしれませんが…。
蛍さんもいつまでもひきずられていらっしゃるのはお気の毒ですし。」
淡海は言い訳をするように言って、先に立って歩き始めた。
あまりに迷いのないその足取りに千秋はもう一度目を丸くした。
「風花の君…もしかして見えているんですか?」
え?と振り返る淡海の目はしかし、しっかりと閉じられていた。
「あ、ああ、そうでした。」
淡海はまるで千秋の反応が見えていたかのように微笑んだ。
「たいていのことは、普通にできるんですよ。
この目は見えていませんけれど、いろんな感覚を使って“見えて”いるんです。」
「で、でも、いつも、ずっと、蛍さまに、お手をとっていただいて…」
「それはですねえ、ふふふふふ。」
淡海はいきなり笑い出した。
千秋は狐につままれたような顔になる。
淡海は首をかしげるようにして楽しそうに言った。
「この世界に歩き出すのには、蛍さんに手をとっていていただけなければ、あまりにも不安で、恐ろしくて…」
淡海は、腕の中の蛍を大切に大切に抱え直した。
その表情は胸に光を抱いていた水守姫のものに重なった。
その顔に寂しそうな影がふとさした。
「でも、もうこれからは控えるようにいたしますから。」
淡海はそうつぶやくと、ちょうどたどり着いた客人用の仮小屋の入り口をくぐった。
すでに用意されていた寝具の上に、淡海は蛍をそっと横たえた。
千秋はその間に火を起こす。
それぞれの用を終えて、二人はどちらからともなく蛍の寝ているすぐ側に腰を下ろした。
「よく寝ていらっしゃいますね。」
蛍の寝息に耳をすませるようして、淡海は微笑んだ。
「飲みすぎですよ。」
千秋がむっとして言うと、淡海はとりなすような笑顔を浮かべた。
「断りきれなかったのでしょう。
みなさんがとても親切にしてくださるから。
そういうことが、蛍さんにもわたしにも、今まではとても少なかったから、だから、嬉しくて断れないんです。」
一族から離れた孤独なシキの寂しさをにじませると、千秋はむっとしたように返した。
「そんなこと、わかってますよ。
僕はもうずっとずっと、あなたが蛍さまと知り合うずっと前から、蛍さまと一緒に旅をしていたんですから。
行く先々で蛍さまがどれほどつらい思いをしていたか、それでも、人を助けるために怪を封印して、そのことをまた悲しんで…
そうまでしても、石を持って追い払われたことすらあるんですから!」
千秋は怒ったようにそう言ってから、小さく、すいませんと謝った。
「あなたに言っても仕方ないことでした。」
淡海は小さく首を振った。
「いいえ。蛍さんのお話なら、どんなことでもお聞きしたいです。
蛍さんが涙を流したときのことも。蛍さんが笑顔を浮かべたときのことも。
みんな、みんな知りたい。」
それから、寂しそうに微笑んだ。
「千秋さんはどうやって蛍さんと出会ったのですか?」
「夢つなぎの技を使ったのです。
薬を使って深い眠りに入り、魂だけの存在になって世界を巡る。
実際に旅をするよりも格段に早く動くことができるので、これで僕は古えのシキの血をもつ方を探してまわったのです。
里の民の力だけではとうていあなたに会うことすらできそうにはありませんでしたから。」
「では蛍さんが水守山に入られたとき、急いで行かなければならない用があるとおっしゃっていたのは、あなたのことだったんですね?」
「水守山には入らないようにお願いしたんです。
あの山にだけは僕の力ですら入り込めませんから。
けれど蛍さまはお入りになって…
まあ、そんなところから今へと続くわけですから、一概に何がよくて何がよくなかったかはいえませんけれど…」
千秋は皮肉な目をして淡海を見る。
淡海はそれに穏やかな微笑みを返した。
「それではわたしが蛍さんにお会いできたのもあなたのおかげというわけですね?」
「さあ、それは。
すべて起きることは起きるべくして起こるものですし。
僕もその一要因に過ぎないでしょうから。」
千秋は憮然としてそう答えた。
そのときふと眠っているはずの蛍が言った。
「なあ、ちあき、あんた、そうまいにち、おこってばかりいると、はやくふけるぞー。」
「僕はね、早く老けたいですよ。
一日も早く。
あなたに追いつけるくらいに。」
千秋はそうつぶやいて蛍を見下ろした。
さっきのは寝言だったらしく蛍はすやすやと寝息を立てている。
淡海が小さく笑い声を立てた。
「そんなに急いで年をとらなくても、大丈夫ですよ。」
千秋は恨めし気に淡海を見た。
「あなたには分かりませんよ。
百年も生きていらっしゃる方には。」
「わたしは大年寄りですか?
ふふふふ、そうかもしれませんけど。
でも、わたしには千秋さんの若さがうらやましいですけれどね。」
淡海に笑われて千秋はすねたように言った。
「どんなに頑張ったって、僕には蛍さまを超えられないのは分かっているんです。
蛍さま守れるほどの男になりたいのに、僕には追いつくことすらできない。」
「…そんなことはありませんよ。
あなたは立派な若長じゃないですか。」
千秋を励ます淡海の言葉には寂しさが混じっていた。
「あなたはこれからもますます立派になって、そうして蛍さんと一緒に生きていくことがおできになります。
あなたのお力は蛍さんを助けられるし、蛍さんはきっとあなたを助けてくださるでしょう。
お二人は理想的な…理想的な…その…」
口ごもった淡海を千秋はじっと見据えた。
そして口を開いた千秋の声はいつもより格段に低かった。
「本気で、そんなことをおっしゃってるのですか?」
「だ、だって、ほら、蛍さんは、あなたに、剣を!」
そこまで言った淡海の瞳に涙が溢れ出した。
千秋はそっと目をそらせた。
「蛍さまは、多分、きっと、おそらく、絶対に、その意味をご存知ありません。」
「だとしても、蛍さんがあなたを剣の継承者に選んだのは事実です。」
「何かの間違いでしょう。」
「それでも、それでも、それが事実ならば、やはりそこには剣の意思が…!」
「剣の意思ですか?
そんなものにすべてを委ねてしまっても、あなたはいいんですか?」
千秋に見据えられて淡海は体を硬くした。
「あ、あの、わたしは、…」
「あなたがいいとおっしゃるのなら、僕はもう迷いません。
ええ!迷いませんとも!」
千秋の怒りに淡海はからだを小さくすくめた。
そのまま小さな声で淡海は悲しそうに言った。
「…現身に戻って、水守姫としての力も失ってしまって、わたしにはもう、何もないんです。
わたしは蛍さんの足手まといにしかなりません。
けれど、あなたは違う。
一人前のシキの里長で、大勢の方にあんなに慕われて…
あなたには温かい仲間の中に居場所がある。
そのすべての中に蛍さんを迎えてさしあげることがおできになる。
けれど、わたしには…」
「本当に、あなたはそう思ってらっしゃるんですか?」
千秋ににらみつけられて、淡海は顔を上げることすらできなかった。
それでもそのあごが小さく引かれるのを千秋はじっと見ていた。
「…剣の継承を、してさしあげてください。」
淡海の小さな声に千秋はぎょっとしたようにからだを引いた。
そこへ淡海の小さな声が続いた。
「そうすれば、蛍さんの苦しみを楽にしてさしあげることができますから。」
「…継承の儀式がどういうことか、あなたはご存知なんですか?」
千秋の震える声に淡海は意外なほどはっきりとうなずいた。
「あれほどの封印を身のうちに抱えるのは、蛍さんの命を削ることになります。
少しでも早く、その負担を軽くしてさしあげなければ!」
「それだけじゃないんです。
剣を継承するということは、すなわち!」
「…知っています。
わたしの母も蛍さんと同じ紋章の巫女でした。
父は人ではない身ながら、母の剣を継承したのだそうです。
そして、二人は、永遠の契りを交わしたのです。」
千秋は呆然と目を見開いた。
「知っているのに、その上で…?
本当に、本当に、あなたはそれでかまわないんですか?
…自分が、とは思わないんですか?」
くってかかるような千秋を淡海はじっと見返した。
「わたしには、蛍さんが必要です。
でも、蛍さんにわたしは必要ではない。
わたしには、剣を継承するだけの力はありません。
千秋さん、あなたほどのお力がなければ、あの剣を継承することはできないでしょう。
力を失ったわたしにはどうすることもできないのです。」
千秋は淡海の襟をつかんでぐいと引き寄せた。
けれどじっとされるがままの淡海に、ぷいと投げ出すように手を離すと、そのまま背をむけて外に出て行った。
取り残された淡海は眠る蛍をじっと見ていた。
その瞳からは次々に涙が流れ落ちていた。