15
王宮の一室に淡海は王子の賓客として迎え入れられた。
千秋と蛍はつききりで淡海の看病をした。
あれほど苦労して摘んできた薬草は大いに役に立って、千秋の作った薬で淡海のからだの毒は少しずつ中和されていった。
やがて寝台の上に起きられるほどに回復すると、瑞穂や王子もこの部屋にやってくるようになった。
すぐに、淡海の部屋は皆のたまり場となった。
瑞穂はこよりで手遊びのようにいつもくるくると雪輪紋を作っていた。
「姫紋をたくさんたくさん作るようにと、代々の姫はそれだけはしっかり守らされているんですの。
このところ忙しくてあんまり作っていませんでしたから、ご先祖様方に叱られてしまいますわ。」
ほんの少しの間にも瑞穂は雪輪の紋章をくるくると結ぶ。
手元を見なくても作れるらしく、あれやこれやとしゃべりながらいくつもいくつも作っていた。
やがて歩けるほどに淡海が回復すると、蛍は淡海を外に連れ出した。
現身に戻って再び失った視力は、千秋の力をもってしても回復させることはできなかった。
それでも、淡海は少しも残念そうではなかった。
蛍に手をひいてもらいながら、淡海はいつもにこにことその後をついてまわっていた。
庭園を散歩している二人の様子を少し離れたところから眺めていた瑞穂は、両脇の王子と千秋に言った。
「水守姫は、本当は姫ではなかったんですよね…
よろしいのですの?殿下?千秋?」
千秋は赤くなってうつむいた。
目が少し怒っている。
王子は小さくため息をついて笑った。
「まあ、今あの方から蛍を取り上げるわけにもいかんだろう。」
「御子様は病み上がりでいらっしゃるのですから。」
千秋がそう付け加えると、瑞穂は二人を哀れむような目で見た。
「お気の毒ですわ。お二人とも。
でも、これは勝ち目はございませんわね。」
「うるさい!」
王子が短く言う。
けれど、それほど怒っているふうでもない。
千秋のほうは少しむっとしたように目をそらせた。
風に乗って淡海の笑う声がかすかに届いてきた。
庭園の椅子に腰掛けて、何やらせっせと蛍に話しかけている。
「しかし、俺にはどうも、ああしていると、姫君が二人戯れているようにしか見えんのだが。」
王子がぼそりとつぶやいた。
千秋もうんうんと何度もうなずいてみせた。
現身に戻っても、淡海の髪は白いままだった。
流れる滝のように生き生きとした光を放つその美しい髪を、蛍は四苦八苦しつつ結んでやっていた。
「シキの紋章はあれほどすいすいと描くやつが、髪を結うのにはあれほどてこずるものだな。」
王子は面白そうにそれを見て言った。
「手伝って差し上げましょうか。」
そう言って足を踏み出そうとした千秋を、瑞穂がぐいと引き止めた。
「馬に蹴られてしまいますわよ。」
「けれど、あれではあまりにお気の毒です。」
淡海の髪は妙な具合に結ばれて、それは結ったというよりは、もつれたといったほうが正しいような有様になっていた。
「いいのですわ、それでもあのお二人がお幸せなら。」
瑞穂の言葉に合わせるように淡海の笑い声がまた響いてきた。
ふん、と鼻を鳴らして、王子は背をむけてどこかへ行ってしまった。
千秋もぷいとどこかに立ち去る。
瑞穂だけがいつまでも嬉しそうに、蛍と淡海の様子を見ていた。
回復した淡海は、現身を取り戻したときの経緯を皆に話して聞かせた。
王子は心底驚いたように、また感心したように、蛍を見た。
「俺は、瑞穂ほど無鉄砲なやつはいないとずっと思ってきたが、上には上がいるものだな。
それとも、シキの姫ってのはみんなそうなのか?」
千秋がむっとして言った。
「まさか。
姉上と蛍さまが特別なんです。
本当にそんな無茶をして、あなたか風花の君かのお命が失われるようなはめになったらどうするおつもりだったんですか?」
淡海はいつの間にか風花の君と呼ばれるようになっていた。
姫ではないのに水守姫とも呼びにくかったのだ。
それに、水守姫の名の由来を知ってからは、そう呼ぶことも憚られた。
千秋に叱られて蛍は首をすくめた。
「まあ、なんとかなったから…」
「はい。なんとかなりましたから。」
蛍の後ろで淡海がにこにこと付け加えた。
淡海はもうすっかり水守姫であったころの印象はなくしてしまって、今は蛍の付属品のように、しじゅうついてまわっていた。
「まったく、もう、風花の君にも、もう少ししっかりしていただかないと。
僕は里に帰ることもできません。」
ぷりぷりと千秋が言う。
それに王子が、あ、と小さくつぶやいた。
「里に戻るのか、千秋?」
王子にむかって千秋は静かに頭を下げた。
「殿下のお許しがいただけるなら、一度戻ってきたいのです。
里のこともいろいろと心配なものですから。」
「若長どのはお忙しいお身の上だからなあ。
いや、それなら一度帰ってくるといい。
ただし、必ずまたここに戻ってほしい。
それも、なるべく早くに越したことはない。
水守山の封印が破られたことを、まだ都の民は知らないが、そのうちに知れ渡るだろう。
その前にやらなければならないことは多いからな。」
「承知しております。
里での用が片付けば、なるべくすぐに戻ってまいります。」
千秋はそう言ってゆるりと頭を下げた。
それを見た蛍は、何を思ったのかいきなり席を立ちあがった。
すぐ側から蛍の気配が消えた淡海が、途端にきょろきょろと不安そうになる。
けれど蛍はすぐに戻ってきた。
その手には長い旅の間ずっと背負ってきた破魔の剣が握られていた。
「千秋、これを受け取ってほしい。」
蛍は無造作にぐいと大剣を千秋のほうへと差し出した。
玉石に彩られた美しい束をもつ立派な大剣を見て、千秋の目が丸くなった。
「お祖母さまの言いつけで、わたしはずっとこの剣を継ぐ力をもつ者を探していた。
千秋ならば使いこなせるだろう?」
「ほ、蛍さま、こ、これは…その…」
千秋の頬に血の色が上る。
めったに取り乱すことのない千秋が明らかにあせっていた。
「ほ、本当に、いいんですか?
僕が、その、これを頂いてしまっても…?」
蛍はうなずいて大剣を千秋の手の中に押し付けた。
大剣を両手に抱えて、千秋はもう一度蛍の顔をうかがうようにした。
「あ、あの、蛍さま?
ええと、その、…本当に、いいんですね?」
「千秋ならお祖母さまも納得してくださるだろう。」
「それはもちろん、僕は天地神明のすべてに納得していただけるようにするつもりです、けど。
いえ、でも、しかし、その…」
千秋は口ごもると、困ったように押し付けられた大剣と蛍の顔をかわるがわる見比べた。
「気がすすまないなら、無理にとは言わないが…」
不安そうになった蛍が大剣を受け取ろうと手をだすと、千秋はあわてて大剣を抱え込んだ。
「いいえ、いいえ、そんな滅相もない。
はい、つつしんでお受けいたしますとも。
はい。
…はあ。」
最後に場違いな大きなため息をついて千秋は大剣をもう一度しげしげと見た。
その様子を淡海は蛍の後ろで身を潜めるようにして伺っていた。
淡海の頬に以前の冷たく凍るような表情が浮かんでいるのに、誰も気づいてはいなかった。
里に戻る千秋に淡海と蛍は同行することになった。
千秋が淡海を一度里に連れて行きたいと申し出たのだ。
蛍と一緒なら、と淡海は条件をつけた。
もちろん、千秋にとっても、それに否やはなかったし、蛍もシキの民の里には興味があったので、三人は一緒に行くことになった。
淡海のいた山とはちょうど都を挟んで反対側にある山を半日ほど歩いたところに、シキの民の隠れ里はあった。
そこも以前は淡海の封印によって閉じられていて、ただ千秋だけが行き来を許されていたが、今は蛍も無造作に入り込めるほどに封印はすっかり解けてしまっていた。
三人は里の民から大歓迎を受けた。
百年の悲願を達成した里人たちは、御子の帰還を喜ぶ祭りを三日三晩かけて執り行った。
ずっと以前に別れた一族の生き残りである蛍の存在も、里人にとっては大切な客人だった。
そもそもシキにはシキ同士、相手を大切にもてなす習慣がある。
互いに旅の中に生きる民として、心細い日常の中、同じ血を持つ一族と出会うことはとても珍しく、貴重なことだった。
宴には、里で長い年月大切に醸された秘蔵の酒や、こつこつと蓄えられてきたご馳走が、ずらりと並んだ。
日ごろは質素な生活をするシキにとって、客人をもてなすのは、時ならぬ祭りを迎えるのと同じくらいに、楽しいことだった。
祝宴は大いに盛り上がり、蛍も淡海もずっと幼い頃からここで育った里人の一員のように、温かく迎え入れられていた。
それは蛍にとっても淡海にとっても、生まれて初めての経験だった。
けれど、この里とて、平穏な中に安住してきたわけではなかった。
流行病のために森の中で動けなくなり、木々の枝の上に小枝や蔦、木の葉で作られた仮の宿りは、この百年の間ずっと変わらず、里人は手入れをしながらもそのままで住み続けていた。
しかし、彼らにとって、ここはやはり仮の里に過ぎなかった。
シキの本来の家は旅の中にこそあるのだから。
彼らはそれほどに彼らの姫の帰還を切望していた。
そして辛抱強く、ただひたすらに待ち続けていた。
長い定住生活は、彼ら自身にもまた変化をもたらしていた。
シキとしての技の多くはすでに失われ、都の人々ともそう変わらぬ生活を、彼らはしていた。
ただ、シキの薬の知識だけは大切に伝えられ、彼らは森の中で集めた薬草を薬にして、それを少し離れた集落に売りに行くことで生活を支えていた。
そんな生活は、シキとしては不自然なことだった。
中にはシキであることを捨てて集落に移り住み、そこの住人として溶け込んでしまった者も多い。
そうなった者を彼らは決して責めないけれど、それでも、そうなってしまった者は、もうシキではなかった。
この百年の間に、そうやって少しずつ里の民は少なくなり、今はもう以前の半分もいないということだった。
そして里にはもうひとつ難問があった。
それは千秋の後、一人の子どもも生まれていないということだった。
里の若長は文字通り里で一番若い、長だった。
千秋が五歳のとき、瑞穂は都へと送られた。
そのすぐ後で都を覆った闇風は里にも流行り病をもたらした。
千秋の両親もそれに倒れ、千秋はたった五歳で父の後を継いで若長となったのだった。
もちろん、里人は一人きりになってしまった千秋を助け、みなで長として守り育ててきた。
それでも、長であるという責任を、千秋は幼いころからずっと小さな背中に背負ってきた。
そしてそれに応えるために必死に努力をしてきた。
人よりも多くを見、聞き、知る。
千秋は誰かが見ているときも、誰にも見られていないときにも、ずっとそれを心掛けてきた。
千秋にはまた先祖返りと呼ばれるほど、シキの技への適応力があった。
千秋は独学で多くシキの技を会得していた。
そんな千秋は次第に里人の間で、立派な里長として、信頼と尊敬を集める存在となっていた。
今では誰もが千秋を立派な若長と称えるが、本当はその裏には、千秋の血を吐くほどの努力があったことを、知る者は少なかった。